縄文人のルーツを探る その1
気多の地名由来を調べていると、「けた」とは「こた」「いた」などと後世なまっているところもあるが、日本海側に広く「け」の語頭に来る地名が多く、「気比」「気多」などは著名であるようだ。太平洋側では気仙、毛野などがあるが、語頭の「け」は果たして由来は何かがわからない。この記事もまだまだ不確実な結論しか導き出せまい。なぜなら資料が少ないからだ。
ただ、縄文人とはのちの蝦夷(えみし・えぞ)・毛人(もうじん・けひと・けっと)であるのか、アイヌ人は縄文人なのか、アイヌと蝦夷はどう違うか・・・などの日本人起源に関わる難解な問題であることは明治時代から今に至るまでほとんど何も前進していない。
科学的には遺伝子DNAの分析が確実なのだろうが、サンプルが希薄で、世界各地に存在する文化的に類似する少数民族との比較もままならないようである。(わかってしまったらそれはそれで面白くなくなるわけだが。)
筆者はまず「けた」に絞り込んで、そのルーツを「毛」に求めているのだが、「け」は大和側の記録では「もうじん・くまそ」のように毛深いという意味から始まったようである(不確実)。えみしとかえぞとかアイヌという呼び名も大和民族側からの銘銘に過ぎないのであろう。
2010年にいくつかのケットについての記事を書いている。
まだ喜田貞吉らの古臭い仮説しか知らない頃のものである。
「■ マットとケットという呼称
マットとケットは新潟県中魚沼郡でそう言う村民がいたそうだ。
マットはまともな平民を指す。「まひと」=真人の俗語である。
対してケットはケットーで毛人(けひと)でありクマ人・肥人などと同種(とこれまでされてきた)、苗場山の西の渓谷・秋山あたりの村落がそれで、「秋山者」とも呼ばれる賤民である。平家落人(貴種流離譚の亜種)を自称したが、もちろんそうした自称は全国的にうそである。
マットとケットは新潟県中魚沼郡でそう言う村民がいたそうだ。
マットはまともな平民を指す。「まひと」=真人の俗語である。
対してケットはケットーで毛人(けひと)でありクマ人・肥人などと同種(とこれまでされてきた)、苗場山の西の渓谷・秋山あたりの村落がそれで、「秋山者」とも呼ばれる賤民である。平家落人(貴種流離譚の亜種)を自称したが、もちろんそうした自称は全国的にうそである。
面白いのはケットーたちの相貌が、
「身体長大、色白く、眼は青味を帯び、毛多く、頬骨が秀でている」(喜田貞吉「「ケット」と「マット」)
「身体長大、色白く、眼は青味を帯び、毛多く、頬骨が秀でている」(喜田貞吉「「ケット」と「マット」)
と語られてきたことであろうか。ちょっと聞いただけでは西欧の白人のごとくであるが、頬骨が大きく出っ張るのはツングースの特徴だし、色白だったり目の色が違うのは、長く同族結婚するからである。身体長大というのは彼らの一面で、逆に短小な者もいたであろう。
血が交じらないと突然変異が多く起きる。目が青い、色が白いは、色素の不足から起こる現象ゆえ、白子とまではいかないが、やはり突然変異である。代々長く日陰の山をさ迷うからかも知れぬ。幕末になって西洋人をやはり「けとう」と読んだけれど、これも外国人を南蛮人とか唐人とかあるいは毛人と読んで来た習いで、毛深く白く、眼の色が青い西洋人を毛人にたとえた差別用語であろう。」
当ブログ既存記事http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49265175.html
当ブログ既存記事http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49265175.html
(明治時代にこういう仮説が定着したものだから、日本人に熊襲も蝦夷もいっしょくたが定着したのだろう。特に西日本人にとっては東北よりも九州のほうが身近)
しかし、このときはまだケート民族への興味のあまりなかった頃で、毛人とはもしやケートのような熊祭祀風習とアイヌの共通性を解くか?と最近思い始めたところである。
ではまずはケートについて知っておきたい。
WIKIケット人より
相貌はアイヌに近いのか?アメリカ先住民にも似る?
確かに新潟の毛人記事にあるように、北方系の特徴であるほほ骨が高く、貌の幅が広く、毛深い。背も高く、まれにテュルク系トルキスタンの中にも存在する青い目の人もいるのだろうと思わせる。こういう人々が、日本人の中にいれば確かに目立つし異民族とされておかしくなかっただろう。説得力のあるよい写真である。
問題は
1 ケートは蝦夷の祖か、アイヌの祖か
2 それ以前に、蝦夷とアイヌは同一なのか
3 東北縄文人とは蝦夷のことか、アイヌのことか、あるいはもっとさまざまな人びとの混合したものか?
4 アイヌはどこまで南下して、なぜまた北海道の片隅に戻ってしまったか?
5 そもそもアイヌは蝦夷なのか?
6 東北に多い「ない」「さわ」などのアイヌ地名と言われている地名は、どこまで南下しているかによってアイヌの南下範囲もわかるだろう。それは蝦夷の南下、縄文人の南下とリンクすると考えても間違いではないのか?
7 あるいは縄文人分析にアイヌは邪魔か?
8 東北で常識のようにされてきた地名のアイヌ語起源説は誰が言いだしっぺなのか?(つまり筆者自身は地名のアイヌ語起源説を日本全国に当てはめようという東北人の「愛県意識」は分析のためにはむしろ障害になってきたと考えている。)
ケート人、ケット人
「ケット人(Ket)またはケート族とはシベリア中央部のエニセイ川やケット川(オビ川水系)などの流域に住む少数民族。かつてはオスチャーク(Ostyak)と呼ばれたが、これはハンティ人やセリクプ人など他の民族も含めた名で正確ではないので、区別するためにエニセイ・オスチャークとも呼ばれ、さらに自称からケットと呼ばれるようになった。
固有の言語ケット語を話す。18-19世紀まではケット人と同じ系統の民族(言語はエニセイ語族と呼ばれる)がシベリア中央部から南部に広くおり、近年になって民族集団として認められたユグ人(Yugh、現在は数人以下で事実上消滅)も同系統であった。つまりケット人はこれらエニセイ諸族のうち最後に残った人々である。ケット語(エニセイ語族)は他のシベリアの言語とは大きく異なる。2008年、エドワード・ヴァイダの研究で北米先住民のナ・デネ語族と同系統の言語であることが明らかにされ、デネ・エニセイ語族という呼称が提案されている。
夏冬で居住地を移し、夏は下流にて漁労を、冬は上流にて狩猟を行い、トナカイ遊牧を生業としてきたが、17世紀以来ロシア人に圧迫され、さらにソ連時代には集住政策がとられたため、現在では古来の社会・生活様式は失われている。ソ連時代には主にコルホーズにて農牧業を営んでいた。
古来の宗教はシャーマニズム(シャーマンは1960年代にはいなくなった)で、その他に熊崇拝など他のシベリア諸民族と共通する点も多い。ケート神話を持ち、天神エシ、悪神ホセデムをはじめとする自然神を信仰していた。
人口は2002年の国勢調査によれば1494人で、これは1920年代からあまり変わっていない。そのうちでケット語話者は現在600人ほどとされる。
古代シベリア南部に栄えたタシュティク文化や丁零(一般にはテュルク系とされる)との文化的関連を考える説もあるが、地理的に重なる以外に積極的な証拠はない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%BA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%BA
第一章 ケート語初等読本の読解
1−1 ケート民族
「ケート民族は西シベリアの大河エニセイ河の中下流域、そこのタイガ地帯とトゥンドラ地帯に住み漁労と狩猟を営む少数民族である。
кет ket は1人2を意味する自称であって、複数形はデング денг deng 1人々2という。他にオストィク остык ostykとかユグィン югын jugynとも言った。
今もってその言語系統が不明であり、シベリアの謎の民族とも言われている。この言語はその孤立性と文法構造の特殊性から、古来多くの言語学者の興味をひいていた。ケート語はシベリアの他の言語、例えばサモエード語やトゥングース語、とは著しい違いを見せ、言語学者により、漢・チベット語、北コーカサス語、バスク語(Basque)、日本語 2、ビルマ語、果ては北米インディアン語とまで、その系統関係を比較された経緯をもつものであり、しかもその根拠のいくつは強力であった。
謎の民族とはいえ、シベリア民族学は彼らの成り立ちについて次の様な歴史を再構
築している3
:祖先は青銅器時代にオビ河とエニセイ河の南の連水地域で、南シベリアのユーロペイドと古代のモンゴロイドとの混血によって成立した。紀元千年紀にチュルク語諸族、サモエード語諸族、ウゴル語諸族と接触をもつようになった。数波の移住によりエニセイ河北方に定着した。ロシア人との出会いは17世紀の初めである。
この南方起源説の成り立つ経過を、民族学者ポポーフ(А. А. Попов A. A. Popov)とドルギフ(Б. О. Долгих B. O. Dolgikh)の考えをモデルに更に詳しく紹介しておこう4。
十七世紀(史料の教えるところ)、ケートと言語的に親縁関係にあったアリン(Arin)、ヤリン(Yarin)、コット(Kott)、およびバイコット(Baykot)は、馬を飼い牧畜を行っていたが、農業も行い、更にはまた鉄鉱石からの鉄の精錬も知っていた。
今日のケートは、ガウンに似た開放的な服を着(テュルク系遊牧民は前開きの上着を着る。寒冷地で騎馬なのにである。おそらく寒さより騎馬での邪魔にならないからだろう。これは過去調査済み Kawakatu)、ショール(Shor) 族の鍛冶技術に近いものをもっており、これらはいずれも南方に起源がある5。エニセイ河流域のタイガは農業、牧畜には不向きであり、南方にその適地がある。また鉄鉱石はアルタイ山地がその供給地であり、(カールゲル著ケート語初等読本およびドンネル収録音声資料試論3)ここには鍛冶に優れたチュルク語系民族が居住している。これが彼らの故郷が南であるとする根拠である。
民族誌も南方を示唆する。その伝承は、「突破することが困難なほど高い山を越え、自分たちは南方からシベリアへやって来た」、と語る。東方にあるウラル山地は千メートル程であり、植生も地勢も踏破には容易であり、伝承の語る山とは考えられない。
またケートの人々は決まって、「南に居た頃はトィシタッド Tys2tads 1山の石人2から攻撃をうけ、北へ移住したのはそのせいだ」、という話をしている。
次に、(エニセイ上流へやって来た)ケートは強いキリキ(Kiliki)の攻撃に遭い、河を更に下らなければならなかった。この伝承の内容は、(ケートの居住しない)エニセイ河上流のある支流につけられた名称の意味がケート語を基にして解釈可能である事実に暗合する6。
よって歴史資料も民族誌も、彼らが南からエニセイ河上流に入り、その後中流域に下ったことを推測させるのである。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=BvFXv2trowoJ&p=%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%88%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C&u=www.lib.kitami-it.ac.jp%2Fwp-content%2Fuploads%2F2013%2F11%2Fkitami_shs02.pdf#search='%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%88%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C'
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さて、日本語の「気多」とは「ケート」だったのであろうか?
当初、筆者は「来た」を念頭に置いた。
そういう地名は全国的に多いからだ。「きた」がなまってか、あるいは蝦夷たちの言葉かはわからないが、来た→けた ではないかと。
しかし上記の解説を読むと、ケートこそが語源ではないかと行き着いた。
ケートは新潟沿岸の青い目のケットとどう関与するかが気になる。
気多神社の日本海での分布
気多信仰の関連地名は内陸部の飛騨などにも広がっている。
気多神社の分布は但馬国気多郡、越前国. 加賀国 江沼郡の気多御子神社、越中国射水郡気多神社、越前国頸域郡の居多(けた). 神社、遠江国(静岡県) 等があって、「気多」の神名、地名は. 日本海沿岸の中央部に特有の分布があり、三代実録掲社として越前 国、飛騨国(気多若宮神社)が鎮座している。また新潟の河内神社も正式には式内社 越後國磐船郡 多伎神社で、御祭神は雲上佐市郎となっているが、「たき」は「けた」の逆転現象で、河内は大阪の河内物部氏と縄文系オオナムチに関わる可能性があろうか。となるとやはり縄文系だと思われるが?
気多・気比と日本海縄文文化の関係図
祭神はいずれもオオナムチ(オオクニヌシ)(地域によって物部系祭神がかぶさる。新潟の弥彦神社などがそうである)であるので、中心にあるのは出雲文化のようであるが、それはおそらくだが、東北から縄文人が南下して出雲に集中していったという歴史的背景があるからだろう。出雲の気多島は日本海に突出する半島の先の先にある小島であるが、例えば気仙地名にも突出した岬の意味がある説もある。また出雲節、出雲言葉のこれらの地域との関与が考えられるようだ。
となると「け」地名は縄文人地名だ?となるかも知れない。
※物部氏とオオクニヌシの関係は、スサノヲ祖人として出雲経営に物部氏が関わったからだろう。その後、敗北した河内物部氏残党が阿波や古志(越)に移住した結果、敗者の国家神である出雲オオクニヌシを祭ったか?物部氏が近畿にいた多くの縄文系種族(長髄彦のような)の最初の管理者だったからかも知れない。
「けたとは、水の上に渡した棒で、橋の一種であるとは言へますが、橋ではないので、間のあいてゐる渡し木なのです。同時に叉、いまだにその意味を失はずに居ります。けたはまう少し形が変れば、たな ── 海岸や水中に突出したもの ── と同じ形になるのであって、ともかく、海から陸地へつなぐもので、何も土地と土地とをつなぐものではなく、それを通らねば陸地に上れない、と考えられて居りました。これがけたなので、皆水に関係のあるものなのです。湯桁なんかを考へても、叉井桁でも、水に関係のあるものだと思はれます。神は海からすぐに上るのではなく、一種の足溜りを通つて上つたらしいのです。それが、けたといふ土地が、日本の海岸地方に分布してをり、叉、古い信仰が残つてゐる理由なのです。けたといふ所は、海から陸地へ上る足溜りですから、その土地が、同時にけたと言はれます。」
・折口信夫氏『春来る鬼』
・折口信夫氏『春来る鬼』
橋げた?さて?
気多大社では「気が多く集まる聖地」
まあ、大社の伝承のたぐいは往々にして記紀権威、神道絶対主義で貫かれるので信頼性はない。
『気多本宮縁起』(享保16年)によれば気多の神大巳貴は出雲から因幡の気多崎に至り能登へ渡ってきたとある。
また「こし」地名もまた「来し」地名でもあろうか?すると「こし」は元は「けし」「きし」であるか?では「けひ」のツヌガアラシトも新羅ではなく、新羅に近い大陸=シベリアから来たか?となると但馬の気多神社はアメノヒボコでもあるか?となると太平洋側の毛野や気仙の「け」もまたケート由来なのか?
「け」って何よ?
やはりこれまでの通説は一旦全部、忘れたほうがよさそうである。
越境の思考はまさに固定観念の払拭に始まる大変な意識のコントロールである。
生まれながらのコスモポリタンでなければ先に進めなくなる。
そういう選ばれた第三者しか、こういう問題は扱えないな。筆者でさえ難しいものがある。生きてきた間に勝手に身につく固定観念ほどうっとうしいものはない。邪魔である。
今回はここまで
次回にご期待。
異論反論は今、受け付けていません。
まずはよく読んで、よく考えて、再来年あたりにまた記事にするだろう。
まだ筆者にも過渡期である。