これは愚問かも知れない。
そもそも日本の考古学はモースから始まるのだから。
日本人 ぼくは趣味で日本史をやっているんです。
アメリカ人 おお!ジョーモンだね?
まず西欧考古学者はジョーモンと言う。
愛好家の中でもジョーモンは非常に関心が高い。
理由は、世界に例を見ないあの華麗な土器であろう。
縄文土器は「芸術はバクハツだ!」の岡本太郎をはじめとして、世界の美術家、芸術家の間でも人気が高い。
しかし・・・
日本人 いえ、弥生ですけど。
と答えるとしばし沈黙が走る。天使のなんとかいう間が悪い時間である。
日本人は弥生時代、古墳時代にばかり視線を送る。理由は卑弥呼である。
しかし外国人はほとんど誰も卑弥呼や邪馬台国などに興味がない。
要するに白人は、自分たちがなしえないことに関しての礼賛と興味に関して、惜しみない拍手と尊敬を持つ人種なのだろう。
だから歌舞伎や能や寿司は、海外で受け入れられ、新劇や新国劇やくじら料理はあまり受け入れられない。
豆腐や寿司は肥満大国アメリカにとって、まさに生きている化石のような痩せた日本人の体型になりたいがための「休耕食物」「代用品」でしかなく、ダイエット・サプリである。勘違いしてませんか?寿司屋さん。うまいと心から思っては食っていないヒトが多いのです。
外人が目を輝かす縄文土器は、縄文中期あたりの一時的意匠で、それ以前はさほどはででも特異でもないデザインで、弥生式と大差ない形状に、わずかに縄目やヘラ押痕がある程度。まして先土器時代、旧石器時代の石製品などは、ヨーロッパのものとほとんど同じである。機能美と使いやすさを追求すると、世界の人びとは同じものにたどり着く。
土器のついでだが、土器とは日本史のいつからいつまで使われただろうか?古墳時代まで?違う、土器は平安時代には「かわらけ」と呼ばれたり、生産地の「深草」などと呼ばれて存続する。そればかりか関東武士たちは室町、鎌倉時代まで、庶民農民にいたってはつい江戸時代でも、まだかわらけ状態である。
陶器は常滑以来早くから瀬戸物・有田・清水などが存在したが、平民・武家では長く高嶺の花だった・鎌倉時代のかわらけ、陶器は特に粗末で、裏側に高台(こうだい)すらなくなった。武士は名前のの通り、ぶしつけな生き方で、そういう粋を極めることを食事にまわすには愚鈍だったようだ。とにかく日本史の中で鎌倉時代ほど食器が安物だった時代はない。
Image may be NSFW.
Clik here to view.![イメージ 2]()
Clik here to view.
ジョーモンが世界で羨望の的であるといことは、欧州にはないからだと書いたが、似た様な縄目土器なら南米などでも出てくる。このはるかなる二点を土器の類似だけで結びつけのは、現時点ではゼネラル・セオリー的なことで無理とは思う。それに大英博物館の昔の補完状態もずさんで、ちゃんと土器を地域別に仕分けしていなかった可能性もある。少なくとも佐原真はそう書いている。(筆者は佐原さんをあまり信用していないが。なにしろ小林大明神の愛弟子である)縄目のパターンに違いがあるという説もある。
ただし、縄で模様をつけるというデザインの土器は日本と南米や中継地的な島嶼にしかないので、なんらかの移住はあってもおかしくはないとミドルレンジで考えている。しかし沖縄に縄文土器が出てこないのは、縄文土器の南下を裏付けないし、北海道からベーリング海周りも陸路に中継地がないのもまた事実。
縄文土器の時代・・・つまり世界史で言う新石器時代であるが、これは気候の温暖化で北半球で始まっているのは共通している。欧州ではこの温暖化に乗じて旧石器~中石器~新石器と段階を経た進化が起こった。しかしモンスーン気候の日本列島ではそれが極度の高温多湿を招き、植物食への依存度がいよいよ高まる。だから土器が発達した。どんぐりやトチノミの灰汁抜き、ぐつぐつ煮込む料理が発達、その究極が現代の鍋料理だったとも言えるかもしれない。複雑な地形が狭い集団をあるていど定住した狩猟採集生活へといざない、結果的に欧州の「個」よりも「家族」「小集団」的な発想や生活を生み出す。これも現代日本人に共通したところが見える。つまり日本人の生活・思想・観念の根幹に縄文文化はいまだにどっかりと根を張っている。
Image may be NSFW.
Clik here to view.![イメージ 3]()
Clik here to view.
ところが戦後、日本の家庭は「家」中心から欧米型「個」中心へと移行する。その最大の原因は欧米へのあこがれであり、西欧料理の魅力だっただろう。三世代以上の一家では、なかなか目新しい欧米食をおじいさん・おばあさんは受け入れにくい。これが核家族になると、父母の好きなものがいくらでも食えるようになり、今度は老人たちが継承してきた縄文からの伝統食が忘れられていった。当然、それまで肉食メインでなかった日本人には肉を効率的に分解する酵素が体内にない。すると糖尿病や高血圧が目立つようになり、肥満児が増える。
パン食はさらに最悪な結果をもたらす。繊維不足である。
動物ならばライオンは長い蓄積で、動物の内臓からビタミンCを作り出すことができるが、長い間雑食・穀物主食の人間にはそれは無理。肉食を続けていればやがて欧米人のような酵素も作り出せるかも知れないが、いかんせん肉食メイン生活は始まってまだ数十年、二~三世代しか経っていない。
堅果類はコメに比べてたんぱく質・炭水化物などは劣るが繊維は多い。それに魚食なので、体にわるかったはずはない。魚の脂肪分解率・熱昇華率は肉を圧倒的に上回る。理想的食卓である。だから今欧米人が和食をダイエットに選んだのは、つまり縄文人・弥生人の生き方を尊敬したという結果になるのである。
コメの改良が遅れていた時代の東北地方では高血圧が多かった。これはあの塩辛い漬物、保存食をあわ・ひえ・大麦で食べていたご先祖さまからの残存遺伝子だと言えるかもしれない。今はむしろコメは北国のほうが有名で、結果的に弥生文化は東北人の寿命を延ばしたかっこうになる。東北では大豆もとれにくかったため、代用豆の使用が多いが、おこわなどにインゲン類、捧げ豆などを代用したものが今も主流で、これは縄文文化の名残である。
西日本にはドングリはないと思っている東日本人もいるかも知れないが、西日本縄文人は樫・椎の実を採集して食べていた。またそれ以上に温暖地特有の産物もあったわけで、決して西日本は縄文後進地だとは決め付けにくい。ただ人口はあきらかに東北やがて晩期には関東が多く、それはやはり植生の選択しやすいのが東だったということになろう。その代わり、温暖地ならではの稲作の始まりは圧倒的に西九州が早い。
外国人にとって、弥生人が日本人の遺伝子のメインになったことはあまり興味がないようで、それはつまり渡来したのもアジア人じゃないか、土器がつまらないじゃないか、などの理由かも知れない。その代わりにアイヌには異様に興味を持つ。顔つきがコーカソイドだからだろう。とにかく珍奇なものへの好奇心が外国人は日本人の数倍ある。日本人はA型民族のせいだけでもあるまいが、どちらかと言えばみんなが同じ方向を向いていないと気に食わない国民性である。実に考え方だけはつまらない。筆者の住む地方都市などは、県庁所在地の大都市なのに、やはり保守的で、変化をきらい、よそもの、変わり者を阻害したがる。それが老人の多い古い住宅地ではことさらで、京都から帰ってきたぼくなどの行動はまったく理解できないらしい。不審者ではないが、怪しい奴であるらしい。もっともこちらはそのほうが都合がいい。いらぬ会合や葬式のお布施など無用だからである。
このように地方には未だに過去の「家」「小集団思想」が形式的だが残存する。まあ、意識の点では東京・大阪とは100年近くの差があるだろう。
縄文集落の多くはせいぜい150人内外の人口である。共同生活は営みやすい。そのほうが確かにリーダーも楽である。ところが弥生時代では稲作のせいだろうが、定住して高カロリー食だったから爆発的に人口が増えた、だからすぐにムラは狭くなり、食糧不足となり、勢い、となりへの侵略となっていく。弥生時代は戦争痕跡の時代とも言える。特に北部九州、山口、島根、鳥取、新潟などで「外来者」との攻防が起きたらしい。もちろんすべてが倭人同士ではなく、海外からの侵入者とのせめぎあいもここでは起きている。日本海側は先進地だったのである。
一方、日本海から南へゆくほど平和で、いなかである。つまりヤマトから戦争遺物が出ないのは、当時、まだヤマトがいなかだったからにほかならない。先住縄文人とのこぜりあいすらおきていないのは、『日本書記』記述とは随分違うことになる。ということは『日本書記』の古い時代の記録はヤマトが舞台ではなく、よそからきた氏族の持ち込んだ伝承だった可能性もあるえわけである。
縄文の人物オブジェを順を追って眺めていくと、土偶に行き着くまでに、最初は土器への絵で始まって、線刻画からレリーフへ向かい、やがてそれだけが独立して人形型になるのだが、そこでも最初は平板から立体の変化がある。ところが古墳時代に目を移すと、また、壁画古墳から線刻、そしてレリーフ、最後に石人や埴輪と、またぞろ同じことを繰り返している。しかも意匠や芸術性でも縄文に及ばない。
もちろん西と東の違いはある。人種も違うだろう。それにしても縄文の洗練は弥生以後とは違って、極めて芸術性が高すぎる。火焔土器や女神土器などは、まして北アジアから同類のものが出てこない。なんだろうこの特殊性は?
筆者は倭人伝が書いた「倭人」のほとんどは九州縄文人だと思っているが、日本海を通して九州の異物は三内のような「大都会」へと流通しているのに、あっちから九州へなにもこないのはおかしいと思える。つまり装飾古墳とかヤマトの直弧文の伝統を東北縄文文化に見てしまうのである。弧文や弧帯文、直弧文のデザインの基礎には確かに橋口達也が言うような南島の貝の渦巻きがあるが、それを組み合わせたのは案外、東北から来ていた縄文人だったのかも知れない。
もうひとつ。ならばなぜゴホウラやイモガイは選んでも、スイジガイは選ばなかったのか、東北縄文人の好みも興味深い。