石上布都魂神社(いそのかみ・ふつのみたま・じんじゃ)
岡山県赤磐市石上字風呂谷
祭神 素盞鳴尊
岡山県赤磐市石上字風呂谷
祭神 素盞鳴尊
吉備津彦神社とともに備前一の宮二社のひとつ
宮司は物部姓である。http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/isonokamifutsumitama/isonokamifutu.htm
宮司は物部姓である。http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/isonokamifutsumitama/isonokamifutu.htm
赤磐郡は岡山県の西端 岡山市に隣接。今、赤磐市。
有名なものに古代赤米を使った清酒「赤磐小町」(筆者試飲したが甘くてパス。一升で一万円と言うのでパス)。
有名なものに古代赤米を使った清酒「赤磐小町」(筆者試飲したが甘くてパス。一升で一万円と言うのでパス)。
日本書紀第8段第3の一書『其素戔鳴尊断蛇之剣、今在吉備神部 許也』
同第2一書『其断蛇剣、号曰蛇之麁正、此今石上也』
とあることから、素 戔鳴尊が八岐大蛇を退治したときの剣が本社の神宝であるとする
仁徳朝(崇神朝ともいう)に、当社の十握剣を大和の石上神社に遷したとの伝承があること
・明治7年に、石上神宮の禁足地から古墳時代(4~6世紀)の遺構から多出する環頭太刀(カントウタチ)が発見され、これが十握剣とされること(詳細下記)などからみると、古墳時代(崇神朝とすれば4世紀前半頃、仁徳朝とすれば5世紀前半頃)には創建されていたかもしれない。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/ichi-hutu.html
由緒
創立年代を詳らかにすることはできないが、日本書紀に 「其素盞嗚尊断蛇之剣今在吉備神部許也」 と、また 「其断蛇之剣号日蛇鹿正此今在石上也」 と記されており、種々の論考がなされている。
『備前國式内書上考録』(明治初年)に、
「上古素盞嗚尊蛇を断の剱は当社に在事明らかなり。 其後崇神天皇の御宇、大和國山辺郡石上邑へ移し奉るとあれば当社を癈せられしとは見えず、又延喜式神名帳にも大和國と当國と両國に布都魂神社を載せられたれば、当國石上神社を大和國に勧請して地名も石上といいしならん。 さすれば当國の石上本社なる事も分明なり。 又、垂仁天皇の御宇に剱一千口を作りて石上神宮に蔵むとあれば、蛇を断の剣も当國にある事分明なり。 され共、神道次第に衰へ、石上ふるきむかしのことを知る人もなくなりければ、大守曹源公是をなげき給ひ、大松山村の内にして地高二十石を神領とし、祠官金谷肥後を旧姓物部に復して栄事を司らしめ、又其後宝永七年寺社奉行門田市郎兵衛貴通、作事奉行村瀬勘九郎俊重に命して宮殿を再造有りし。」 と記されている。
「上古素盞嗚尊蛇を断の剱は当社に在事明らかなり。 其後崇神天皇の御宇、大和國山辺郡石上邑へ移し奉るとあれば当社を癈せられしとは見えず、又延喜式神名帳にも大和國と当國と両國に布都魂神社を載せられたれば、当國石上神社を大和國に勧請して地名も石上といいしならん。 さすれば当國の石上本社なる事も分明なり。 又、垂仁天皇の御宇に剱一千口を作りて石上神宮に蔵むとあれば、蛇を断の剣も当國にある事分明なり。 され共、神道次第に衰へ、石上ふるきむかしのことを知る人もなくなりければ、大守曹源公是をなげき給ひ、大松山村の内にして地高二十石を神領とし、祠官金谷肥後を旧姓物部に復して栄事を司らしめ、又其後宝永七年寺社奉行門田市郎兵衛貴通、作事奉行村瀬勘九郎俊重に命して宮殿を再造有りし。」 と記されている。
『赤磐郡誌』(昭和十五年)には
「此の社の元あった風呂ノ谷山頂には、突几る巌角が露れて、見るからに偉大なる感にうたれる。 其の前に本宮と柵称する小社がある。 其の社後の神泉には、常に水をたゝへ、其の御水によって、參詣者は其の他の病を治する等、誠に神秘の感がある。 是れ等により、此の神社の起りは、其の山頂の巌角を目標とした原始的信仰による磐境として始まり、適々素盞嗚尊の御佩せの太刀を載いて、此処に小社を営みて、霊剣を納めて奉斎したものが、現在の本宮であらう。 崇神天皇の御代(仁徳天皇の御代とも)に至り、此の御神剣を大和國に遷させられ、此の宮は留守宮になった事となる。」 と推考されている。
「此の社の元あった風呂ノ谷山頂には、突几る巌角が露れて、見るからに偉大なる感にうたれる。 其の前に本宮と柵称する小社がある。 其の社後の神泉には、常に水をたゝへ、其の御水によって、參詣者は其の他の病を治する等、誠に神秘の感がある。 是れ等により、此の神社の起りは、其の山頂の巌角を目標とした原始的信仰による磐境として始まり、適々素盞嗚尊の御佩せの太刀を載いて、此処に小社を営みて、霊剣を納めて奉斎したものが、現在の本宮であらう。 崇神天皇の御代(仁徳天皇の御代とも)に至り、此の御神剣を大和國に遷させられ、此の宮は留守宮になった事となる。」 と推考されている。
ただし、本宮の所在については、風呂谷の山頂(大松山)が有力視されているが、『備前國式内書上考録』には
「大松山村の神社を石上布都之魂神社と決定られしは恐らくは違へるならむか。 如何にとなれば、本部ノ式外に天松神社、一本大松神社とある社を考たがへたるに実は大松神社なり。」 として、 「今般取調べたる中に宅美郷新荘村熊野神社とある。 当社元権現といひしを明治二年四月官許を得て熊野神社と改号す。 いと古き社にて宝剣を神体とせり」 と、又 「風土記に旗下里を石上布留の里と改むとあるを考ふれば、前にいへる新荘村よりは凡十町ばかり下に伊田村といふありて、同村八幡宮の当りに石上といふ田地の字あり。 またおなじ村に古へありし寺を今は隣村に移して旗降山極楽寺と号し、その村名を幡地山村と云ふ。 是等によれば布都之魂神社は伊田村に在しならむも知りがたし。」 と異論を載せているが、いずれも実証性に乏しいようである。
「大松山村の神社を石上布都之魂神社と決定られしは恐らくは違へるならむか。 如何にとなれば、本部ノ式外に天松神社、一本大松神社とある社を考たがへたるに実は大松神社なり。」 として、 「今般取調べたる中に宅美郷新荘村熊野神社とある。 当社元権現といひしを明治二年四月官許を得て熊野神社と改号す。 いと古き社にて宝剣を神体とせり」 と、又 「風土記に旗下里を石上布留の里と改むとあるを考ふれば、前にいへる新荘村よりは凡十町ばかり下に伊田村といふありて、同村八幡宮の当りに石上といふ田地の字あり。 またおなじ村に古へありし寺を今は隣村に移して旗降山極楽寺と号し、その村名を幡地山村と云ふ。 是等によれば布都之魂神社は伊田村に在しならむも知りがたし。」 と異論を載せているが、いずれも実証性に乏しいようである。
『石上布都魂神社略記』(昭和二十年頃)には
「古事記、日本書紀、古語拾遺という本によりますと素盞嗚尊が天上(高天原)から天降られて出雲國の簸(ひ)の川上で八岐大蛇 (やまたのおろち) をお斬りになった際、大蛇の尾から一振りの剣を獲られた。 その剣を天照大神に奉られた。 また大蛇をお斬りになった剣を 「蛇の麁正」(おろちのあらまさ) 「羽羽斬剣」 または 「布都斯魂剣」 と申し上げ、この剣が吉備神部許にあると記されていますが、これが当社の鎮祀されたおこりであります。 なお布都斯魂大神は仁徳天皇の御代に大和國石上神宮(現在の奈良県天理市布留)へ当社からお遷りになりおまつりされております。
「古事記、日本書紀、古語拾遺という本によりますと素盞嗚尊が天上(高天原)から天降られて出雲國の簸(ひ)の川上で八岐大蛇 (やまたのおろち) をお斬りになった際、大蛇の尾から一振りの剣を獲られた。 その剣を天照大神に奉られた。 また大蛇をお斬りになった剣を 「蛇の麁正」(おろちのあらまさ) 「羽羽斬剣」 または 「布都斯魂剣」 と申し上げ、この剣が吉備神部許にあると記されていますが、これが当社の鎮祀されたおこりであります。 なお布都斯魂大神は仁徳天皇の御代に大和國石上神宮(現在の奈良県天理市布留)へ当社からお遷りになりおまつりされております。
備前岡山藩主池田光政公は特に、寛文年中に当社をご再興になりついで綱政公は延宝二年社領として二十石を、また宝永七年にご社殿を造営されました。(常時は山上にご建立)」 と記されている。
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/futumitama.htm
物部氏が河内・大和にやってくる前に吉備神部にいたことを証明する神社であろうかと思える。
布津御霊あるいは御魂劔(ふつのみたまのつるぎ)
は物部氏に伝承される神剣。韴霊剣。蛇麁正(オロチノアラマサ)、天羽々斬剣(アメノハハギリノツルギ)、蛇韓鋤(オロチノカラサビ)、天蝿斫剣(アメノハエギリノツルギ)などの別称がある。今は大和の山辺にある石上神宮が保管とされる。
は物部氏に伝承される神剣。韴霊剣。蛇麁正(オロチノアラマサ)、天羽々斬剣(アメノハハギリノツルギ)、蛇韓鋤(オロチノカラサビ)、天蝿斫剣(アメノハエギリノツルギ)などの別称がある。今は大和の山辺にある石上神宮が保管とされる。
神話で素盞鳴尊がヤマタノオロチを切った斬蛇剣(ざんじゃけん)。『古事記』では十拳釼(トツカノツルギ)。『日本書紀』では「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」。
このとき尾から出たのは天叢雲剣(アメノムラクモ。のちに草薙劔クサナギノツルギ)であるが、これは尾張熱田神宮の宝剣。
(つまり物部氏の祖であるスサノヲが持っていたのが布津御霊劔で、それで切って出た草薙劔は尾張氏が持っていたということ。ということは物部氏と尾張氏には当初、近畿では同盟関係があったことになる)
天孫降臨では高天原から出雲へ降り立ったのは布津御霊とタケミカヅチ(中臣氏・藤原氏の祖神)となっている。
「ふつ」とは剣が空気を切り裂くときの音を表していると言われる。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言い、「ふつ」は物を断ち切る音を表す。とにかく別名が多すぎる。
この名前の剣はなぜかわからないが鹿島神宮(藤原氏の社)にも存在する。
おそらく物部氏を盟友としていた中臣・藤原という関係で、新たに造ったのではないか?
おそらく物部氏を盟友としていた中臣・藤原という関係で、新たに造ったのではないか?
布津御霊神社の創建は、あくまでも記紀の記述に順じたものであるから、ここが「神部にある」という場所でいいかどうかは筆者には決めがたい。ほかにあったのかも知れない。
宮司の物部姓名乗りはあくまでも代々そうすべしという名乗りであって、代々宮司が正真正銘の物部氏血統であったかどうかは疑わしい。
『古事記』によると、素盞嗚命と天照大神(アマテラスオオカミ)が誓約(ウケイ)をして、天照大神が素盞嗚命の十握剣(トツカノツルギ)を三つに折って、天真名井(アマノマナイ)ですすぎ、噛み砕いて吹き出した息から生まれたのがこの宗像三女神、一方、素盞嗚命が天照大神の勾玉をすすぎ洗ったときに生まれたのが天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)をはじめとする五男神である。のちにこれを八王子と言う。東京や愛知に地名あり。
宗像の女神が兄弟のウケイから生じたという伝承は、つまり物部氏と宗像海部氏の関係を述べていることなろうか?ということは海部氏とは宗像氏が前身ということになるか?
丹後国造家海部氏の極秘伝によれば、一の宮籠(この)神社の主神・火明(ほあかり)命は、山城一の宮上賀茂神社の(賀茂)別雷(わけいかづち)命と異名同神であると言う。
『山城風土記』は「玉依姫が丹塗矢(にぬりや)を拾ってきたところ妊娠して子を産んだ。その子に父と思う人に酒を飲ませよ。と言ったところ、天に向かって杯を献げ、屋根を破って天に昇っていった。その子の名は賀茂別雷命、丹塗矢は火雷命である。」と書く。
『秦氏本系図』は「秦氏の娘が産んだ子は、戸の上の矢が父であるとして指差した。そして「雷公」となって屋根を突き破り天に昇っていった。鴨上社を別雷神と云い、鴨下社を御祖神と云う。戸の上の矢は松尾大明神である。」「松尾大社は、築紫胸形に坐す中部大神なり。」と書く。
胸形とは宗像である。
鴨氏の神が宗像にいるという。
そして鴨氏の神は火明命であると言う。
鴨氏の神が宗像にいるという。
そして鴨氏の神は火明命であると言う。
宗像神=賀茂別雷神=松尾神=火明命
これは同族関係を言っているのであろう。
物部氏、宗像氏、尾張氏、海部氏、秦氏の各地における政治上、軍事上の同盟関係が時代を追って存在したことになる。
しかしその同盟関係が決して神社社伝伝承の言うように、堅固な永続的なものだったとは言えまい。
TPOに応じてはつかずはなれずをしているはずである。
だから神社伝承からだけですべてを=にすることは無理である。
政略的婚姻などいくらでもあるのが普通である。
親戚とは言っても遠い親戚であろう。
政略的婚姻などいくらでもあるのが普通である。
親戚とは言っても遠い親戚であろう。
石上布津御魂神社でも宗像神は摂社であり、またそこには武内宿禰も祭られている。
『海部氏系図』は、18世の孫の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)が丹波・但馬・若狭の海人を率い、神功皇后の新羅征伐に奉仕したと記し、『古事記』は難波根子建振熊命、『日本書紀』は武振熊を同時代の人物として挙げ、和邇氏の祖であると書く。
建振熊(たけふるくま)宿祢が但馬の海人を率いて新羅征伐に奉仕したとあるが、『粟鹿大明神元記』は神部直(三輪氏)が率いたと書く。伝承は複雑怪奇にからまってしまう。信用できない。
また、丹後は丹波国から分かれてできた国ですが、丹波国造家は三輪氏の祖の阿田賀田須命が和邇氏・宗像氏の始祖である。
物部氏・和邇氏・宗像氏・尾張氏・海部氏・葛城氏系譜のすべて・三輪氏は同盟だとなった。
こう考えればいい。ここに出てきた氏族はもとみなひとつの連合体の傘下にあったと。
崇神はその連合体を打ち砕いて大和の盟主になった狗奴国王であると。
(もっとわかりやすくするのなら、邪馬台国を神武と見て、崇神を狗奴国と見れば二人の始祖王(はつくにしらすすめらみこと)の存在は単純明快になる。)
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