斜面環境 山の辺の道「1」
中村 三郎 防衛大学校名誉教授・理学博士
4-2 断層前面緩斜面の古墳群
「大神神社から北へ1.5kmの位置に桧原神社がありますが、このお宮も三輪山そのものがご神体であるため拝殿も本殿もなく、三輪山へ向けて鳥居のみが三つ立つユニークな構えの神社で、大神神社の摂社であります。「山の辺の道」を北方へ移動すると、巻向川へ出ます。川沿いに30戸ほどの集落があり、巻向川の谷は俗に「車谷」と呼ばれ、川の上流は断層崖のV字谷を流下し、その後三輪山北麓を西流し下流は初瀬川に合流しています。川の流れを利用して、当時車谷では30を超す水車を稼働させ、三輪そうめんの原料である製粉、あるいは油絞りなどが盛んであったと言われています。
巻向川をこえて竜王山(585.5m)の西山麓には、新旧の扇状地緩傾斜面が発達しており、一部押し出し地形とも考えられる尾根状地や、埋積地塊状の地形起伏を見ることができます。この地帯一面に「柳本古墳群」があります図-6(天理市2004)。2基の巨大な前方後円墳を核として構成された古墳群であり、古墳群北東部に位置する行燈山古墳(崇神天皇陵)、南に位置する渋谷向山古墳(景行天皇陵)の他17の古墳が報告されており、奈良県において最も重要な古墳群の一つとされています。一般に断層沿いの地形と集落との関係をみると、集落は断層直近部分か扇面末端付近に認められ、この位置は湧水との関わりの深いことが十分・・・
また、自然災害と関わり深い異常気象問題について、最近の報道(読売2010)では、名古屋大の中塚武(地球化学)教授が、木の年輪の分析結果から、2〜3世紀にかけて確かに干魃や激しい大雨の時期が繰り返し存在していたことを実証しています(中塚2010)。歴史や考古学の記載でも、当時大和地方における自然災害の頻度は多かったようであります。造構造運動の激しい日本列島、モザイク状の複雑な列島は、モンスーン地帯ということもあり災害の頻度激しく、古来為政者は自然災害との対応に苦労してきました。このような自然条件の中でも、3世紀前半頃には大和の稲作農村社会は逐次発展し、支配階層は強力となり勢力圏も拡大しました。この頃、順次多数の原始的国家の並立に終止符をうち、大和に統一国家としての大和王権を出現した(日林調1998)とあります。
前記柳本古墳群北東部に位置する行燈山古墳に祀られている崇神天皇(258年没)が、日本最初の統一者であったということは、古典に「御肇国天皇」と記載され讃えられていることから、確かであると指摘されています(水戸部1989)。崇神陵は山麓に墳丘を築き、周りをダムアップして環濠としたもので、かなり高度の技術を要した立派な陵墓で、肇国の英雄にふさわしいその功績を後世に伝えようとした往時の人々の意向が伺えます。
大和王権出現の頃から、奈良盆地を中心とした地域
間の交流はますます緊密となり、人の行き来する手段としての「山の辺古道」は大きな役割を持ちました。同時に大和川は国内外の歴史・文化を育み、人々は国の安泰と共に、国土の防災に伴う地域の安全・安定のための防災意識を強く持つことになります。
最近の兵庫県南部地震(1995)・新潟県中越地震
(2004)、そしてこの度の東日本大地震(2011.3.11)において日本人は大変な被災経験をしています。調査等で来日された国外の人々が異口同音に賞賛する、被災地における日本の人々の行動と冷静さと秩序の良さがしばしば報じられています。これは、古来頻度激しく地震や風水による災禍を経験し、耐えてきた日本人の心の中には、万物の生滅変化の過程で天然の無常という感覚が培われ、それが国民性・精神性に大きな影響を与えているのではないかと言われています。
人間には人間の都合、自然にも計り知れない自然の都合があり、その狭間で私達の生活は展開しております。「山の辺の道」をたどりつつ周縁の風情を展望していると、古奈良の「人と自然」に関わる経過と歴史を感じることができます、同時に何時の世も「アメニティー」と地域防災の大切さを改めて思考させてくれるような気がします。」
http://www.stc.or.jp/14sabo/sabo/pdf/SABOVol.107.pdf
1みわやまでんせつ【三輪山伝説】
《古事記》《日本書紀》崇神天皇の条にみえる伝説。《古事記》によると,陶津耳(すえつみみ)命の娘活玉依毘売(いくたまよりびめ)には夜な夜な通う男があってついに身ごもる。父母が怪しんで男の正体をつきとめるために,糸巻きに巻いた糸を針に通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。翌朝見ると糸は戸のかぎ穴から抜け出ており,糸巻きには3巻きだけ残っていた。そこで糸をたよりに訪ねて行くと美和(みわ)山の神の社にたどりついた。 (苧環型)
2丹塗り矢型説話
「丹塗り矢と水銀」
「カミムスビの娘キサカヒヒメは加賀の潜戸で我が子が立派な男神なら失せた矢よ出てこいと言った後、鉄の鏃の矢が出てきてその矢で洞窟を射通した。その他、オオモノヌシが丹塗り矢となってセヤダタラヒメと通じる話、ホノイカヅチが丹塗り矢になってカモワケイカヅチが生まれる話もある。丹塗り矢は赤い色、鉛丹という性質から邪霊を払う意味もある(丹塗り矢型)。
洞窟・溝と女性性、矢と男性性が結びついており、タタラは製鉄と関連し、丹は水銀と関連している。金属が男性・女性の結びつき、生産と結びつけられるのは当然だろう。このように神話は自然と人間の重要な営みの関連性を比喩によって表している。」
http://toi-clinic.com/sinwa/21-40/sinwa-33.html
洞窟・溝と女性性、矢と男性性が結びついており、タタラは製鉄と関連し、丹は水銀と関連している。金属が男性・女性の結びつき、生産と結びつけられるのは当然だろう。このように神話は自然と人間の重要な営みの関連性を比喩によって表している。」
http://toi-clinic.com/sinwa/21-40/sinwa-33.html
『新撰姓氏録』大和国神別大神朝臣条
「大神朝臣。素佐能雄(スサノオ)命の六世孫、大国主の後なり。初め大国主神、三島溝杭耳(ミシマミゾクヒミミ)の女(ムスメ)、玉櫛姫に娶(ミア)ひたまひき。夜の曙(アケ)ぬほどに去(カエ)りまして、来(ミタ)すに曾(サラ)に昼到(キ)まさざりき。是に玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、明くるに至りて、苧の随に、尋覔きければ、茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の御諸山(ミモロヤマ)に指れり。環りて、苧の遺を視れば、唯、三縈(ミワ)のみ有りき。之に因りて姓を大三縈(オホミワ)と号けり。」
「大神朝臣。素佐能雄(スサノオ)命の六世孫、大国主の後なり。初め大国主神、三島溝杭耳(ミシマミゾクヒミミ)の女(ムスメ)、玉櫛姫に娶(ミア)ひたまひき。夜の曙(アケ)ぬほどに去(カエ)りまして、来(ミタ)すに曾(サラ)に昼到(キ)まさざりき。是に玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、明くるに至りて、苧の随に、尋覔きければ、茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の御諸山(ミモロヤマ)に指れり。環りて、苧の遺を視れば、唯、三縈(ミワ)のみ有りき。之に因りて姓を大三縈(オホミワ)と号けり。」
神武紀 大物主
「然れども更に大后(オホサキ)と為む美人を求めたまひし時、大久米命臼しけらく、「此間に媛女有り、是を神の御子と謂ふ。其の神の子と謂ふ所以(ユエ)は、三島溝咋(ミシマミゾクヒ)の女、名は、勢夜陀多良比売(セヤタタラヒメ)、其の容姿麗美しかりき。故。美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便為れる溝より流れる溝より流れ下りて、其の美人の富登<此の二字は音を以いよ。下は此れに效へ>を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎(イススキ)。<此の五字は音を以いよ。>乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)命(ミコト)と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と謂う。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり。」とまをしき。」
「然れども更に大后(オホサキ)と為む美人を求めたまひし時、大久米命臼しけらく、「此間に媛女有り、是を神の御子と謂ふ。其の神の子と謂ふ所以(ユエ)は、三島溝咋(ミシマミゾクヒ)の女、名は、勢夜陀多良比売(セヤタタラヒメ)、其の容姿麗美しかりき。故。美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便為れる溝より流れる溝より流れ下りて、其の美人の富登<此の二字は音を以いよ。下は此れに效へ>を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎(イススキ)。<此の五字は音を以いよ。>乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)命(ミコト)と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と謂う。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり。」とまをしき。」
『神道集』諏訪縁起事・大岡寺観音堂縁起
「甲賀権守の息子である甲賀三郎は大和の国司となり、三笠山の春日大社参詣のおりに春日姫を娶る。だが、三郎が二人の兄と伊吹山で狩りをしていると春日姫が行方不明になってしまった。
春日姫を探し求めた三郎は信州蓼科岳の人穴のなかで妻と再会し救い出すことに成功するが、兄たちの企みにより穴から出られなくる。
三郎は流浪の末に辿りついた維縵国(ゆいまんこく)で国王の末娘と結婚して、そこで13年と六ヶ月の間暮らす。だが春日姫のことが忘れられず、再び地上に戻る決心をして国王父娘の協力を受け、千日かけて信州浅間岳に着く。
しかし笹岡の釈迦堂で三郎の体が蛇になっている事に気づき、彼は仏壇の下に身を隠してしまう。日が暮れた頃、釈迦堂に十数人の説法僧が訪れ、その会話から甲賀三郎は維縵国の服を脱いで池の水を飲み、呪文を唱えることでと元に戻れることを知る。人に戻った三郎は三笠山で春日姫と再会し、平城国で夫婦ともに神道を学ぶ。
そして信濃国岡屋庄に諏訪大明神として現れた甲賀三郎は上社に、春日姫は下社に祀られることになった。 」
甲賀三郎訪方(すわさぶろう・よりかた)→
泉小太郎神話
「西塩田村にある鉄城山の山頂に寺があり、そこへ毎晩のように通う一人の女性がいた。彼女がどこからやって来たのか分からず、不思議に思った寺の住職は、彼女の衣服に糸を付けた針を刺しておいた。翌朝、住職が糸をたどって行き着いた先は、川の上流にある鞍淵の洞窟であった。中をのぞくと、赤子を産もうと苦しむ大蛇の姿があった。住職は驚いて逃げ出し、出産を終えた大蛇も正体が知られたことを恥じて死んでしまう。赤子は小泉村の老婆に拾われ、小太郎という名前で育てられた。身長は小さいものの、たくましい体に成長した小太郎であったが、食べては遊んでばかりで仕事をしたことがない。14、5歳になった頃、老婆から仕事を手伝うよう促された小太郎は、小泉山へ薪を取りに出かけることにした。夕方、小太郎は萩の束を2つほど持ち帰った。これは山じゅうの萩を束ねたものだから、使うときは1本ずつ抜き取るようにして、決して結びを解いてはいけない、と小太郎は老婆に伝えたが、たった1日でそのようなことができるはずがないと思った老婆は結びを解いてしまう。すると、束がたちまち膨れあがり、家も老婆も押しつぶしてしまった。」(童話『龍の子太郎』の元になった信州の話)
健磐龍命と蹴裂伝説
「むかし、阿蘇谷や南郷谷は外輪山にかこまれた大きな湖でした。
「むかし、阿蘇谷や南郷谷は外輪山にかこまれた大きな湖でした。
この湖の水を流し出し、人々の住む村や田畑をひらいた神様、健磐龍命のおはなしをしましょう。 命は、神武天皇のおいいつけで、九州の中央部を治めるために、山城の国から、はるばる阿蘇の地にやって来たのです。
外輪山の東のはしから、満々と水をたたえた湖を眺めていた命は、この水を流し出して人々の住む村や田畑をひらくことを考えました。外輪の壁を蹴破ることは出来まいかと、ぐるっと見回し、北西にあたるところにやってきたのです。
「よし、ここを蹴破ってみよう。」
しかし、そこは、山が二重になっていて、いくらけってもぴくともしないのです。現在、二重の峠と呼ばれているところでした。
命は、少し西の方にまわってみました。「ここならよかろうか。」満身の力をこめて蹴りつけました。 湖の壁は大きな地ひびきをたててくずれ落ち、どっと水が流れ出したのです。
あの阿蘇谷.南郷谷いっぱいの水も、みるみるうちに引いていきました。
しかし、途中からばったりと流れがとまってしまったのです。
「これはおかしい。水が動かなくなってしまった。」
命は川上を調べてみました。おどろいたことに、巨大な鯰(なまず)が、川の流れをせきとめていたのです。尾篭(おごもり)の鼻ぐり岩から、住生岳のふもと、下野までのあいだに横たわっていたといいますから阿蘇谷の半分ぐらいに及んでいたことになります。
命は、この鯰を退治しました。鯰が流れついたところを鯰村、といい村人が片づけた鯰は、六つに分けられたため、その部落は六荷-六嘉(ろっか)というようになりました。
また、水の引いていったあとが、引水(ひきみす) 土くれがとび散ったところは(つくれ)津久礼 小石がたくさん流れていったので合志(こうし)、水が流れ出したところは数鹿流(すかる)であり、スキマがアルという意味だともいい、鹿が流されたという意にもとれるのです。阿蘇には、このように神話や伝説にちなんだ地名が多いようです。」
これらすべてが大三輪氏つまり大神氏が伝えてきた伝承である。それはつまり多氏の伝説だということになる。『古事記』を編纂した太安麻呂の先祖伝承である。オオタタネコの子孫の伝承である。つまり『古事記』の底流に彼ら多氏『古事記』がまずあって、そこから『日本書記』も出てきたのだと大和岩雄は言うのである。
真楽寺大池(甲賀三郎伝説)
いずれも蛇あるいは矢が主人公の伝奇的説話・伝承である。
そのどれもが蛇すなわち災害が神であることを言い、蛇が地下、地中の穴に潜み、人前に姿を変えて出てきて、妻を求めることとなっている。これはちょうど出雲神話の八岐大蛇が、毎年娘を生贄として食べに来るのとまったく同じ意味である。つまり大風や津波や土砂災害を象徴している。
苧環という糸巻きは、古代中国の西王母が持っている「工」である。これを「かせ 枷」と言う。これは以前も書いた。手かせ足かせの枷である。工人の「工」の形である。つまり工人とは最初、糸をつむぎ、機織し、衣服を縫うものであり、そのもくもくとした行為を巫女の呪であると考えたのである。また、同じく初期技術である籠編みもまた呪であり、こちらは「籠もる」とした。神獣鏡の西王母や東王父が手にコンパスや定規を持つわけはここにある。九州に多い方格規企鏡の「きく」とは定規とコンパスのことで、TLM鏡などと形状で呼ぶこともある。それぞれT字定規、差し金、コンパスを表す。
その苧環を蛇の衣に指すというのは、娘の側の「願い」を示している。祖霊の正体を片や蛇=海蛇=来訪する災害神に求め、妻になるものを生贄=人柱=人身御供=災害平癒の犠牲としてある。災害とは言うべくもなく、古代にはなすすべもない神の怒りであったが、それはつまり大自然の摂理、すなわち宇宙と地球のなせるパワーの象徴なのである。ゆえに宇宙=神だったのが古代~近世である。その姿のひとつに蛇という、地を這う異類に求めたわけは、蛇が山を鳴動して降りてくる土石流や溶岩流にたとえられたからにほかならない。
だから「つつ」の解釈に吉田東伍などが「星」としてしまったのも無理はなかった。しかし宇宙すべての象徴が「つつ」という蛇にたとえられるとは考え付かなかったようである。スケールが違うのだ。まことにトポロジー的な着想を、古代人は想像できた。「筒」のような形状の蛇は、中身が一本の管で、それが輪になるとなんと永遠の生命の輪廻であると、古代人は考えることができた。すでに現代の学者や詩人や哲学者を、はるか大昔に彼らは越える発想をなしえたのだ。
そしてそれが宇宙の原理、大地母の摂理であり、神の使者なのだとまで考えた。それが古墳時代あたりには祖霊となり、一族の生命の根源となり、勾玉のような新生児を生み出し憑依して、一族はいやさかするのだと、彼らは信じた。
同時にその神は、大災害という怒りを引き起こし、一族に災厄をもたらした。神とはそういうものだった。祝いと災厄の双方を、確かに大自然は交互にもたらしたのだから。
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