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菖蒲池古墳
「菖蒲池古墳は明日香村に数多く存在する古墳の中でも謎の多い古墳の一つである。菖蒲池古墳は藤原京の朱雀大路の南延長線上の小高い丘に築かれておりその丘は蘇我蝦夷、入鹿の邸宅が存在した甘樫の丘へと続いている。横穴式石室を持った古墳で、国の史跡にも指定されている。石室の天井石が露出するほど墳丘の変形が進んでいるためその形状ははっきりしないが、20m前後の方墳か円墳(その後方墳と断定)だと考えられている。石室は羨道部の大半が今も埋った状態であるため、全長は不明であるが以前に調査が行われ、その結果両袖式の横穴式石室であることがわかっている。玄室の大きさは、長さ6m、幅2.4m、高さ2.5mあり、二基の家形石棺が石室の中心軸にあわせて縦一列に安置されている。
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家形石棺は極めて個性的で、二基とも天井部分が棟飾り風に仕上げられ、本体部分にも柱状の装飾が施され、さらに石棺の内側に黒漆が塗られているなどこの当時の石棺としては他に例を見ない最高級の作りの石棺とされ、被葬者は相当な実力者だったことが伺われる。」
http://www.ookuninushiden.com/newpage111.html
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「立派な家形の石棺が二つ納められていながら、被葬者や規模、形が不明だった奈良県橿原市の国史跡・菖蒲池古墳(7世紀半ばごろ)が、上下2段に築かれた一辺約30メートルの方墳であることが分かり、同市教育委員会が25日、発表した。
古墳が造られて間もない7世紀末ごろには墳丘の一部が壊され、別の用途のために整地されていたことも判明。市教委は「立派な古墳なのに、被葬者について人々の記憶が新しいうちに壊されている。強い力を持ちながら、後に不遇になった2人の墓の可能性がある」としている。
古墳は大化の改新のきっかけになった乙巳の変(645年)で滅びた蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘の南端にあり、周辺は蘇我氏ゆかりの墓が多く築かれた場所との説がある。
10月からの調査で、下段の墳丘すそ部にあった石の列が南西の角を構成するように直角に並べられていたのが見つかり、方墳であることが判明。ほぼ正方形だったとみられる。」
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010112501000540.html
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010112501000540.html
第一候補 蘇我倉山田石川麻呂 生年不詳 - 大化5年3月25日(649年5月15日)
第二候補 蘇我稲目 (そが の いなめ、武烈天皇8年(506年)頃 - 欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))
第二候補 蘇我稲目 (そが の いなめ、武烈天皇8年(506年)頃 - 欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))
第三候補 蘇我蝦夷・入鹿の合葬墓
方墳であることはまず蘇我氏で合致する。
そして不遇で、藤原京の主や天智よりも「『日本書記』が格下にしておきたい」大臣クラス。
そして不遇で、藤原京の主や天智よりも「『日本書記』が格下にしておきたい」大臣クラス。
したがって上記二人のうちのどちらかだが・・・。
しかしこの終末期古墳は7世紀中盤の年代が考古学から出されている。家型石棺の様式も稲目の古墳時代のもの(長持型)ではなく、石川麻呂の飛鳥時代初期のもの。つまり稲目の時代の古墳ではない。したがって石川麻呂がもっともふさわしい。入鹿を売って孝徳の宰相となったが、結局天智によって滅ぼされた。
高松塚古墳
第一候補 石上(物部)麻呂 舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月 22日))近江朝重臣。壬申の乱後天武に寝返る。このとき物部から石上に改名した。
第二候補 弓削皇子
第三候補 滅亡後逃げてきた高句麗系渡来王族
第一候補 石上(物部)麻呂 舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月 22日))近江朝重臣。壬申の乱後天武に寝返る。このとき物部から石上に改名した。
第二候補 弓削皇子
第三候補 滅亡後逃げてきた高句麗系渡来王族
「ところで、『竹取物語』において、石上麻呂足は、「燕の持たる子安の貝ひとつ取りて給へ」という課題を与えられる。
麻呂足は、大炊寮の飯炊きの建物の棟に燕が巣を作ると聞き、足場を組んで巣を探すが、人が大勢いては燕も巣に上がってこない。
そこで足場を外し、麻呂足自身が載った籠を引き上げさせて巣を探った。手が平たい物に触れたので籠を下ろそうとしたときに、綱が切れて麻呂足はあおむけに落ちてしまう。
それでも子安貝を掴んでいたので確認してみると、それは燕の糞だった。それが「カイナシ」という言葉の語源になった。」
「『続日本紀』で、死に際して「百姓追慕し、痛惜せざるなし(人々すべてが痛惜した)」とされる人徳の人であったことを反映しているとも考えられる」
「石上麻呂は、和銅3(710)年に藤原京から平城京へ遷都する際の藤原京留守司(最高責任者)に任ぜられている。
平城京遷都が不比等を中心に推進されたとすれば、藤原京に残った左大臣の石上麻呂と、右大臣不比等の間に軋轢があったとも考えられる。
高松塚の被葬者は、発掘調査の際のX線撮影によって、頚椎に「変形性骨変化」が認められた。
鑑定にあたった研究者たちは、「頭部外傷歴や乗馬の習慣等を考慮したい」としているが、被葬者が石上麻呂であるならば、『竹取物語』に描かれた籠からの落下という挿話とうまく一致する」
以上http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_3324.html
以上http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_3324.html
高松塚の壁画絵柄は天文図、八人の官女、北斗七星そして陰陽思想の四神像である。つまり天文トンコウ図ということになる。
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またこの墓は考古学上の文武陵であろう中尾山古墳の陪塚の位置(南200M)にある。
文武の死は707年、石上麻呂の死は717年である。
したがって北極星=太極を中尾山とした場合、高松塚は当然北斗七(八)星となり、八人官女もまた八であるので、文武直属の側近となりそれは左右大臣だった麻呂か不比等しかおるまい。和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位。文武初期までは最高位にある。
しかしその心は、やはり天智・大友にあったのかも知れない。守屋以降、大和物部氏はこれ以上落ち目になるわけにいかなかった。それで寝返って、物部の名にを恥じると考え石上に変えたのだろう。
中尾山古墳
八角形であきらかに飛鳥の終末期天皇陵である。文武天皇の考古学上の正しい墓だろう。文武は火葬されているので、ここの小型の横口式石槨はそれにふさわしい。
では今の文武天皇陵檜隈安古丘上陵被葬者は誰?
高松塚を麻呂の墓とすればその南側に天皇陵を置くはずはなくなる。『延喜式』(927)には「檜 隈阿古岡上陵 藤原宮御宇 文武天皇 在高市郡 兆域東西三町 南北三町 陵戸五烟」と ある。 江戸期の『阿不幾野山陵記』の記述によって、明治14年(1881)に現在の陵が治定されたが、その根拠は不明。 明治の初めころまでこの陵が天武・持統陵とされていた記録もあり、また、江戸時代中期の享保19年(1734)に刊行された『大和志』では、現在の中尾山古墳が文武天皇陵に比定されている。いずれにせよ藤原京の南側にある古墳は、『日本書記』歴史観では天武関連あるいは天智に反する皇族関係者だと考えてよいように思う。考古学的には栗原塚穴古墳と呼ばれ、山形墳という奇妙な形状。この時代の天皇陵(八角)ではありえまい(ただし江戸期に大幅整備改変された可能性。当時、考古学知識なく天皇陵の形状を山形としてしまったか?)。保留。
さてこうしてみてくると、なぜ天智天皇陵が藤原京の真北に置かれたかが見えてくるはず。まずは鎌足の山科陶原大宅があって、天皇陵の背後の山々が中臣氏の鉱山だったことがあり(これはすでに書いた)、それよりも『日本書記』藤原不比等の歴史観が天智を北極星、最高峰の天子=祖であるという考え方で置かれたことは間違いない。
すると藤原京の南側にあきらかに天武関係者や蘇我氏かと思われる墓があるのはなぜかとなる。これは藤原京があえてそこへ置かれたと見るほうが正しい。天武を南に置くことで、持統=天智の娘が天武よりも正統な天子(天子南面す)だとする不比等の考え方である。持統が藤原京を宮城とした最大の理由がこれであり、つまり藤原京は不比等の宮城であるすら言える事になる。藤原の地はもと葛原で、水の湧く湿地である、宮城にはふさわしくなかったはず。そこにあえて宮を置くことは、あきらかに天武格下のイデオロギーである。では持統はなぜ南側の天武陵に合されたのか?これが問題になる。歴史をロマンチックに見たい人には、持統がそれほど夫、天武を愛していたからとしたいところであろう。しかし・・・。持統はむしろあれほど天皇にしたかった息子草壁皇子と一緒に眠りたくはなかったか、という見方もかなりのロマンティックである。
持統の火葬灰は、盗掘者によって銀製骨臓器が道端に放り出されている。これは逆に考えれば、それをやったのは最初からそれが持統の遺灰ではないと盗掘者が知ってのろうぜきだった可能性もないか?
やや妄想が過ぎたようである。今日はここまでにしておきたい。
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