この項目は片袖式石室の全国分布図作成のための書きかけ文書である。
これについて詳しい形は情報提供を待つ。また分布図がすでにあるならばご連絡を。
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◆片袖長方形玄室(横穴式石室の古い様式のひとつ。片袖式石室とも。右袖型と左袖型がある)
横穴式石室の時代はヤマト・畿内では古墳時代後半に開始されたが、
横穴式石室の時代はヤマト・畿内では古墳時代後半に開始されたが、
「その石室構造は、大和ではほとんどが単室(基本的にひとりの被葬者にひとつの石室)で、
片袖⇒両袖⇒無袖⇒横口式石槨
窮隆式⇒垂直化⇒切石造り
窮隆式⇒垂直化⇒切石造り
と変遷し、規模、石材は7世紀前半をピークに巨大化し、あとは小型化して
埋葬は木棺⇒石棺⇒陶棺・夾紵棺と変遷したそうです。 後期古墳に限れば9割が横穴式。」
(福岡県在住古墳研究家蕨手氏解説)
埋葬は木棺⇒石棺⇒陶棺・夾紵棺と変遷したそうです。 後期古墳に限れば9割が横穴式。」
(福岡県在住古墳研究家蕨手氏解説)
※追補
石棺様式は最初組み合わせ式⇒刳貫き(くりぬき)式
石棺様式は最初組み合わせ式⇒刳貫き(くりぬき)式
また羨道壁には大和では主として巨石の組み合わせが、九州などでは朝鮮様式の割石礫の積み石式が多い傾向にある。Kawa
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横穴式埋葬施設とは、「埋葬施設の一方の側面が横口によって外部と通じているものの総称です。その出入口・開口部は普通、塊石や板石などで閉じられていますが、埋葬施設を土中に埋めてしまう竪穴系と違い、開けることが容易にできますので追葬が可能となり、そして現在でも内部の見学が自由にできるわけです。石棺が安置されている主室の部分は玄室と呼ばれ、これと外部を結ぶ通路を羨道、そして玄室と羨道との接続部は袖部と呼ばれています。また玄室と羨道の境は玄門と呼ばれ、羨道の入り口は羨門と呼ばれています。袖部の構造は大きく分けて3種類の形式があります。羨道部から見て玄室の袖部が左右に広がっているものが「両袖型」、右か左どちらか一方へ広がっているものが「片袖型」、羨道と玄室の幅が同じで連続しているものが「無袖型」と呼ばれています。」http://www2.tok2.com/home/sekisitu/sekisetumei.htm
追補
折衷型、奥壁が丸くカーブした無袖式など過渡期石室も多々ある。Kawa
九州では・・・
「紫 ー 筑後のこの地域の横穴式石室は、平面形が様々で、 石室内の施腱にも多様性が認められるが、 ほぼすべてが両袖式の石室であること、羨道が埋葬空間と して発達しないこと、 などの共通した特徴がみられることが明らかになった」http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=fHupVt5i548J&p=%E7%89%87%E8%A2%96%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86&u=nwudir.lib.nara-wu.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F10935%2F1684%2F1%2FAN10140874_v23_pp49-53.pdf#search='%E7%89%87%E8%A2%96%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86'
「紫 ー 筑後のこの地域の横穴式石室は、平面形が様々で、 石室内の施腱にも多様性が認められるが、 ほぼすべてが両袖式の石室であること、羨道が埋葬空間と して発達しないこと、 などの共通した特徴がみられることが明らかになった」http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=fHupVt5i548J&p=%E7%89%87%E8%A2%96%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86&u=nwudir.lib.nara-wu.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F10935%2F1684%2F1%2FAN10140874_v23_pp49-53.pdf#search='%E7%89%87%E8%A2%96%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86'
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画像は『春日井シンポジウム第11回 地域学から歴史を読む』服部哲也「家型石棺のひろがり」から転載
Kawakatuが採集した全国の片袖式石室を持つ古墳統計(諸資料・ネット上情報をひとつひとつあたったものでまだ未完成である)
なお、右袖、左袖とは石室入り口から見た袖部の広がっている方向。
●奈良県
天理市 石上大塚古墳(右袖)
天理市 東乗鞍古墳(左袖)
高取町 市尾墓山古墳(左袖)
平群町 柿塚古墳をはじめとする平群谷古墳群の多く
葛城市 大和二塚古墳(前方部石室のみ右袖)
平林古墳(同上)
●大阪府
茨木市 南塚古墳(左袖)
柏原市 平尾山7号墳(左袖)
茨木市 南塚古墳(左袖)
柏原市 平尾山7号墳(左袖)
●京都府
向日市 物集女車塚古墳(左袖)
京都市 天塚古墳(右袖)
長岡京市 井ノ内稲荷塚古墳(左袖)
●和歌山県
和歌山市 岩橋千塚古墳群の古いもの(右袖主体)
和歌山市 岩橋千塚古墳群の古いもの(右袖主体)
●兵庫県
神戸市 北神第3地点古墳(右袖)
多可町 東山1号墳(左袖)
揖保郡たつの市 龍子向山1号墳(右袖)
神戸市 北神第3地点古墳(右袖)
多可町 東山1号墳(左袖)
揖保郡たつの市 龍子向山1号墳(右袖)
●岡山県
赤坂町 鳥取高塚古墳(左袖)
●香川県
高松市 横岡山古墳(左袖)
●愛媛県
松山市道後 祝谷6号墳? (右袖)
松山市道後 祝谷6号墳? (右袖)
●高知県
香南市野市町 大谷古墳(右袖)
●福岡県
糟屋郡篠栗町乙犬 中園古墳(左袖・九州唯一か?)
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●大分県
宇佐市川部・高森 鶴見古墳(右袖)
宇佐市川部・高森 鶴見古墳(右袖)
●愛知県
名古屋市守山区 小幡茶臼山古墳(右袖)
同じく 東谷4号墳(右袖)
名古屋市守山区 小幡茶臼山古墳(右袖)
同じく 東谷4号墳(右袖)
●滋賀県
高島市マキノ 斉頼塚古墳(左袖)
●福井県
若狭町 向山1号墳 (右袖)
十善の森古墳(右袖)
市場古墳(?)
※福井県では片袖式を北部九州式横穴石室と分類しているようだが、石室は九州式でも、片袖式は大和スタイルゆえ、日本海に多い折衷型のひとつとしたほうがいいのでは?Kawa
若狭町 向山1号墳 (右袖)
十善の森古墳(右袖)
市場古墳(?)
※福井県では片袖式を北部九州式横穴石室と分類しているようだが、石室は九州式でも、片袖式は大和スタイルゆえ、日本海に多い折衷型のひとつとしたほうがいいのでは?Kawa
●長野県
松本市 柏木古墳(片袖左右不明)
●静岡県
●山梨県
●東京都
三鷹市 天文台古墳
松本市 柏木古墳(片袖左右不明)
●静岡県
●山梨県
●東京都
三鷹市 天文台古墳
など全国の5~6世紀の古墳に採用されており、これらはヤマトから派遣された人物の墓と考えられるため、古墳時代後半の雄略時代には、全国に畿内政権の官僚たちが派遣していると考えてよいようである。ただ、日本海側や太平洋側、紀伊半島~東国などの地域には九州様式との折衷石室も点在し、筑紫勢力がヤマト内部の天皇クラスにまでその新羅シンパとしての政治力を及ぼしていたことも否定できない。また現状でもその数が多いため、いまだに分布図や分布一覧が作られていないのだろうと想像する。
こうした考古資料の分布図作成は、今後、東アジア全体の類似遺物や形式を網羅されていかねばならない貴重な資料となる。しかしネット上に、そうした統計的な視野から見た分類一覧は、まだまだ少なく、専門家の資料も必ずしも最新とは言えないものが資料として著作に使用されてしまっているのが残念である。ある程度、統計の数値を充足したものの分布図・一覧表の専門家たち内部での作成を在野好事家は心待ちにしていることだろう。
しろうと研究者である自分にとっても、充分なサンプルを網羅することは、これまでどの資料を作るに当たっても多大な時間を要する作業であるが、できるだけ新たな視点のにじみ出るわかりやすい資料を作って行きたいと考えている。もちろん在野である限り、その信憑性は疑われてしまう運命にあることは重々承知のうえである。むしろこれをヒントにして、読者諸氏が再検討され、挑戦してくれることを願う。研究とは本人が死んだのちまで、役にたつものにしたいものである。
今回の片袖式石室について、ネット上や紙面には、やはり地方の範囲の狭小な視野の資料が点在するばかりで、それを巨視的、俯瞰の視野で集めて論じた資料や考察は皆無であったことが、このブログを始めて以来すでに8年経つが、まことに残念なことだと感じたものである。
歴史、特に国境なき古代で、一国、一地域で考えるべきものではなく、越境するを本意とされたし。郷土資料では終わらぬ目を持たれたい。そのためには脳細胞の若い専門家の必要性を痛感するしろうとKawakatuであった。
最後に考古学者・松木武彦の言葉を借りて申すなら、
「考古学は科学である。科学である限りは、客観的で越境した、できるだけ普遍性ある資料を民間に明らかにする義務がある」
以上Kawakatu
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