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印南地名 播磨稲日大郎姫 いなび・いなみ 犬並

 

石の宝殿のある高砂市を含む印南郡はもと「いなびのこほり」である。
「いなび」がつづまって「いなみ」「いんなみ」。
そのいなびとは「稲日」である。芦屋道満・宮本武蔵・山片蟠桃出身地。
稲日野(いなびぬ)も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ  柿本人麻呂

「播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、生年不詳 - 景行天皇52年5月4日(122年6月25日))は、『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』に記される第12代景行天皇の皇后。日本武尊(ヤマトタケル)の母。針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢とも。」
 
「記紀のイナビノオオイラツメは、『播磨国風土記』の賀古郡・印南郡条に登場する「印南別嬢」(いなみのわきいらつめ)と同一人と考えられる。「ワキイラツメ」の名は、『古事記』で妹とされ、『日本書紀』で別名とされた「ワカイラツメ」の名に通じる。風土記によれば、印南別嬢の父は丸部臣(わにべのおみ)の祖・比古汝茅(ひこなむち、彦汝命か)、母は吉備比売(きびひめ)である。景行天皇は印南別嬢を妻問いに播磨へと出向いた。別嬢は身を隠したが、天皇に探し当てられ、2人は城宮(加古川町木村?)で結ばれた。年経て没した後は日岡に墓を造ったが、遺骸を運ぶときに川の中に沈んでしまい、櫛箱と比礼(薄い肩掛け)のみを埋葬したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AD%E7%A3%A8%E7%A8%B2%E6%97%A5%E5%A4%A7%E9%83%8E%E5%A7%AB
 
 
 

ここと揖保郡など播磨西部は物部氏の古い所領で、あとから山背秦氏らも入っている。しかしそれは平安遷都に伴う移住であり、それ以前ここにいた秦氏は秦部や、海人族である波多部や鴨部や息長や和邇(=倭直?)の部民=加古(水夫)地名の元(いずれも邪馬台国中枢氏族がこれだろう)、であろう。おとなり岡山県東部、つまり吉備地方に波多の邑がある。
 
 
 
「加古の地に縁の深い天皇は、社伝にもみえるとおり景行天皇。上の伝承に続いて、こうある。
 この岡に比礼墓(ひれはか)がある。

 褶墓(ひれはか)と名づけたわけは、昔、大帯日子命(おほたらしひこのみこと。景行天皇)が
 印南別嬢(いなみのわきいらつめ)を妻問いなされた時、
 御腰に帯びられた八咫の剣の上結には八咫の勾玉、下結には麻布都鏡(まふつのかがみ)を懸けて、
 賀毛の郡の山直(やまのあたひ)らの祖、息長命(おきながのみこと)〔またの名は伊志治(いしぢ)〕を
 仲人として妻問いに下っておいでになった時、摂津の国の高瀬の済(わたり)まで来て、
 「この川を渡ろうと思うのだが」

 と渡し守に頼んだ。すると、渡し守である紀伊国の人、小玉(をだま)は、
 「私を天皇の贄人(にへびと。天皇に贄を進上する部民)となさるのですか」
 と申し上げた。 その時に勅して、
 「朕公(あぎみ。親愛なる君よ、の意)、そうではあろうがぜひ渡してほしい」
 と仰せになった」
http://flxsouko.web.fc2.com/tohoFSSjinja_hyogo02.html

景行天皇もおそらく吉備に関する記事が多く、この天皇は吉備王家氏から出た伝説を基にした王であろう。つまり鉄の大王である。いなび媛との間にヤマトタケルは生まれるが、その一番上の兄に「櫛角別王(くしつのわけのおうきみ)」がいる。

「くし」は奇しで高貴なという意味。「つの」は若狭・但馬との関係。ツヌガアラシト=アメノヒボコとなる。息長氏や秦氏や敦賀氏、常世連などに関与する渡来系の名前である。中国地方が早くから日本海で半島や北東中国とまじわっていたことが名前からわかる。それは吉備が最古の製鉄と縄文稲の栽培地だということが証明している。

吉備といえば鉄である。六甲から吉備中山、そして備後・美作にかけて製鉄のための鉄鉱石や、砂鉄を生み出す花崗岩基層ががっしりと存在するのが中国山地の特徴である。西日本の地層はこの花崗岩岩盤が居座って、そのうえに表土がのかっているのが地質学での特徴である。だから台風などで簡単に表土が流れ出すと、もとにもどりにくく、森が復活しにくい。それで鉄をとりつくすと吉備王国は衰亡し、畿内・九州へ移住していったようである。東日本は広大な台地を持ち、そうはなりにくかった。

景行天皇はつまりそうした吉備王家の巨大古墳を造れた豪族であろう。それが九州へは熊襲の製鉄をうばうために遠征するのである。

「いなび」は稲日であるが、これに一本横線を足すと稲目になる。蘇我稲目。いなびはイネがたおやかな日を浴びて育つ場所。「いなみ」は稲美。
 
 
「入浪」説
「印南野は、兵庫県中南部、東を明石川、西を加古川、北を美嚢川で限られ、南に播磨灘を望む台地状の地域です。西国往還の要衝で、『播磨国風土記』や『万葉集』に「印南野」、「稲見野」、「稲日(いなび)野」として、広漠とした未開拓の原野のさまが記されています。
 
 台地のまわりを流れる河川とは急崖で隔てられているため、水利の便が悪く、近世初期まで開発されませんでした。江戸時代に入って加古川、明石川等の水を引き、秋冬に溜池に水を貯える開発がおこなわれ、日本でも有数の溜池密集地帯となりました。江戸時代には綿作、大正以降は稲作が進み、播磨の穀倉地帯となっています。
 
 この「いなみ」は、(1) 『播磨国風土記』は、仲哀天皇が筑紫に下られる際、「滄海(うなばら)甚く平(な)ぎ、波風和ぎ静けかりき」、故に「入浪の郡」と名付けたことによる、
(2) 「イ(接頭語)・ナミ(滑らかな台地)」の意とする説があります。 」
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei04.htm#(13) 印南野(いなみの)
 
 
いずれの説も「いなみ」からはじめており本来の「いなび」の由来にはなっていないのでダメ説である。
「いなぶ」は否ぶで、否定する、断るなど否定的意味である。

ここは良字解釈の稲美にしておくが、もっと歴史的になにかが起きた地名かもしれない。高砂市に米田町があり米田神社もある。

それに兵庫は酒どころでもある。灘の生一本。酒米山田錦特産地。しかし灘は神戸市で印南ではない。
しかし例えば加古郡から割譲されたのだから、水夫をこばむ土地とか考えうるが不確実。実際高砂は漁港である。
 
 
「猪なぶ」る?
猪の多いことは桜ヶ丘銅鐸が証明するが?
 
「いんなび」
いんは因島の「因」
「伝承では、神功皇后の乗った船がこの島に立ち寄った際に、陸から多くの犬が吼えて困ったので皇后が「犬の島」と名づけ、それがなまって「インの島」になったとも、平安時代に島が院領だったことから「院の島」が「因の島」になったとも、細島に島の前面が隠されているので「隠の島」から「因の島」になったとも言われている[1]。なお、10世紀ころに源順(みなもとのしたごう)が編纂した「和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)」には印乃之蔓(いんのしま)と記載があり、発音は現在と同じである。」
 
「犬」=工人
確かに渡来工人や隼人などに関わる可能性は播磨印南にもある。これかも知れぬ。「いぬなみ」
そもそも播磨や倉敷などは工人の国である。
 
 
播磨はかつては吉備、出雲と低い分水嶺でつながった国家である。
そして丹後・若狭ともつながっており、日本海渡来人と瀬戸内海人が混在した地域。
鳥取の大山が噴火した頃に、凝灰岩も多量に形成され、竜山石は石棺素材になった。その中心氏族は物部氏と秦氏である。
 
 
 

いずれにせよ播磨の印南地域は稲作とは久しく無縁であった。
記事のほとんどは石、鉱物、塩、海産物などで、主要生産穀物は麦である。
山に囲まれた河川沿いは狭く、水田には不向きで、水源もなかった。加古川方面の膨大な池は、ここが雨の少ない瀬戸内気候で水田には不向きであることを物語る。
ということは「稲美」はあとからの表現で「持ち上げ地名」になるだろう。
 

今のところ不明。

 
 

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