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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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秦氏と継体大王/継体と淀川氏族の相関関係

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秦氏と継体の互換関係図
1 寝屋川・枚方・四条畷の秦氏と河内馬飼氏
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2池田市・大阪市豊嶋郡の秦氏
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3 継体の三つの宮(=三島)と秦氏の居住関係
 
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4 継体と近畿のバックアップ軍団の相関関係
 
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データベース 水谷千秋
 
 
 
 
※筒木宮のある木津川周辺には、山城大住の隼人と尾張系氏族が同居している。
渡来人の多いこの地域の、京田辺、八幡、大住などには秦氏もいたことだろう。
大住車塚古墳の被葬者は尾張氏か秦氏であろう。
尾張氏が隼人を片腕にして南九州からやってきたのはこれでw間違いないだろう。
それ以前には、尾張氏の祖先は西九州有明海沿岸に最初に入った長江文明人であろう。
 
阿蘇ピンク石は継体時代には継体の親族だけが使えたようである。
尾張型埴輪が出る地域には尾張氏系の埴輪製作者がいたであろう。
それが土師氏系埴輪に影響を与えただろう。
尾張~三河の須恵器はろくろを最初に使ったであろう。それが現在の瀬戸焼に続く愛知県陶器の伝統であろう。
 
船で渡来してくる尾張氏や秦氏にはそれぞれ船の倭人が手下になっていただろう。
秦氏の場合はそれは壱岐対馬の安曇であり、息長氏=多氏?もそうだろう。
その基点は遠賀川であろう。すると日本海経由で最初に日本の青森まで稲作を運んだのがこれであろう。その安曇は福井、長野から琵琶湖まで入って安曇川で三尾氏となるのかも知れない。
 
尾張氏は西九州から南九州をまわって太平洋側で愛知に到達し、やがて中央アルプスに道をつないで日本海側の若狭や気比と交流していく。そのにないては隼人であろう。
 
継体大王はこのように、海と河川を網のようにたどって海外へも交易を広げた日本海と太平洋の海運氏族の中から登場した。
 
 
おそらく即位前まで、彼の名は国内でよりも半島や中国のほうで有名だったのではなかろうか?
 
意富富杼王の血脈が、おおど王=継体を生む。おおどとは小さな意富富杼王という意味の名である。その息長こそは多氏と安曇の混血であろう。
 
 
息長の伝承は「野洲」=安として記紀アマテラスとスサノヲの対峙した川の名になったのかも知れない。その野洲川の名の大本は九州筑後川の夜須川由来かも知れない。息長は九州から来たのではないか?
 
 
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