先に常識的解釈をいくつか引用しておく。
◆こけし
「こけしの名称は、各地によってすこしずつ異なっており、木で作った人形からきた木偶(でく)系(きでこ、でころこ、でくのぼう)、這い這い人形(母子人形説もある)からきた這子(ほうこ)系(きぼこ、こげほうこ)、芥子人形からきた芥子(けし)系(こげす、けしにんぎょう)などがあった。また一般に人形という呼び名も広く行われた。
「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子・木形子・木芥子・木削子など)があったが、1939年(昭和14年)8月に鳴子温泉で開催された全国こけし大会で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられる。
幕末期の記録「高橋長蔵文書」(1862年)によると「木地人形こふけし(こうけし)」と記されており、江戸末期から「こけし」に相当する呼称があったことがわかる。こけしの語源としては諸説あるが、木で作った芥子人形というのが有力で、特に仙台堤土人形の「赤けし」を木製にしたものという意といわれる。「赤けし」同様、子貰い、子授けの縁起物として「こけし」が扱われた地方もある。またこけしの頭に描かれている模様「水引手」は京都の「御所人形」において、特にお祝い人形の為に創案された描彩様式であり、土人形「赤けし」にもこの水引手は描かれた。こけしは子供の健康な成長を願うお祝い人形でもあった。
その一方、こけしの語源を「子消し」や「子化身」など堕胎や口減らしに由来するものとの説も存在しており、これは1960年代に詩人・松永伍一が初めて唱えたものとされている。しかし、松永以前の文献にはこの説を裏付けるような記述が見られない上、松永自身も工芸や民俗学などの専門知識を持っていなかった、自説の由来について説得力の有る説明が出来なかったなどとされ、その信憑性については出典を含めて疑問が持たれている。 なお、こけしの語源やこけしに至る信仰玩具の変遷について、加藤理が平安時代の子どもを守る信仰人形や東北地方の他の信仰玩具との関係から、「「あまがつ」とその歴史的変遷の考察-宮城県の郷土玩具との関係を中心に-」(日本風俗史学会紀要『風俗』第30巻3号)で詳しく分析・考察している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%91%E3%81%97#.E5.90.8D.E7.A7.B0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%91%E3%81%97#.E5.90.8D.E7.A7.B0
◆天児(あまがつ)・這子(ほうこ) - こうげつ人形
※遠山記念館蔵(ホームページ参照)
※遠山記念館蔵(ホームページ参照)
・這子(ほうこ)は、上巳の祓に贈られた人形で、幼児の枕辺におかれ、祓の後に神聖なものとして翌年にも用いられようになり、幼子が3歳になるまで身に添えて持たせるなどの風習も生まれました。
・幼児の愛玩用のぬいぐるみとしても愛用されていたと思われます。
・ぬいぐるみの原型とも言われるように。白絹に綿を詰めてつくりました。幼児がハイハイをするようなデザインから這子(ほうこ)の名称がついたのでしょうか?
・這子(ほうこ)のデザインは現在に伝えられています。
飛騨高山の「猿ぼぼ」は、赤い布で胴を作り、これに綿をつめ、丸い頭をつけたもので目鼻は描かれていません。幼児の災厄を祓う身代わりの役をつとめる這子(ほうこ)が次第に変化して玩具となりました。
飛騨高山の「猿ぼぼ」は、赤い布で胴を作り、これに綿をつめ、丸い頭をつけたもので目鼻は描かれていません。幼児の災厄を祓う身代わりの役をつとめる這子(ほうこ)が次第に変化して玩具となりました。
・猿ぼぼ
・端午の節句の「武者絵のぼり」にも使用されています。のぼり旗の下部の跳ね上がり防止のための錘(おもり)として、手と足をしばって紐をつけて使用しています。
■立雛■
・天児(あまがつ)が男子、這子(ほうこ)を女子に見立てて、一対のものとされたものが、立雛の原型とも言われています。
・天児(あまがつ)が男子、這子(ほうこ)を女子に見立てて、一対のものとされたものが、立雛の原型とも言われています。
・現在の雛人形のなかでも、デフォルメされた簡素な立雛は素晴らしいものです。初期は紙で作られていることなどから、形代(かたしろ)や天児(あまがつ)からの変形であることは想像に難くないのですが、簡素なデザインは秀逸なものと言えます。
・小袖などのデザインから推察すると、室町以降に誕生したのでしょう。平面的な造りなので、自立出来ず、雛壇や雛屏風に立てかけて飾ります。
・この立雛のデザインは、木目込(きめこみ)人形の立雛へと継承されてゆきます。
■ひひな■
・上記の祓(はらえ)用の天児(あまがつ)・這子(ほうこ)とは別に、「ひひな遊び」のお人形というものがありました。
平安時代の古典「源氏物語」に、貴族の少女達が「ひいな遊び」をしている風景が登場しています。
「枕草子」にも描かれています。
平安時代の古典「源氏物語」に、貴族の少女達が「ひいな遊び」をしている風景が登場しています。
「枕草子」にも描かれています。
・「ひひな」は、上巳の祓や3月3日とは関係なく幼女の遊び道具として存在していました。
この「ひとがた」と「ひひな」が結びついて、現在の「お雛さま」が生まれました。
・上巳の祓の人形と幼女の遊び道具の人形は、中世以降になると次第に立派なものとなります。
捨てていた人形(ひとがた)も「飾り雛」として造られるようになり、江戸時代になると、平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となってゆきました。
捨てていた人形(ひとがた)も「飾り雛」として造られるようになり、江戸時代になると、平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となってゆきました。
・雛遊びが雛祭りと変化してゆくのは、江戸幕府が令の規定の3月3日の節日を「五節句」の一つに定めたことが最大の誘因でしょう。時代が進んで、上巳の祓いの人形(ひとがた)が保存されるようになり、3月3日に娘の幸福を願って人形を飾る風習がゆきわたってゆきます。
・宝暦年間(1751~1764)以降、京都から江戸への文化の移動に伴い、文化・文政年間(1804~1830)頃には京都とともに江戸にも雛人形を飾る風習が広まってゆきました。
雛市なども隆盛となり、市民の間にも浸透していったのです。
それ以降、雛祭りは明治・大正・昭和と盛んとなってゆきます。」
http://www.kougetsu.co.jp/hinamatsuri/amagatu.html
雛市なども隆盛となり、市民の間にも浸透していったのです。
それ以降、雛祭りは明治・大正・昭和と盛んとなってゆきます。」
http://www.kougetsu.co.jp/hinamatsuri/amagatu.html
◆あまがつ 天児
「形代(かたしろ)として幼児のそばに置き、災厄を移し負わせる人形。後世は、幼児のはう姿をかたどった這子(ほうこ)をもいう。
「ちごうつくしみし給ふ御心にて―など御手づから作り」〈源・若菜上〉」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/6183/m0u/
「形代(かたしろ)として幼児のそばに置き、災厄を移し負わせる人形。後世は、幼児のはう姿をかたどった這子(ほうこ)をもいう。
「ちごうつくしみし給ふ御心にて―など御手づから作り」〈源・若菜上〉」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/6183/m0u/
◆こけし
「こうけし」
こけしは東北の一地方温泉で販売され始めたのが最初。
作成は地元轆轤(ろくろ)木地師たちである。
名称はいつしか同類のでく人形の総称のようになっていったが、あくまで一地方での呼び名である。人形である限りは「かたしろ」であることにかわりはない。「かたしろ」とはそもそもは神社・巫覡の間で神の「よりしろ」として始まっている。これは陰陽道でも使われた。白い紙をひとがたに切ったものである。これがやがて「ひいな」「しょうろうびな」へ発展した。
つまり人形とは、多かれ少なかれ、何者かの祖霊が降臨するためのよりしろであったことになろう。そこから身代わり、人身御供、人柱、贄、夭折してしまったわが子、あるいは水子、怨念の対象を象徴したわら人形などが派生していったことは想像に難くはない。が、こけしも、そういう分身・間引きの産物だったどうかは、定かではなく、あくまで土産物として始まったとされる。
もちろんこうした事を荒立てぬ言辞は、常識的で面白みのない保守的学者たちの常道で、必ずしもそれに従う必要はないだろう。彼らは学閥や権威主義に汲々とした小人であるから、あたりさわりのない説しか採用しない生物なのである。民俗学では、そうした権威的押し付けがましい常識は打ち破る科学であるので、むしろ正反対の「子消し」説なども否定しない。
東北の寒村など里山の山側に住まった木地師たちは、下界を眺める雲畑の人びとで、常の世界とは隔絶して暮らしており、職人である限りはさまざまの芸術性を高めるための憑依信仰を持つものであろう。それが里山のうつせの暮らしぶりを眺め、かつ自らの生き様から、生まれてすぐに死んでしまった子供に身を託した人形を作ったとしてもなんらの疑念は持ち得ない。そういう貧しい歴史が間違いなく江戸時代・明治時代まであったのがわが国である。
ただし、「子消し」ではその意味を表すには矛盾もある。子は消したのではなく、この場合やむない病気や栄養失調で死んでしまったのであるはずだ。ところが「子を消す」というのであれば、間引いた、口減らししたと考えるのは別に奇妙な着想ではない。
事実、全国に「間引き絵馬」「身代わり地蔵」なるものは確かに存在した。
かつては一家に何人もの子が生まれる。すると食えなくなる。だから間引く。あるいは長じた娘などは人身売買されたわけである。それが常識なのだった。
「この子の七つのお祝いに 間引き絵馬 民族学伝承ひろいあげ辞典」
身代わり地蔵
少なくとも、そうした人びとも、また子を亡くしただけの人も、身代わりの人形を作った通してもなんの非常識でもないだろう。まして彼らだけが内々にそう思いこけしを持ったのなら、当然、それを受け入れてしかるべし。往古の人びとは「言霊思想」で山ほどの内緒ごとを背負って生きていたようなものである。
「子化身」説
「けし」を「化身」としたところでなんの不思議があろうか?
「けし」を「化身」としたところでなんの不思議があろうか?
こけしとは「子の化身」でよかろうかと思う。言語学者なんぞは、こういうことにすら気がつかぬ朴念仁ばかりの集団である。これも学者のもの知らずのひとつに過ぎまい。簡単ではないか。
ところでこけし人形を、例えば温泉地に多い道祖神・・・肥後ずいきなどの陽物ととらえる手もある。あれもまた人のかたしろである。子沢山を願う母親がさすると子が授かるという思想。これが原始信仰の残存で、形状も確かにこけしに似る。これもなんらかの関係でからんでのこけし誕生ではあるまいか?
と、やや面白すぎる解釈をしてみたが、さて、人形は古くは古墳時代では墓を守護する石人や埴輪から始まるが、これはみな被葬者の肉体が腐るのはそれを食う魔物のせいであると考えられ板時代の産物である。また縄文時代の東北あるいはそのルーツである北アジアの草原地帯では、夭折幼児のなきがらは丁重に家や騎馬ルートの魔よけとして、あるいは祖霊のよりしろとして土中に埋納していた風習が考古学的に解明されている。
客観的に見てもこれが人骨や胞衣・胎盤の埋納の開始であり、それがやがてひとがたへと変わったのである。埴輪もそもそも『日本書記』には、殉死の身代わり人形である。
ならばこけしがそうであったとして何が悪いだろう?
ただし、考え方は人それぞれでよいのが日本である。
必ずしも科学がそれを暴いたとしても、民間はそれに準じる必要もない。それが自由というものである。ケースバイケースで使い分ければよいのである。土産物に上記のごときやや陰惨な一面をあえて持たせて解釈するのは大人のすることではない。これが古墳や神社のかたしろとしての人形ならば、そう考えればよいことである。ことさら可愛らしいオブジェにそのような都市伝説まがいの悪趣味を「いまさら」押し付けるのも場違いなことは確かである。思っていてもそんなことはあえて公然と表明するたぐいのものではないことぐらいは、テレビを観るものも知っておくぐらいのマナーを持つべきだろう。そういう着想は小説やまんがの世界にこそ生きて面白い。
なんでも言ってみればいいってもんじゃないのよ、大人の世界はってこと。言霊。
昔ら言うではないか「言わぬがほとけ」
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