「日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していた。仏教伝来以降は、獣肉全般が敬遠されるようになっていったが、日本人の間で全く食べられなくなったという時期は見られない。獣肉食に関する嫌悪感も時代と共に変わっていったが、おおむね、狩猟で得た獣肉は良いが家畜を殺した獣肉は駄目、そして足が多いほど駄目(哺乳類>鳥>魚)と考えられることが多かった(タコ・イカは例外)。獣肉消費量が魚肉を上回るのは第二次世界大戦後の高度成長期より後のことである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%8D%A3%E8%82%89%E9%A3%9F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
「日本の捕鯨は、勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきた。その歴史は、先史時代の捕鯨から、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代へと分けることができる。かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている。
江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、日本独自の形態での捕鯨が発展してきた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨は日本各地で近年まで行われていた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨はイルカ追い込み漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。また、受動的捕鯨(座礁したクジラやイルカの利用)についても、一部地域では慣習(伝統文化)として食用利用する地域も残っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%8D%95%E9%AF%A8#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%8D%95%E9%AF%A8#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
「莵田の高城に鴫罠(しぎわな)張る わが待つや 鴫は障(さ)わらず いすくわし 鯨(区じ羅)障(さ)やる」(紀)
「この高城に鴫罠(しぎわな)を張ったというのである。
まさか鳥を捕る罠で、鯨が捕れることは無い。鴫も、罠も、鯨も、比喩である。
高城で対峙した敵の中心人物は、奈良盆地中央部を本拠とする磯城(しき)彦である。
シギはシキで、敵対する磯城彦のことである。また鯨は山鯨(猪)のことで兄猾(エウカシ)のことである。『日本書紀』は「区じ羅」、『古事記』は「久治良」とする。
意訳すれば『宇陀の高城に鴫罠(磯城彦を討つ罠または陣)を張って待つた。鴫(磯城彦)でなく鯨(兄猾・エウカシ)が、かかった』という意味でる。
「馬鹿なエウカシよ」とあざけり笑った歌である。
なお「いすくわし」の意味は不明であるが、私は「こざかしい」というくらいの意味に解釈する。
「馬鹿なエウカシよ」とあざけり笑った歌である。
なお「いすくわし」の意味は不明であるが、私は「こざかしい」というくらいの意味に解釈する。
さらに歌は
「こなみ(前妻)が な(魚)こ(乞)わば たちそばの 実のなけくを こきしひゑね うはなり(後妻)が な(魚)こ(乞)はさば いちさかき 実のおほけくを こきだひゑね」(紀)
と続く。
古い妻がさかなを欲しいと言ったら、たちそばの実のような、身のないところをやる。新しい妻がさかなを欲しいと言ったら、いちさかき(椎)の実のような 身の多いところをやる。」
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/1-5udanotakagi.htm
最近、筆者は「大儀を取るのか、小儀にこだわるのか」がわからずにいる。
夏目漱石はレグナチオンの境地をこう綴っている。
智に働けば角が立つ情に棹させば流される 『草枕』
果たして食うべきか食わざるべきか?
食わずともよいのではなかろうか?
大魚は大食漢であろう。
それを誰も捕らなくなればどうなるかをわからぬ世界の人々に、その重要さを気づかせるためには、時間がかかる。同じ時間を使うなら、むしろ大魚を食わずにおいて行き着く結果を出すための時間が必要。ならば、食べずにおくしかない。
その果てに、しまったやよかったも明白になるだろう。
ただ、大魚を捕ることをなりわいとしてきたものどもには、消えてもらうこととなってしまう。
現代に欧米文化に追随してきたわが国家はどのような大儀を出すか、である。
どうもこのごろは対立は行き着くところ、白黒をつけたがり、いよいよ平和が遠のくと見えてしかたがなくなった。個人的にはめんどくさい、というのが正直なところだ。
久米歌の「くじら」について、おかくじら=猪のことかと思ってきた。だが、上の解釈のほうが深い気がする。
この問題はこれからの日本人の、世界でのあり方までを考えさせる問題である。
しかも、日本だけでなく、地球規模の海洋資源環境の問題でもある。
難問を、人類がどう乗り越えて、どういう結果を招いたかは、何万年の視野が必要。
神ならぬ筆者などにわかろうはずもない。もちろんあなたが天才であっても。それはくじらに限らない。ただ、目先の金の動くところで反対している愛護団体のふりあげた剣をうっちゃることはでき、振り上げた剣が次にどこへ向かうかも確かめられる。くじらをとらなくなれば愛護団体も大儀を失うこととなるだろう。
どうなろうと、そのときぼくは生きてはいない。