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蘇我氏と秦氏/深草秦氏と馬と産業

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『古語拾遺』長谷朝倉朝条
「長谷朝倉の朝に至りて、秦氏分け散(あら)けて、他族に寄り隷(つ)きき。(中略)此より後、諸国の貢調、年々に盈(み)ち溢(あふ)れき。更に大蔵を立てて、蘇我満智宿祢をして三蔵[斎蔵・内蔵・大蔵]を検校せしめ、秦氏をして其の物を出納せしめ、東西の文氏をして其の簿を勘録せしむ。・・・・」
 


 
忌部広成(いんべのひろなり)が平安時代初めに書いた『古語拾遺』であるので、この記事が正鵠かどうかは諸説あろう。また斎蔵の存在は忌部に偏った創作でもあろう。さらに蘇我満智という人物が実際にいたとも思えず、蘇我氏の始まりは稲目から始まったというのが定説である。
 
ともあれ、蘇我氏の本家が大蔵・内蔵氏族だったわけではなく、それは倉山田石河家の「倉」から見ても石河一族がそうだったのであり、祖人・蘇我満智のことも石河家が作った話であるだろう。稲目の前に置かれた満智・韓子・高麗の始祖三代は創作である。

だがここにある「長谷の朝倉」とは泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみやであり、雄略朝のことをさしている。
それまで渡来した秦氏一党は、あちこちに分派してほかの在来氏族の居住地に依託されいたらしい。それが秦酒君あたりから財力も充実し、例の「うずまさにもりあげるほどの朝貢物」を献上できいるようになり、蘇我満智の耳目にとまり、大蔵をもうしつかるようになった。
 
さて、この酒君というのが葛野秦氏の祖であろう。そこから河勝が出てくるのであるが、遺跡では巨椋池の宇治・深草のほうが圧倒的に古く弥生時代からである。すると深草秦氏はいったいどういう扱いになったのか?
深草秦氏には馬の記録と、水銀の発掘の記録が残っている。こちらは官僚にはならずに工業・貿易の集団になったと考えられる。

京都の深草から東へ向かうのに「深草屯倉からは馬で東国へ」と『日本書紀』は山背大兄の遭難記事に書く。
京都南部の伏見や宇治に最初の秦氏の考古学的痕跡が出てくるのは、先の記事で書いた巨椋(小倉)の宇治市郊外遺跡の五世紀である。深草には龍谷大学伏見舎と、となりの警察学校の真下に深草坊町(弥生)遺跡が埋め戻されて存在する。
 
また深草本町商店街には藤森神社があって、伏見稲荷大社が置かれている。
深草からはあの深草少将が通いつめた小野に通じる街道がちゃんとある。青春時代、筆者はここを遊び場にしていた。同級生も住んでいる。龍谷大学は母校である。
 
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ここから山科へ出れば琵琶湖から伊吹山を越えて尾張へ出る。また伊勢へも近い。
伊勢の水銀を馬で運んだのが秦大津父たちである。
その子孫の秦伊呂具(いろぐ)は水銀で大家をなした。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52167668.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53895763.html

つまり京都で最初に秦氏が繁栄したのは京都市南部~宇治市~八幡市つまり紀伊郡~綴喜郡あたりである。葛野よりも早いのだ。
紀伊郡とはそこが紀氏が入った地名である。だから秦氏と紀氏にも縁故がある。
その紀氏の古墳である紀ノ川河口部の淡の輪古墳群の土器は、京都葛野の物集女(もずめ)あたりまで到達している。これもだいぶんまえにここに書いた。
 
紀氏は葛城氏同祖の武内宿禰の子孫である。つまり海人系なのだ。その古墳を作っていったのは桂川にいた土師氏である。つまり淡輪式土器は土師氏物集女氏が作る土器ということになる。

秦氏は最初に大和の高尾張=葛城の朝妻に入っている記事があるが、それよりもはるかに早い弥生時代後期に、すでに彼らは宇治の三川合流湿地である巨椋池周辺に住まっていたのである。その後、平安時代になっても深草といえばかわらけ=土器の通称となっている。つまり深草秦氏は水銀だけでなく窯業・製陶業でも生活していた。
 
本町通の藤森神社には神功皇后を祭る廟がある。
ここはもと兵頭神社と言われ、物部氏の武器庫でもあった。

なぜここに武器庫が必要かといえば、それはちょうど奈良の珠木山のふもとの三輪に、穴師坐大兵主神社=穴師神社があるのとまったく同じ立地・・・つまり東国へ出るための街道があったからなのである。東国からの蛮族の攻撃を防ぐための武器庫なのである。
 
秦氏が分派して従来の大和氏族の子飼い状態になったことは、結果的に秦氏の複雑化、拡散、拡大をまねくきっかになったのであろう。

秦氏は葛城、物部、尾張、鴨、蘇我、波多、多など、大氏族とどんどん結合していく。だからひとり秦氏というよりも、大和・山背の氏族に浸透していったために複雑怪奇な氏族へとふくらんでいくのである。
 
しかもその部民となると、もう日本中に拡散した。まさに「くずのようにしつこい」きりがない氏族になる。
まさに巨・多の氏族である。するとネットワークが生まれる。産業のための情報通信網である。シンジケートになる。

これを豪族たちが利用しないはずはなかった。

つづく
 
 
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かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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