吉備と宇佐の関係資料
1 「国前(くにさき)国造、志賀穴穂朝吉備臣と同祖。吉備都命六世午佐(うさ)自命 定賜国造」『先代旧事本紀』国造本紀
2 豊国(とよくに。大分県~福岡県豊前地域)の国前臣は日子刺肩別命(ひこさしか たわけ)のことであり大吉備津彦命と若日子建吉備津日子命。「孝霊記」
3 「豊国別命、吉備別祖」『先代旧事本紀』天皇本紀景行六十年条
4 「古の菟狭(うさ)国の神都は備前なり。備前・備中・備後・美作(みまさか)は 古の菟狭国第一の神都にして、第二は九州」宇佐国造家伝承 宇佐公康『宇 佐家伝承が語る古代史』36P
5 本来皇室しかもらえない品位を宇佐神宮と吉備津彦神社だけがもらっている。
「奉る(八幡)大神一品、八幡比羊()神二品」『続日本紀』
「八幡比羊神授一品」『文徳実録』
「特授備中国吉備津彦神授四品」同上
「在備中国四品吉備津彦神授三品」同上
「奉授 備中国三品吉備都彦命二品」『三代実録』
先にも書いたことだが宇佐赤塚古墳から出た三角縁唐草文帯二神二獣鏡は、全国で備前市の丸山古墳と宇佐赤塚でしか出ていない。二枚しかない。
宇佐は国東半島の西側の付け根にあって、北は豊前市の海人系・豊前石塚古墳などから英彦山を越えて田川郡・筑豊に通じている。国東から豊後の南北海部郡へとひろがる海部の統率者として宇佐神宮も存在する。宇佐市安心院(あじむ)町の町名は安曇由来とも言われる。また「院」は中世の別所地名のひとつでその主体は海人族=吉備邪馬台国の敗北がそうさせた?である。
また吉備には波多村があるが、宇佐のそばにも幡地区がある。特に豊前は秦人のメッカである。これは宇佐の海人族と秦氏の船のえにしを思わせる。
このように宇佐を中心とした豊の国は吉備と非常にえにしが深い。
国東半島の古墳はヤマト纏向とほぼ同じ3世紀後半の下原(しもばる)古墳をはじめとして最古級古墳が多く、~5世紀まで存続した。一方大分市から佐賀関の北海部郡にある大古墳群はそれよりも遅く4~5世紀に作られる。さらにそれより下がって臼杵に古墳群ができるが、ここは筑紫同系統の石人を持っており、筑紫国造家と同盟した豊であると思われる。
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ツヌガアラシトとアメノヒボコの循環コーを見ると、九州から吉備、吉備から畿内、そこから淀川水系で琵琶湖~福井~日本海出雲という交易ルートが見えてくる。瀬戸内海を通る限り愛媛松山、福山、吉備、讃岐、淡路島、淀川・紀ノ川・大和川というルートがあったことがわかる。淀川水系に入るには播磨、淡路島からの上下進入路があるが、その両方をさまざまの海人族が共有していたのだろう。特に吉備からは讃岐、播磨、淡路島と経由する。今でも瀬戸内長距離航路は大阪~神戸~松山を停泊して別府に着く。これらがすでに数千年前からあった瀬戸内の最も安全なルートだったのだろう。
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国東先端に位置する姫島はヒボコ・ツヌガアラシトの妻が通った航路である。対面する半島側に伊美がある。大分市の千代丸古墳とよく似た線刻画を持つ伊美鬼塚古墳がある。また内陸部の玖珠町にもよく似た線刻画を持つ鬼塚古墳がある。
ある地域をひとつの氏族でくくってしまう傾向があるが、決してそうではなく、複数氏族の同居が同地域にはある。吉備とつながっていただけでなく、筑紫国造や出雲や大和や東海ともつながる地域が豊である。なぜなら九州の瀬戸内航路の玄関であり、さらに実は朝鮮半島への出口でもあった。現代でも韓国へ直通のビートル号が就航する。朝鮮密航者の目的地としても新潟に次いでナンバー2なのである。筆者は大分港の市場そば漁港でよく朝鮮の国旗をつけた船を眼にしている。近くの市場に魚を卸すのである。外洋航行の荷揚げ港も大分市である。九州の石油やバナナがここに最初に水揚げされる。太平洋航路と瀬戸内航路のかつては集散港が別府湾である。こうした複雑な状況から九州独自の肥後系装飾古墳がそれほど入り込めなかったのである。古代から勢力圏が大きく分断され飛び地化されたのが大分である。ゆえに文化的に一色では染め表せない。言葉も瀬戸内系で九州弁ではない。いい換えるとコスモポリスだった。伽耶に似ている。
東九州国東の出土品
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安岐にある安国寺集落遺跡は3世紀の環濠遺跡であり、中国馬王堆と同種の遺物が出ている。
大分市大在・佐賀関にある海部公の古墳群は日本最古級では全国に二つしか出ていない船形埴輪を亀塚から出している、いまひとつは有名な三重県松坂市の宝塚古墳である。
古墳年代で見ると、3世紀~5世紀初頭まで国東が先んじているが、5世紀中盤には海部地域が圧倒的に大きな古墳を作り始め、さらにそれが筑紫国造系に変化。ということから岐部→吉備→大和政権へと豊国が変化していくことが見え、吉備の滅亡記録とまったく合致する。
南海部郡の臼杵市はあきらかに6世紀直前までは筑紫国造家に組している。臼塚古墳から石人が出た。ほぼ5世紀後半を境に全国的に西日本各地の古墳は大変化する。人集団の勝手な造営だったものが東へ移動して、吉備様式の遺物が現れ始め、吉備系国司らしきものが入り込む。それが筑紫国造家滅亡の前にはみなヤマトからの国造の古墳に変わるのである。
このように政権はころころと変わった。これが山尾和久が言う激動期の古代である。しかも各地で複雑な利害関係から、さまざまの氏族の同族関係が、地域ごとに結ばれた。けして二大勢力だけの単純な構造ではない。ヤマトで味方でも、地方では敵などざらにあった。それが人間関係である。それが歴史なのである。教科書は単純すぎる。まるでのーたりん歴史学である。
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やはり吉備・豊・伊予・讃岐・紀・葛城がヤマトの邪馬台国連合であろう。それを雄略以後の中継ぎ政権が滅ぼしていった。つまりあとのヤマトは狗奴国である。
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