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那珂と伊都・地名由来

 引用文(こう書いておかないと「」を見落とすあわてモノがいるので)
 
 「福岡県の博多は昔「那(な)国」とか「那ノ津」と呼ばれていた。現在も「那ノ津大橋」や「那の津通」等にその名残が見える。また、博多区には「那珂(なか)」という地名もあり、その名をとって福岡市の都心を貫き、博多湾にそそぐ川の名を「那珂川」という。「那国」は、後漢の光武帝から授かった例の金印に書かれた「漢委奴国王」に見える「奴(な)国」のことである。」

 「長島温泉で有名な三重県桑名市長島(ながしま)町は、町全体が木曽三川(木曽・長良・揖斐)の形成した三角州にあり、周囲をぐるりと堤防に囲まれた完全な「輪中集落」である「川中島」の呈をなしている。本来なら「中島(なかしま)」となるべき地形名であるが、この輪中は南北に細長いので「長島」と濁音になってしまった。「中」が「長」や「永」に変わってしまった地名も各地に多く見られるので、注意を要する。」

 「長野市「長野」は・・・背後に丘陵地を控え、南向きで日当たりもよく、このあたりでは一番良い場所に寺を建立したと思われるので、やはり地名の由来は「中野」ではないかと思う。長野市の北方、北信の中心地には正真正銘の「中野市」があるが、長野市と発音が似ており、よく間違えられて困る、と中野市民はなんとなく憂鬱を抱えている。」
 
 「石川県金沢市の都心部には「中橋」「中村」「長田」があるが、この「長田」も「中田」であろう。岐阜県恵那市の中心部には「永田」「長島」「中野」という地名が一箇所にかたまっている。いつのころからか「中田(なかた)」が「永田(ながた)」になり、「中島」が「長島(ながしま)」になり、さらに「長島」を「おさしま」と呼ぶようになった。日本の常民の発音の妙と情念の豊かさを感じる。 」      http://baba72885.exblog.jp/7169179/ 
 
 


 
 
 

「なか」地名の点在についてはここでも以前、それが海人族地名であることを分析した。
 

転載・全国那珂・那賀・名賀・中・仲郡の分布図と海人族居住地


 
 
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「那賀」「那珂」などの「なか」は多くにごって「なが」と同じである。
分析すると「な・か」に分けられる。

「な」の基層語は縄文倭語の「灘 な」である。つまり海岸線や湾曲(わんど)、河川沿い、海・水をさす言葉。「なーみ」「なーには」「なーだ」。
 
「か」は助詞の「が」でいにしえの「の」ある。「灘が土地=海のある場所」が「ながと」である。
 
筆者近隣地名では宇佐市のそばに「長洲」がある。「なーかーす」で、「長洲」はたいがいが漁師町。長い州は海岸線の海浜が長いという意味なのに、砂浜はさほどでなく、むしろ灘のそばの州=テリトリーなのであり、文化とか言葉に昔から違いがあった。はっきり言えば部落である。海岸線の部落はほとんどが古代海人族の頃からの流れである海人が住まう。気比も三方も美浜も伊方も玄海も福島中通も全部そうである。「木屋」とか「中洲」とか「なかすね」もそう。「灘が州根」である。
 
 
灘はそもそも「儺」を行う場所でもある。語源は同じであろう。「難」はあやうい場所である。
 

「なのつ」は福岡市の湾をさす。「灘の津」→「那の津」と表記が変化した。

「那」と言う文字には「耳」という意味があり、湾の形状が耳のようであることを示すが、同時に耳は「王」に準じる身分の役職をも指し、「王の海」という意味も持つ。中国が「奴国」と、卑字「奴」を用いた国がここにあった。那珂川。
 
 
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一方、那珂川を挟んで西側を「伊都 いと」という。
「い・と」一文字で糸であるが「怡土」、かつて伊都国があった土地である。

「い」「と」

「糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。井原鑓溝遺跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%9B%BD
 
 
「い」を「倭」の中国音「うぇい」から転じて「倭国」であるとする人もいるが、倭人が自らを「倭」と名乗ったはずはない。自分で「小さな人」「おろかな人」などと言う民族は世界中探しても皆無である。馬鹿馬鹿しい。それならば同じく中国人から見て「異土」だったなども言えることになってしまう。他者が地名に干渉するのは西欧の大航海時代以後の産物で、魏志の地名は地元の地名音に中国人が漢字を当てたと考えるべきである。

この場合、普通は「奴国」のように卑字を使うわけであるが「伊都国」には卑字は使われていない。「と」は「つ」「ど」で都のある港、土地である。では「い」とは?
 

これは難解である。
かつては古代言語学からの提示で、「い」「ヰ」「ゐ」の違いが言われてきたが、これは上代(万葉集時代)に限った朝鮮書記官が作り出した特殊音韻で、先史時代には該当してはならない。

「い」「ゐ」の区別は古代にはあいまいであったとするのが正しい。これは「やまと」の「と」でも同じである。
 
また西日本の地名にアイヌ語語源説を持ち込むのも意味がわからない。
 
「い」は神、王、井戸である。伊都国の範囲を考古学では三雲・井原鑓溝遺跡周辺としている。井原は「い・わら」。井は水の湧く場所。つまり聖地である。6世紀筑紫国造家も代々糸島半島の西側にあった。筑紫国造磐井の名称はヤマト側があとから名づけたものと考えるのがよいだろうが、もともと水を手繰る祭祀一族だったからの銘銘だっただろう、というのは森浩一も書いている。磐井の「イ」も湧水・岩清水を指している。筑後の高良山にも「岩井」の水が湧いている。湧水は祭祀の場であることは間違いなし。
 
伊都国は半島の東側になる。纏向と同じように、生活街というよりも王都、官庁街といったほうがよかろう。大宰府にも似る。
 
 
 
 
 
第一次邪馬台国があったとすれば伊都国のすぐそばであろう。奴国だった可能性が高い。

1~2世紀には那珂地域で一番の国家は奴国。伊都国は奴国より遅い成立であろう。最初は奴国の祭祀場であり津であろうか?
 
 
「な」が海乃至は河川、水場であるなら、内陸の長野もまた「灘が野」起源だと想定できる。海人族が入った場所なのだろう。
                                                                                                                              
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倭人の言葉はアイヌとか上代特殊仮名遣いの音韻とかで考えるのは場違いで、むしろ倭人のふるさとである長江以南の少数民族の呉越語や、オーストロネシア基層言語から考察されるべきだろう。
 
 
この私説は、今後も変遷の余地大いにあり。
 
 
 
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