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民族考古学のミドルレンジ・セオリー/断定には早すぎる。ギムレットにも早すぎる

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今宵はかなり難しい内容なので、「かわかつワールド」に習ってここでもBGMをおつけしよう。難しい論理ではなく、文章と画像を酒の肴としていただきたい。
 
 
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McCoy Tyner Trio - Monk's Dream
 
 
 
なに?やかましいって?
じゃあ、音を消せばいいんじゃないか。
なんでもかんでも文句を言うなよ。権利ばかり主張して義務は一向に遂行しないガキどもよ。おとといきやがれ。
 


 
 
 
民族考古学のミドルレンジ・セオリー
ルイス・ビンフォード Lewis Roberts Binford 
ミドルレンジ・セオリーとは
「一般理論(ゼネラル・セオリー)に対する中位の理論レベル。文化の進化や環境適応のような文化システム自体の動きを法則としてとらえようとするレベルの理論に対し、考古資料の解釈に関わるレベルの理論体系。」(安斎正人1998)

あくまで断定的・恣意的結論を用意しないために「中間領域」ともいう。
 
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考古学資料の記録を分析することによって得られるさまざまのパターンが、何を意味するかを解釈していく方法論である。

「狩猟採集諸民族の各種道具をめぐる技術には複雑な構造が存在する。 従って種々の異なる道具各種を、 単に 「トゥールキッ ト」 の一一成要素として、 均質なものと理解する見方は不十分なものとされた? 同一集団が有する 「道具箱」 の中身といった一元的な点では、道具がどのように生活の中で、 製作され、 使用され、 補修され、 補充され、 管理され、 転用され、 代用され、 入れ替えられ、 廃棄されるかをめぐる、 複雑なシステムを理解するのは困難であるとして提示された概念である。
 
ヌナミウト ・ エスキモーの保有する技術の構造を分析したビンフオードは、 いくつかの目立った特徴を認めた。 「管理的技術を見る」 としゝう副題の論文(Binf。rd ー979)で指摘したのは、 従来一般的な道具のとらえ方、 すなわち常に保持されている 「T。。ーkit」 は、人間集団の有する 「範型」 という、 頭のなかにある観念が実体化したものという、 固定的なとらえ方では、 現実の狩猟民の技術構造を理解するのは難しいとの点であった。 ヌナミウトの技術の特徴には、 以下の諸点があげられる。 道具の中で、 維持 ・管理の方式がシステム化している 「管理的」 部分と、 当座の状況に規制される要素が大きい 「便宜的」 部分とが、 分して存在していること、 道具には季節的な変動が著しいこと、 常に用いるモノ と予備のモノのように常用 ・ 常備という面においてバラエティがあること、 道具の所属という面では、 特定の個人装備 ・ 場所に付属する 「備品」 的性格をもつもの ・ 間に合わせ的なものという、 3つの区別ができることなどである。 これらが複雑に有機的な諸関係すなわち、 組織的な構造を有しているという実態が察された。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=tHmTcMAGRxgJ&p=%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89&u=ir.library.tohoku.ac.jp%2Fre%2Fbitstream%2F10097%2F41202%2F1%2Fkaken-07610400.pdf#search='%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89'
 
 

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なんのこっちゃであろう。
 
「過去について記述されたどんなテキストでも、それは全て、現在において、記述されたということを逃れることはできない。そうした過去の記述のあり方はアナロジー(類推)であるという指摘を免れることはできない。アナロジーはあるコンテクストから導かれた情報で、他のコンテクストにおける事実を説明する方法である。考古学の場合は「現在から得られた情報」で「過去の出来事」を説明するアナロジーであるといえる。
 
 考古学においては、どんな理論も、アナロジーを用いて、過去と現在を結び付けている。常に、過去の物は現在の物と似ていると考える。これはアナロジーである。どんなに日常的な解釈の行為でもアナロジーによって支えられている。考古学者が「これは貯蔵用の甕である」と考えたとしよう。甕の大きさや頑丈なつくり、文様がないことなど、日常的に使われている現在の貯蔵用の甕と同じだと見えるのがごく自然だからである。そして、この考え方は別のアナロジーで補強される。例えば、どうようの甕が、宮殿の料理を準備する部屋、台所と名付けられる。これもアナロジーである、で発見される。科学的な分析から、甕の中に、食料が残されていたことが明らかになった。これも現代からのアナロジーであるが、こうして、貯蔵の甕だと考えられる。
 
   まだ、多くの関係、異なる二つの状況を類するで結び付けることはできる。かつてはこうした考え方が多かったことはあきらかである。しかし、こうした考え方は過去の歴史を記述する究極の方法ではない。そして、類推について多くの批判が必要である。」
http://blog.livedoor.jp/a879198035/archives/51970041.html
 

「1970年代、ルイス・ビンフォードは類推の問題について精力的に研究を進めた。しかし、結果的に類推についての検討は経験主義あるいは実証主義についての大きな問題となってしまったが、こうした問題は二次的なものであるとしている。そして、科学的な考古学であるためには、類推の問題を正しいものするか、解決しなければならないと主張する。
 
   石器や骨器、土器片などの考古学資料は、現在では、さまざまな活動が凍りついた記録となってしまっている。考古学は考古資料やその位置、地表のあり方を注意深く、即興的に記録化しなければならない。しかし、考古学の目的はそこにあるのではない。考古学の主題は過去である。考古学はこうした現在の物質的様相から過去を知ることである。特に、過去の文化のシステムが機能するそのあり方や文化の発達のあり方が変容する動的な仕組みである。
 
   さらに、考古学は科学であるので、最後の章で検討するような説明の為の一般論を発見しなければならない。考古学は過去の文化が変化する動的な仕組みについて法則を見出す学問領域である。

   考古学は、常に考古学的資料のより良い解釈を可能にする、「活動が凍りついた記録」と「活動」を結び付ける可能性について議論しなければならない。ビンフォードは「活動が凍りついた記録」と「活動」との間にある空白、ミドルレンジについての仮説をつくるべきだとする。例えば、ある遺跡では、副葬品の豊富な墓は少なく、副葬品の乏しい墓が数多く発見されたとしよう。これは「動きが凍りついた記録」である。この遺跡のあり方から富や社会の不平等の特質(活動)を明らかにしなければならない。それを副葬品の数あるいは価値と埋葬された人の社会的地位を結び付けるミドルレンジを仮説することによって行う。あるいは、南東アメリカの集合住宅を発掘し、時間とともに、面積が大きくなり、部屋の数も増加することが明らかになったとしよう。私たちはこうした事実から人口が増加したと考える。この場合にも、面積の増加、部屋数の増加と人口の増加は相関関係にあるというミドルレンジの仮説を用いている。」
http://blog.livedoor.jp/a879198035/archives/51970042.html
 
 
 
 
 
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うん?まだわかりにくい?

じゃあ・・・。
 
いかに考古学が科学であるかを証明するための論理的類推。
 
考古資料がどう使用されたかは、現代人考古学者や歴史家の考える現代の常識によって類推されてしまう運命にある。これがゼネラル・セオリーによる解釈だとしよう。1970年までの考古学では、そのような「こうに違いない」的な、現代の人間の道具の使い方から、その類推から、それを証明する法則(セオリー)を導き出してきた。対してミドルレンジ・セオリーではそれはあくまで仮説であるとして、そこから導かれる人間行動の法則を見出す。
 
 

「こうした提案はビンフォードによって、ミドルレンジ(中間領域)と呼ばれる。それは、活動が凍りついた記録を復元することであり、個別的な考古学的な研究から普遍的法則を明らかにするものだからである。しかし、多くの考古学の実践において、問題提起は理論化されなかったり、暗黙の了解であったり、陳腐、些細なものであったとビンフォードはいう。すなわち、より大きな集落はより多くの人々が生活していたという類の提案だったというのである。」

「現在、多くのミドルレンジの問題提起が陳腐あるいは取るに足らないもの成ってしまっている。しかしながら、研究者はその研究領域における仮説を公的に、そして、明確に仮説をつくるべきである。しかし、それがいわゆる常識と呼ばれるものであってはならないだろう。プロセス考古学以前の考古学において、多くの解釈学的問題が生じるのは、理論的だとされたものが、いわゆる常識的なものであり、ミドルレンジの仮説と呼ぶに値しないものだった。例として、中世ヨーロッパの村が計画的につくられていたという仮説をあげることができよう。村々が規則正しく整然とデザインされたものとされ、それを封建領主の支配の証拠と考えられていた。すなわち、規則正しく整然としていることがある種の意図のもとに計画されたものであり、それが封建領主の支配を意味するという暗黙の仮説から成り立っていたのである。同様のことが、建物の大きさや装飾が社会的地位を示しているという仮説、大きさやその様相から、それが道路としてデザインされたものだとすることも多々あった。
 
  仮に、このような仮説が暗黙の了解であり、検証されず、当たり前のことであったとしたら、我々は検証することのできない過去についての物語を語っているにすぎない。それは客観的で、正確であると判断することができないばかりか、それらの議論(研究)が良いもの(値する?)なのか、そうでないものなのかを明らかにしえない。暗黙の了解が認められないという議論は見かけ上尤もらしいだけであり、乱暴で、奇妙なことであるか、何かに取りつかれているのではないかと批判する考古学者もいる。こうした批判は考古学は実践であり、理論は必要ないと考える研究者に多いのだが。(P53)動的な活動を反映したものでありながら、その動的な社会や文化の動きが欠落した現在性の資料から過去の動的な社会や文化の機構を結ぶつけるために、明確にミドルレンジについての仮説を発展させることに意識的であるべきだとビンフォードはいう。(ただし、ビンフォードのいうミドルレンジはロバート・メルトンのような社会学者が定義するミドルレンジとは異なるものであることに注意しておく必要がある。社会学者のいうミドルレンジは経験的法則とグランドセオリーとの間にあるものである《中位の理論》。)

  行為のパターンやそのメカニズムと考古学的の対象との間の関係を見ることができ、明らかにし、注目に値するものとすることができるのは現在においてだけだということに注意しなければならない。新石器時代の農耕民が剥片を周囲に飛ばしながら石鏃をつくっている姿を実際に見ることはできないし、旧石器時代の狩猟民が獲物の皮を剥ぎ、それを解体し、骨を周辺に蹴飛ばし、それを犬が食べ、その残りが埋没し、考古学的資料になることを現実に見ることはできない。我々が同じだと考える行為やプロセスを見ることができるのは、現在の人々が行っている石器製作であり、狩猟と獲物の解体であり、最終活動であり、風を利用して穀粒をゴミから選別する行為なのである。

  ビンフォードはこうした研究が、今ここおいて、実際に行われている民族学的な事象を考古学者が観察し、記録することから、ビンフォードはこれをAcyualistic(現実主義)と呼んでいる。かれは次のようなたとえ話をしてこれを説明する。森の中で特別な形の足跡を発見したとしよう。おそらく、それをどんな動物であるとは解らなくとも、大きな体重のある動物だと考えるであろう。そして、しばらく後に、クマの足跡を確認したとする。この観察から、先に見た足跡が、かつて、クマのような動物の足跡であると確信をもっていうことができる。」
http://blog.livedoor.jp/a879198035/archives/51970043.html
 
 
 
なるほど?うそつけ。
 
 

つまりその時代の常識から安易に類推するのではなく、ほかの考古資料と比較検討ののちに、答えを出せ、それがフェアプレイだろう、とビンフォードは言った、それだけのことである。
 
実はこうしたフェアプレイというのは犯罪心理学の中では、すでにサー・アーサー・コナン・ドイルがあの名作推理小説「シャーロック・ホームズ」の中ですでにホームズに実践させている類推方法なのである。

「こうこうこうだからこうだ」だけではなく「彼女はそれをこうつかっている、ゆえに女性とはこれをこう使うのが一般的である」を付加し、さらに「それが女性の普遍的行動か」を比較検討し、パーセンテージが高ければ、はじめてその類推は成立するということになる。そのためには同類の資料をできるだけ多く、できるだけほかの地域でも採集し、その使用例まで発掘し、はじめてそれらが同じ使用目的を持っているものを断定するってことである。客観の中にもさらに客観的に、つまり科学的に決めなさいということだとおもう。

ふりかえって纏向遺跡は卑弥呼の都だったと確かに言えるか?まだ不十分だろう?だったら同類の遺跡をもうひとつ見つけてから言いなさいということになろうか。

ひるがえってぼくたちのように、少ない他者の決めつけ論理を信じ込み、「こうだ!!」などとネット上に書いてしまうやからは、非科学の極みだっていうことになるだろう。わかった?
 
はい。
 
 
ただしビンフォードのこの慎重論も、今では批判の対象になっており、もっともっともっと!証拠を出せと学者の中では言われている。
 
 
ぼくなどは、今夜ひとつの記事を書いて類推をご開陳し、恥の上塗りをしてしまってもちゃんと夕餉には酒を飲んでご満悦。それなんかまさに「ギムレットには早すぎるぜ」と言われているんだろう。日本全国で。
 
 
 
だってぼくは学者ではない、へっぽこ探偵のひとりでしかないんだからね。
 
 
言い忘れたが、この解釈でいいかも、君は君なりに、シャーロックになって検証することをお忘れなく。人の言うことは信用するな、である。
 
 
 
なにしろぼくはすでにギムレットに半分溺れてこれを書いているんだからね。
 
 
参考文献 民族考古学研究会編『民族考古学序説』 同成社 1998
 
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ようするに
大人はすぐには決め付けない
ってことだよ小林先生
 
 
 
なんていい記事なんだ!
なんて美しい花々だ
なんていい選曲だ
なんだっていいんだ、押せってんだ!
このタグをさ
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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