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物部守屋の遺骸は打ち捨てられたか?『日本書紀』「もちあげ」と「おとしめ」の思想

 
 
播磨国風土記印南郡
「原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 廄戶 弓削大連 守屋 所造之石也」
 
原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり。
 
 
この大石はいわゆる「石の宝殿」と呼ばれる各地の石棺あるいは石室石材切り出しの残照である。
生きる石ともされてあとから神社が建てられることが多かった。
兵庫県高砂市の石の宝殿にも生石(おおしこ)神社の祠が寄り添っている。
 
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風土記の記事の年代観では聖徳王=厩戸皇子の摂政時代には守屋はすでに死んでいるというのが記紀の主張で、矛盾する。

しかし守屋が『日本書紀』記述どおりのようには「謀反しておらず」「誅殺もされておらなかった」としたなら、この記事の方が史実を伝えていると考えてみるのも面白い。
守屋が生前、物部氏が往古から竜山や印南の石材を切り出して墓を作っていた先祖物部(ものべ)ゆかりの石を自分の墓に使わせうと、各地から取り寄せていたとして、ここの「宝殿」もそのひとつで、途中で頓挫したか、省かれたと考えられる。
 
神社社伝や『峯相記』などのさまざまの後世の「あとづけ」はこの際無視してよい。史実とは無縁である。
この生石神社の石の宝殿と、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾を総称して、「日本三奇」と呼ぶ。
 
 
 
 
では守屋の亡骸はいずこに埋葬されたのか。
そしてその死とは、『日本書紀』が書くような謀反による誅殺だったであろうか?
極めて疑わしい。
 
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イメージ 2

大阪府八尾市太子堂に守屋の墓があるが、これは後世の健勝碑的なものである。背後の古墳は守屋とは時代が違う。

聖徳太子という架空の存在が、記紀では、守屋の霊魂をかささぎ森の宮神社から四天王寺に移し、守屋廟を建立している。
 
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イメージ 3
 
そもそも四天王寺は仏教寺院である前に守屋を鎮魂する社であった。もちろん祟り封じのためである。
 
『日本書紀』守屋の乱(丁未の乱(ていびのらん))で、
 
1 聖徳太子が蘇我馬子に命じて
2 守屋を誅殺せんとし
3 四天王に祈って
4 物部同族である迹見赤檮(とみの・いちい)に弓矢で射殺させた。
 
とある。
 
 
「とみの・いちい」の「とみ」とは「鳥見」で、生駒山を本拠としたトミのナガスネヒコを思い出させるからくりである。
物部氏のいい伝えである「旧事紀」では、首領であるニギハヤヒの方がナガスネヒコを殺すことになっている。
すると守屋がいちいに殺された(しかも弓削物部のステータスである弓矢で)という書きようは、旧事紀氏族伝承のまったく真逆になっているわけである。

物部氏が河内の靫負(ゆげい)氏族である弓削氏から妻をめとるのは、つまり河内にやってきて王となった物部氏という構造なのである。「ゆげ」は「ゆげい」であり、その中でも弓を作る氏族である。武器集団ということになる。一方物部氏は鉄剣(ものざね)氏族である。

この二つを手にした物部氏は、おそらく当時、河内最強の王者であり、大和から山背の畿内各地に広大な領地を持っていた。これはあとからやってくる氏族にとっては先住「天皇」だったはずである。
 
だから旧事紀も『日本書紀』も、ニギハヤヒは後着氏族神武によって計略的にやられ、出雲にはナガスネヒコの霊だけを流したのである。ところが三輪山の大物主が崇神の代になって大暴れする。これは河内本家と石上物部の反逆的行為である。そこで飛鳥時代まで物部本宗家は大連ととして君臨。それが新勢力蘇我氏によって排除されたという政治的事件が守屋の乱である。勢力争いである。
 
そこで聖徳太子という聖人が登場せねばならなくなる。
旧天皇である物部大連を滅ぼせるのは、新参氏族の蘇我ではなく、あくまでも新しい天孫の血を引くモノの指示でなければならない。
 
『日本書紀』は蘇我氏をおとしめる代わりに厩戸を聖人に仕立て上げた。
そしてその蘇我氏が厩戸の子孫を殺したと書きたてることで、今度は蘇我本宗家入鹿の誅殺を正当化したのである。
 
その理由は中臣氏が物部氏の祭祀家臣団だったからにほかならない。守屋の霊魂を讃え、鹿嶋とともに香取をその鎮魂地とした。霞ヶ浦より以北にあったナガスネヒコの先祖縄文氏族の結界として置いたのである。
守屋の正しい墓は四天王寺守屋廟にあったはずである。

その痕跡は阿蘇ピンク石礼拝石である。
 
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これは石棺の蓋である。それが熊野権現を遥拝する敷石になってしまっている。

しかし石棺の身と中身の亡骸がない・・・。
「川に捨てられた仏像を拾い上げ祭った」と仏教のはじまりのエピソードが存在する。
欽明天皇は蘇我稲目には仏像を祭れと言い、守屋の父・尾興には川に捨ててもよいと、二枚舌を使っている。
それで尾輿は百済伝来の仏像を川に投げ捨てる。
それはもしや守屋のことなのではないのか?
殺した蘇我氏には鎮魂せよ、殺された物部氏には忘れろ・・・ではないか?
こうして阿蘇ピンク石というヨミガエリ封じの呪の石棺が用意され、守屋の遺骸は収められた。
しかしその後、誰がいつそうしたかは知らないが、遺骸は引き出され、どこかの川に遺棄されたのかも知れない。
最近、どうもそう思われてならないのである。
なぜなら、守屋の遺骸に弓矢で殺された痕跡などまったくなかったからなのではないかと。

持ち上げる、おとしめる・・・。
記紀「伝説」には氏族に対してこの二種類の書きようをするのが常である。
持ち上げるのは残虐に滅ぼしたからである。
おとしめるのは史実はそうではないからである。
 
 
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装飾古墳画像コレクション(要Yahoo!ID) http://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップ(要YoutubeorGoogleID)http://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 ものざねの「モノ」とは金属、「ざね」は武器。
物部とはモノ=霊魂を祭る氏族だとよく言われるが、その物部氏の霊魂とは「ふつのみたま」という鉄剣なのだから、もののべとは鉄によって国家を治めた大王という意味になる。
 
旧事紀では、八十(やそ)物部と中臣は同じ九州の豊国において宇佐氏や豊前草場の氏族たちを取り込んで、ニギハヤヒとともに東征してくる氏族になっている。
物部。中臣。宇佐。宗像は同族である。

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