『日本書記』天武天皇紀に登場する神八井耳命の末裔たち
六月辛酉朔壬午、詔村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣、曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」
六月二十二日、(前月のうちに挙兵を決意していた)天武天皇は、むらくにのむらじ・おより、わにべのおみ・きみて、むげつのきみ・ひろに命じて「聞くところによれば「近江朝庭=天智近江宮」の重臣たちは私の殺害を企てているという。そこで、そなたらは急ぎ美濃国へ迎い、安八磨(あはちま)郡の湯沐令(ゆえの・うながし)多臣品治(おうのおみ・ほむじ 太安万侶の父)に機密を伝え、まずそこで兵士を集めよ。さらに国司たちに知らせ、軍勢を動員してすみやかに不破の道を封鎖するのだ。私もほどなく出陣するつもりだ。
甲申、將入東時、有一臣奏曰「近江群臣元有謀心、必害天下、則道路難通。何無一人兵徒手入東。臣恐、事不就矣。」天皇從之、思欲返召男依等。卽遣大分君惠尺・黃書造大伴・逢臣志摩、于留守司高坂王而令乞驛鈴。因以、謂惠尺等曰「若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺、馳之往於近江、喚高市皇子・大津皇子逢於伊勢。」既而惠尺等至留守司、舉東宮之命乞驛鈴於高坂王。然不聽矣、時惠尺往近江。志摩乃還之復奏曰「不得鈴也。」
二十四日、天皇はいよいよ東国へ入ろうとしていた。このときひとりの臣下が天皇に向かい、
「近江朝庭の重臣らはもとより策謀に長じております。おそらく国中に妨害が巡らされ、通行はままならないでしょう。どうして一兵も率いず、武器も携帯せずに東国へはいれますでしょうか。自分は計画が失敗するのではないかと懸念しています」と言上した。天皇はもっともだと思い、おおきだのきみ・えさか、きぶみのみやつこ・おおとも、あふのおみ・しまを留守司の高坂王(たかさかのおおきみ)のところへつかわし、駅鈴(うまやのすず=公務出張の際の通行手形のようなもの)を発給するよう要請した。天皇は恵尺らに「もし駅鈴を得られないときは志摩はすぐに吉野宮に取って返し、その旨を知らせよ。恵尺は馬を駆って近江国に向かい高市皇子・大津皇子を呼びだして、伊勢国にて私と落ち合うことができるようにするのだ。」と仰られた。恵尺らはそのとおりにしたが駅鈴は得られなかった。恵尺は馬を走らせて近江に向かい、志摩は吉野宮に戻って「駅鈴は手に入れられませなんだ」と報告した。
丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大。是時、人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部眡枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之、天皇大喜。將及郡家、男依乘驛來奏曰「發美濃師三千人、得塞不破道。」於是、天皇、美雄依之務。既到郡家、先遣高市皇子於不破令監軍事、遣山背部小田・安斗連阿加布發東海軍、又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手發東山軍。是日、天皇、宿于桑名郡家、卽停以不進。
秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率數萬衆自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依・書首根麻呂・和珥部臣君手・膽香瓦臣安倍、率數萬衆自不破出直入近江。恐其衆與近江師難別、以赤色着衣上。然後、別命多臣品治率三千衆屯于莿萩野、遣田中臣足麻呂令守倉歷道。
翻訳はご自分で。疲れ果てた。
六月癸酉朔乙未、大分君惠尺、病將死。天皇大驚、詔曰「汝惠尺也、背私向公、不惜身命、以遂雄之心勞于大役。恆欲慈愛。故爾雖既死、子孫厚賞。」仍騰外小紫位。未及數日、薨于私家。
天武天皇4年(675年)6月23日に、大分恵尺は病んで臨終に近づいていた。天皇はこれを知って驚き、恵尺の功を語って子孫を厚く賞することを約束する詔を発し、恵尺を外小紫にした。小紫は高位だが、恵尺が得たのは外位である。出自の身分が低い恵尺を有力貴族と同列にすることはできないが、功臣を高く賞したいという考えから、外位になったと考えられる。恵尺は数日後に自宅で死去した。
壬申紀に登場する人物たちの中で、神八井耳命の子孫は以下の三氏である。
多氏は皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされるが、確実なことは不明。神武天皇東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされる。邪馬台国の女王の卑弥呼もまた、多氏の一族である肥国造の人とする説もある。
古族多氏の子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。
多氏の後裔でもっとも有名なのは阿蘇国造の後裔という肥後の阿蘇氏だが、阿蘇氏の多氏子孫説には多くの疑問があるとされる。阿蘇氏の祖神は健磐龍命であり、多氏とは別系統だが系譜を接合したともされる。筑後国の蒲池氏にもまた多氏の流れを汲むという説があるが、もとより伝承の域を出ない。
大分氏(大分君)は豊後国大分郡(現在の大分県大分市周辺)の豪族であり、多氏の一族で大分国造家とする。壬申の乱の勃発時、恵尺は大海人皇子の舎人だったと推測される。( 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年など)
逢氏の出自は明らかでないが、臣姓であったことから有力豪族であったとみられる。壬申の乱勃発当時、逢志摩は大海人皇子の舎人として皇子のそばにいたと考えられている。
多臣品治(おふのほむじ)の役職であった「湯沐令」については天皇幼少時のめのと・乳部であるともされるが、中国の『史記』に「湯沐邑とうもくゆう、ゆのむら」の前例があり、古代中国と、飛鳥時代から平安時代までの日本で、一部の皇族に与えられた領地である。
「湯沐邑は周の制度として始まった。文献初見は『春秋公羊伝』隠公3年3月条である。そこでは、邴(へい)は鄭の湯沐邑であるとして、湯沐邑について解説する。それによれば天子が泰山を祭るとき、諸侯もみな泰山の下に従う。そのとき諸侯はみな湯沐のために邑を持つという。また『礼記』王制篇に、方伯が天子に朝するときにはみな天子の県内に湯沐の邑を持つとある。どちらも斎戒沐浴を名目とするが、遠くから来る諸侯と従者、使者の滞在に必要なものを、現地で満たすために与えられたのであろう。」
「前漢の高祖劉邦は皇帝になってから、「朕は沛公からはじめて暴虐を誅し、ついに天下を得た」として、挙兵の地である沛を自分の湯沐邑にして、沛の税や労役負担を軽減した。皇帝の湯沐邑はこの一例のみで、その後は皇族が湯沐邑を与えられた。」
以上Wiki湯沐邑より
要するに『日本書記』は天武を前漢の高祖・劉邦(りゅうほう)に見立てたと言ってよいだろう。ほかにも劉邦のエピソードが使われている。天武が天智天皇から次期天皇として与えられた直轄地が美濃国(岐阜県)の海岸部、安八磨の海に面した土地(現在の安八郡あんぱちぐん)であった。だから湯沐令とはつまり美濃国・尾張国にまたがる海部の管理者だと見られる。
大分君もまた大分郡から海部郡をたばねた海人族管理者であろう。
すると逢臣もおそらくそういう地方の海人管理者であろうと思われる。
神八井耳の子孫の多くは、このように海部に関わる職業の人が多いようだ。
古族多氏の子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多いわけだが、軍事的にも対外的にも政治的にも経済的にも最重要な、海と港を守る氏族であり、「あふ」「おふ」「おう」「おお」の呼称で共通していた。天武の幼名である「大海人おおあま」も、大海人氏という氏族を乳部にしたゆえである。(「天」を「あめの」と読むのか「あまの」と読むのかは意見がわかれるだろうが、大きく「あま」は海、「あめ」は天と見ている)
彼らの大元は大和国十市郡飫富郷の多である。彼らがでは、どこからここへやってきたかは不明であるとしか言いようがない。各地に散らばった記録は天武・持統以前にはまったく見えないためである。壬申の乱の後から突然、多氏は全国の国司になってゆくが、一番遅く九州に入る(持統時代)阿蘇氏・諏訪氏などもそうである。
多氏前身として考えられることは、おそらくまずは九州西部へ渡来した外来人ではなかったか、あるいは先住した倭族系縄文氏族とも、さまざま考えられるがすべて想像でしかない。
少なくとも海人族に関わることから、九州でならば古墳時代の装飾古墳に関わった氏族か、南九州系譜か、遠賀川土器を広めた人びとの子孫か。
ただ、南九州系とは考えにくい。庶兄の手研耳(たぎしみみ)命を殺しているからだ。
こうした記録から考えられる可能性は、最初北部九州で丹生や顔料を採集して死者の祭祀を司った縄文巫覡だったことである。「おう」とは「青」であったという谷川健一の意見も傾聴に値する。青は、当時、すべての色である。青にはまた硫黄などの鉱物の色でもあったのであり、死生観に関わる仕事の人がいた場所や、墓所に「あお」「おう」地名は多い。死は祭祀であり、それらの人は総じて巫覡(ふげき・はふり・かんなぎ=神の預言者)である。
戦国武将の丹羽氏も多氏末裔と主張したことから「丹」水銀と関わった人々だったと思われ、装飾古墳造営者で東へ移動していき瀬戸内を吉備から大和へ、そうしたえにしで倭五王時代にはもう九州国司クラス、靫負氏族として入り、南九州氏族を平定し、国造家にとってかわっていった、それが景行・ヤマトタケルの熊襲征伐に影響した。つまり吉備が派遣の出発点ではあるまいか?
尾張と美濃、海部などで考察するとそういう結果になる。また日本海では出雲にもオウ郡があるので、出雲の横口式石棺や石馬の存在は海部に関与すると考えている。倭五王、天武・持統時代の多氏派遣は、もともと出身地である九州へのいわば出戻り派遣であったかと思える。
ただし、古代の乳部氏族の多くが渡来系であったことから、多氏も渡来系と見る考え方もあるだろう。
いまだ不明。謎の氏族。
なぜ天武のそばに彼等はいたのか?
それは『日本書記』ならではの捏造なのか?
まずもって不明。