◆村居田古墳・伝息長広媛陵墓(光運寺本堂南敷地内古墳)
むらいだこふん/でんおきながひろひめりょうこふん
時代古墳 所在地滋賀県米原市村居田 (旧坂田郡長浜周辺)
遺構概要集成、古墳(前方後円墳か)。<立地>平野。標高約141m、周辺の水田からの比高約2m、方位(主軸は南北方向か)、前方幅13mか・高3mか、 かつて、石室か、と石棺が発見された光運寺本堂南に13×5mの楕円形の高まり(高さ3m)が残るのみで、前方部端の名残か。前方後円墳とすれば、本堂付近が後円部に相当し、墳長は30m程度、主軸は南北方向となる、
(内部主体)棺:家形石棺か 長2.19m・高0.48m・幅1.07m、室:横穴式石室か、
乱掘:1696(元禄9)年、光運寺改築の際に石室と石棺を発見。
遺物概要集成、埴輪(円筒埴輪IV式)。 発掘概要 その他概要旧、坂田郡山東町大字村居田。 辻善之助ほか『改訂 近江国坂田郡志』1(1941)。田中勝弘『坂田郡山東町内遺跡詳細分布調査報告書』(1986)。『前方後円墳集成』(用田政晴、1992)。
http://www.isekiwalker.com/iseki/233017/
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龍谷大学講師・水谷千秋はこのかつての古墳には阿蘇ピンク石製家型石棺があったと最新著書の『継体大王と朝鮮半島の謎』2013年に書いている。検証してみるが、いまだにネット上でその記事は見つけていない。
本当に阿蘇ピンク石がここにあったのだろうか?
滋賀県米原市は筆者は一度だけ訪問し、伊吹山の寒風に辟易した場所である。
息長氏の本拠地で、この伝古墳も、宮内庁は息長広姫陵と指定しているが、広媛は飛鳥時代の敏達天皇(550年代)の皇后であり、出土埴輪から推定される古墳年代の五世紀末(450~470年?)とは100年の隔たりがある。そこで水谷は息長氏の中で意富富杼王(おおほどおう、継体祖父)を当てている。
「『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君(めたのきみ)などの祖としており、また「上宮記」逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫が男大迹王(袁本杼王)すなわち継体天皇とされる。近年の研究では、継体天皇即位の正当性を示すために系譜作成の段階で挿入された人物としてその実在性を疑われているが、「意富富杼(おほほど)=大ホド」は継体の「袁本杼=小ホド」と対応する名であることから、本来の系譜には継体の兄として位置付けられていた可能性もある。 意富(おう)は意宇、於宇、大、太、多と古書に登場し、出雲国東部を本貫とする大国主命を氏神とする一族との関連性も伺わせる。」
※いわゆる九州~出雲の多氏か?意宇氏。
さて、実在性は薄いが、始祖ではある。継体より数十年前の息長氏の人ということにしておく。
「「古墳辞典」には、『息長陵古墳群は、全長60mほどの前方後円墳(村居田古墳)と陪塚1基からなり、陪塚が現在治定の陵とみることができる。
元禄9年(1698)、光運寺本堂改築工事中に長さ2.2m・幅1.1mの縄掛突起を持った家形石棺が出現し、
近年の石垣改修工事で多数の円筒埴輪片が出土した。』
「米原市遺跡リーフレット12 息長広姫陵古墳」にも、同じようなことが書かれているそうだ 」http://mj-ktmr2.digi2.jp/p25om/pom25214hitozuka.htm
明治の乱掘で石棺が出ている。しかし実物はない。『大王の棺』で有名になった高木恭二や立命館の考古学者・和田晴吾がそう類推しているだけである。近江では琵琶湖東岸地域は広く息長氏の本拠地であり、米原、長浜地域は特に、伊吹山を越えればすぐ尾張氏の本拠地。息長氏の最初期の古墳群は長浜古墳群で、村居田古墳はその東側にやや遅れて造営されている。
また、これまでの記事で、継体大王の威信財が山津照神社古墳などから出ており、垣籠(かいごめ)古墳(5世紀後半)からは尾張式埴輪が出土した。息長氏と尾張氏の連動は、ここ坂田郡に如実に見える。
南に下って野洲川地域の三上では阿蘇ピンク石石棺を持つ円山、甲山古墳があって、こちらは継体をバックアップした秦氏の中で、依知秦氏も居住。さらに伊勢遺跡という三世紀近くの祭祀建造物も出ている。
息長氏が日本海を、遠賀川・豊前~日本海を経て、出雲を経由し、若狭湾から琵琶湖へ入ってきたのは間違いあるまい。そして宇治川~木津川~巨椋池~淀川の摂津・枚方・綴喜郡に瀬戸内海運の港を持っていったために継体は、そこを最初の定住地としたわけであろう。
だから坂田郡の米原から阿蘇ピンク石石棺が出ても不思議ではない。だが、実物がないとなると、一級資料どころかただの妄想にしかならないのも事実。考古学の実証がないので、この問題は手のつけようがない。
いずれにしても、たとえ文献史学者だと言っても、証拠品もなく資料としてあげつらうのはいかがなものか?
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