理由
1 百済は新羅との抗争に、倭国へ援軍を要請する見返りに仏教や漢字博士、五経博士を贈っている。この太刀もその一部であろう。
1 百済は新羅との抗争に、倭国へ援軍を要請する見返りに仏教や漢字博士、五経博士を贈っている。この太刀もその一部であろう。
2 ならば贈られた被葬者は新羅との戦いに功績のあった筑紫の倭人豪族であると推定できる。そして贈ったのは鞍橋君に命を救われた百済王余昌である。
3 欽明はそれに対して大伴らを援軍に送る
4 この時代、大伴氏は磐井の乱物部氏によってかつての九州の統治権を失って低迷期にいた。だから新羅遠征は大伴氏にとって名誉挽回のチャンスだった。倭五王時代の大伴大連は火・筑紫・豊の武人や国造たちの元締めである。そもそも筑紫に大伴氏の指示に従う大和派遣氏族は多かった。例えば葦北国造など。
5 しかし570年頃にはすでに聖明王も狭手彦も死んでおり、百済王は余昌(威徳王・昌王・明王)になっていた。
6 570年に狭手彦を重用してきた蘇我稲目が死去し、馬子が大臣になる。このときの筑紫国造はすでに磐井の筑紫君一族から別の大和派遣氏族に代わっていた可能性がある。それが筑紫(竺紫)物部氏だった可能性があるだろう。その国造の名は筑紫国造鞍橋君である。彼は百済王余昌の命を救っている百済にとっての大功労者である。
7 するとその後、大和で蘇我氏と激しく対立した河内物部本宗家よりも竺紫(つくし)物部氏のほうが勢力があった(大陸との交易に筑紫は有利)わけだし、百済王がそちらへ直接贈り物をしたわけも合点がいく。
8 象嵌紀年銘文入り太刀を贈呈されている氏族は、ほかに熊本の火国造(江田船山古墳)、埼玉の武蔵国造(稲荷山古墳)であると推定できるので、そもそも彼らと同じ大彦子孫を名乗っていた筑紫国造家は同族である。(これによって謎の氏族だった多氏も当然、大彦所以を考えうることになろう)大彦子孫の系譜は阿部氏祖大毘古五代孫田道命(たみちのみこと)が筑紫国造になったとある。筑紫物部氏も筑紫に入ればこの系譜を大陸との古くからのつきあいで名も通っているから使ったはず。すると百済・新羅とは非常に古くからのつきあいである。
特別な太刀を贈られることに無理はない。
特別な太刀を贈られることに無理はない。
9 そもそも大和でも物部氏は巨大な墳墓をあまり作らない氏族である。元岡G6号墳も径18メートルと小さい。
いずれにせよ被葬者候補は
1筑紫国造鞍橋君(第一候補ピカイチ)
その実体である竺紫物部氏?
大伴狭手彦の子孫?
1筑紫国造鞍橋君(第一候補ピカイチ)
その実体である竺紫物部氏?
大伴狭手彦の子孫?
のいずれかではあるまいか?ま、楽しい妄想ですがね。
ちなみに・・・
鞍橋君の名前、「くらじ」であるが。実は・・・
福岡の新北にある「熱田神社の宮司家(金川家)の先祖は鞍橋君(筑紫国造)であり、
尚且つ鞍橋君は、筑紫国造磐井氏の一族」
尚且つ鞍橋君は、筑紫国造磐井氏の一族」
なのだという。
「くらじ」で思い出すのが尾張の熱田神宮に高倉下(たかくらじ)命があるが、この人物は神武に剣をさしだして援けたいわれがある、尾張氏の祖人でもある。では「たかくらじ」とは「くらじのきみ」由来であるか?!
ならば欽明時代の筑紫国造とは尾張氏と関わるか?尾張氏は物部氏と海部氏と同族である。
尾張氏・物部氏・海部氏・筑紫国造つまり多氏の相関関係は今後の課題になった。
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