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これは日本の原発の分布図
これは毎日の風向きを気象庁が発表しているサイト
例えば筆者の住む九州・瀬戸内地区の今日の風向はこう。
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原発をここに置いてみよう。
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もちろん風は日々刻々と向きを変える。強さも変わる。季節によっても変わる。
だから気象庁風向情報を「お気に入り」などに入れておこう。
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こういうサイトもある。
あ、もうやっている・・・えらい!
さて、次。
この分布図が正確かどうかはそれぞれ確認が必要。
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ないことになっている地区にも実は存在するし、あるとされている場所がすでにそうではなくなっている場合もある。人は移動し、政治は整備するもの。
だから絶対に確認する必要がある。
さて、原発が置かれた海岸部が、どんな地域だから置かれたか、原発が含んでいる、政治的な、福祉的な、住民救済的一面は考えておいて損ではない。つまり設置を許容せざるを得ない経済事情にも、ちゃんと歴史がある。それを一方的に非難したり、暴露したりするのはそれこそが差別になる。多かれ少なかれ、日本の大多数の地域では戦後貧しく、なんらかの救済や、開拓移民やの国家的福祉事業とのかねあいがある。何も原発だけがそうなのではないし、なにも福島だけがそうなのでもない。またそれがあなたの住んでいる最寄にもないとは言えず、友人の中にもそういう困難な事情をかかえる人がいるかもしれない。さらに彼らにも家族があり、生きていく権利がある。
こういう資料は絶対に主観的物言いに使うべきでなく、ただ客観的に見つめるべきものである。
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この地図は日本の大地震が起こりうる地域を示唆している。
ここに原発や処理場を頭の中で置いてみる必要もあるだろう。
そうすると、なぜプレートの断層に面している可能性が高い太平洋側や瀬戸内に原発を置いたのだろうか?その事情は何だったのかが気にならないはずはない。
なぜ下北半島には処理場と原発が集中するのだろうか?
なぜ若狭湾に原発が日本一たくさんできたんだろうか?
なぜ福島の海岸や伊方や玄海や川内や柏崎や浜岡や東海村などにあるのだろうか?
などなど、不思議だなあと思わない人は、ちょっとあまりにも能天気だとなる気がする。
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例えばこの下北の過去、いったい何があって、どんな因果関係で国はここを選ぶのか・・・。それが歴史である。
例えば思いつくのは去年の大河ドラマの会津藩が、敗北廃藩後、どこに移動せられたかなどは割合すぐに思いつくはずである。
あるいは全国で百姓一揆を起こした地域などもヒントになるかもしれない。
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もっと大昔の反乱の記録がある地域などもそうである。
朝敵とされ、追いこめられ、そこから容易には出られない、それも歴史である。
没落した平家の落人伝説とか安徳天皇墓所伝説とかあるところや、貴種流離譚の多い地域・・・九州なら宮崎や南熊本の山奥とか、信州の松本平の奥地とか・・・鶴姫伝説とか、なんらかの落人・貴種伝承。
つまりそれは「敗者の歴史学」になる。
淀川の忍熊王のいた枚方市とか八幡市とか、出雲とか、筑紫君磐井の乱とか、ゆえあって記録は、派生地をそこに置いている。物部氏の残党とか、蘇我氏残党とか、そういう有名な事件の残党はどこそこに入れられたとか・・・。
意外と、そういう相当古い話が、いまだに、その入れられた地域の開放を許容していない場合が山ほどあったりする。渡来工人・下層民・意外だが医者の多い土地というものがけっこうある。京都市なら松原にたくさんの不法医者が集まったのはなぜか、などなど。
近江の湖東や湖西になぜとか?
戦国時代に家畜、犬などの飼育にあたった部民がいたところなどは、意外に、誰も知らないような奥地・隔絶地域にあって、今も閉ざされているなどもよいヒントだろう。
原発は海岸部に置かれる。するとそこに隔絶し、海を向くが、山側を向かない人々がいて、古墳があって・・・。そういうのが大事な古代史のヒントになる。
もっと古くは、邪馬台国にまで遡っても、奈良市内には、神社が移転された、氏族が移動した、そういう今はもうわからなくなっている土地もある。しかし古墳などは残り、そこにいた氏族が誰で、それが負けた側の中心人物だったことは、推定可能になる。例えば和邇氏や物部氏や葛城市・蘇我氏や秦氏や海人族など。
もちろん妄想しすぎてもいけないけれど、そのような因果応報が、意外に何千年立ってもまだあったりする。特に西日本。
翻って地震が多い、原発が多い、そのほか基地があるなどなど・・・なにゆえにそこにそんな理不尽なものが置かれ、住民はそれによってよい生活ができていったか・・・哀楽の心を持った上で検証して、愕然とすることが多々あるはずである。
そしてこういうことは、頭の中の引き出しに綺麗に整理整頓し、いつもは厳重にしまっておくという、自分なりの自主規制もできなければならない。ジャーナリストなら別だが、歴史研究には、過去の敗北を悲しみ、哀れむこころ、もしかしてそれは自分にも起きた可能性があるのだということをちゃんと感じられないければやってはいけない。そう、パンドラの箱がいくつかあるのだ。
真実の究明は、どこかで必ず人を傷つける。怨恨を生み出す。
だからあなたのサイトに、大声では書かないのがいい。ささやくうまい方法を発見する必要がある。それとなくそっとという表現方法である。
敗者は、時の運で敗北者になった。
勝っていれば歴史の中心にいたはずの人々である。
敗者の王についてしまった下層の人々もそうである。
寝返るような器用な人でなかったということであり、つまり裏切らない人だったということなのだ。この理不尽を思い、泣きながら分析できないものは、歴史は研究してはならないと、あらためて筆者も肝に銘じたい。
暴露と分析はまったく違うのだ。
おまけ
邪馬台国は敗北して狗奴国と同盟することとなったが、大倭直・国造家の祭る大国魂神=大和神社祭神は、敗北後、やしろを移転させられる。
オオクニヌシも大物主も、動かされた。いった場所・・・例えば出雲が問題なのではなく、いた場所が大事である。
筑紫~豊~四国~吉備~播磨~摂津~山背~ヤマト・・・
邪馬台国の「台」は臺與の「と」か、臺與の「い」かがよく取りざたされるが、もし邪馬台国が纏向遺跡なのであれば、あの遺跡は敗者の宮城だった遺跡となる。もし筑紫なのであれば豊~吉備への移動の痕跡が必要になる。豊は「とよ」であり、伊予は「いよ」であることがからまってくる。
ヤマト説は纏向以外にもうひとつ遺跡を発掘せねばなるまい。纏向の少しあとの遺跡である。そこが邪馬台国である。九州説は有明海に敗者の遺跡をもうひとつ見つけねばならない。あればそこである。
しかしどっちにせよそれは敗者の夢のあとであろう。
臺與の代になって、魏は敗者と成り晋が興る。しかし晋の鏡は日本にたった一枚しか出ていない。つまり付き合いがなくなったということである。
晋は魏の宰相だった司馬氏が建てた国。それが三国志を書いた。晋には倭への義理がない。なのに呉と倭のつながりをあえて書かなかった。倭が呉の真東に位置するように書いた。それがなぜかを解明しなければ、魏志の半呪文は絶対解けない。つまり当時の中国の政治的位置やイデオロギーが深く関わる。倭人伝は地理誌ではあっても、西欧的な地理学の書ではなく、歴史書である。方位や位置にはあきらかな意図的造作がある。
晋のあと、中国の中心地は再び南へ動く。それは風ー地球環境の乾燥化によって、黄河北側に砂漠が広がり始め、北方民族がたびたび北朝を脅かし、国家が乱れだしたからである。呉のあった長考河口部は、宋によってまた活気付く。そういう間をぬって日本に河内王朝が登場する。ヤマトの磯城の人々が、河内によってやられたのだ。ちょうど神武の久米軍隊が磯城津彦を網で捕らえたごとくに。
もとはといえば地球環境が動いたことから歴史の変化は始まったのである。
勝敗は時の運である。
そして失敗は、成功の母でもあることも忘れずに。
死ぬまでなにが起こるかわからない・それが人生。
原発もまた、そういう長い人の歴史をひきずっているあぶない玩具なのである。
なんにだって歴史があるってこと。