内神社(うちじんじゃ)は、京都府八幡市にある神社。式内社で、旧社格は村社。
祭神
山城内臣 (やましろのうちのおみ)
「山代内臣」とも。味師内宿禰 (うましうちのすくね)
文献では「甘美内宿禰」とも記される。武内宿禰の異母弟で、山城内臣の祖。相殿に祀られる。
「内神社は、平安時代の「延喜式神名帳」に、「内神社二坐」と記されている式内社で、創建年代は不明ですが平安時代初期には既に知られていた古社になります。祭神は、古代の伝説上の大政治家として知られる武内宿禰(たけうちのすくね)の異母弟(讒言により兄の失脚を謀ったという伝承もあります。)と伝わる味師内宿禰(うましうちのすくね)と、その後裔にあたる山代内臣(やましろうちのおおかみ)です。
「日本書紀」によれば、応神天皇の時代、味師内宿禰は兄の武内宿禰が謀反を企てていると讒言し、潔白を主張した武内宿禰と共に礒城川で「盟神探湯(くがたち)」を行ったという記述があります。(盟神探湯の始まりとされます。)「盟神探湯」は、神に誓った後に熱湯の中に手を入れ、事の正否を探る古代の裁判方法で、火傷すれば罪があり、火傷しなければ無罪と判定されたといわれ、この時は武内宿禰の.無罪が証明されたと記述されています。
武内宿禰は紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏等の多くの諸豪族の祖となったという伝承があり、味師内宿禰(うましうちのすくね)も紀氏の祖となったという説もあるようですが、実在の人物というより神話の世界に属し、幾つかの部族集団の事跡を一人の人物に仮託して伝承されている可能性も高く、当然ながら諸説あって実態は不明です。また、内神社のもう一人の祭神、味師内宿禰の子孫とされる山城内臣(やましろうちのおみ)についてもまったく不明ですが、山城南部のこの内里周辺には、奈良時代前期に南九州の隼人たちが征服され移住させられた地域でもあることから、彼らが神社を創建したとも考えられているようです。このように、内神社は、紀氏・内氏など畿内豪族の誕生を探るという古代史的な点で注目される神社のようです。
それはともかく、社伝によると、内里の地には、山代内臣の住居があったとされ、死後に山代内臣を祀る一社が創建され、その後、山代内臣の祖神・味師内宿禰(うましうちのすくね)が合祀されたと伝えられています。中世には内里村の鎮守社として春日宗像神社と称し、現在地の東南700メートル隔てた地にありましたが、室町時代の大永(1521~27)の兵乱で社殿が荒廃したため(尚、内神社の境内にある由緒書では、平安時代の天永(111~1112)の乱(西暦1100年)と恐らく誤記されているようです。)、天正年間(天正四年(1576)頃という)に現在地に遷座したと伝えられ、旧社地は現在も「古宮」といわれています。」
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/55509423.html
「武内宿禰についてはその出生が「古事記」と「日本書紀」では同じ出典から出たものであろうが、若干、趣を異にしている。即ち、「古事記」では、第八代孝元天皇、その皇子比古布都押之信命、比古布都押之信命が、木国(紀伊国)の国造の祖に当る宇豆比古の妹・山下影日売を娶って生まれた御子が建内宿禰と言う。
「日本書紀」では、第八代孝元天皇、その皇子彦太忍信命、その御子屋主忍男武雄心命が、紀直の祖・菟道彦の娘・影媛を娶って生まれた御子が武内宿禰と言う。
当時は妻問婚だったと思われ比古布都押之信命(古事記)なり、屋主忍男武雄心命(日本書紀)はどこに住んでいたかはわからないが(後世の大和国宇智郡〈奈良県五條市〉か「日本書紀」では〈阿備の柏原〉と言う)、武内宿禰は和歌山市で出生、養育されたのではないかと考えられている。
ところで、当時も現代流に言う標準語とズーズー弁があったようで、
「古事記」 宇豆比古(ウヅヒコ)
「日本書紀」 菟道彦(ウヂヒコ)
「日本書紀」 菟道彦(ウヂヒコ)
とあり、現代なら差し詰め、菟道彦(ウヂヒコ)が標準語で、宇豆比古(ウヅヒコ)はズーズー弁とレッテルを貼られると思われる。「古事記」も「日本書紀」も格調高い当時の奈良標準語で書かれたと思われるが、どうしてこんな開きが出てきたのだろうか。「古事記」は稗田阿礼が語り部として誦するところを太安万侶が筆録したとなっているので、当時の奈良標準語は現在のズーズー弁か。しかし、「日本書紀」も当時の奈良の都に在住していた官僚が書いた(漢文で書かれているので多くは中国人が書いたとの説あり)ものであろうから、当時既に奈良の都では各地の方言が混在していたのであろうか。
武内宿禰が宮仕えを始めた天皇にも記紀では若干の違いがあり、即ち、
「古事記」では、第十三代成務天皇から第十六代仁徳天皇の四代の天皇に仕えたとあり、
「日本書紀」では、第十二代景行天皇から第十六代仁徳天皇の五代の天皇に仕えたとある。
私見では景行天皇、成務天皇、日本武尊は本来一人の人物であり、記紀の原作者が何らかの都合により三人に分割して「帝紀」なり「旧辞」を作出したと思われる。したがって、武内宿禰が初出仕したのが景行天皇か成務天皇かはかまわないのであるが、そこで問題となるのは景行天皇と武内宿禰の出会いと言おうか関わりである。
「日本書紀」には
景行三年二月条に「紀伊國に幸して、群の神祇を祭祀らむと卜ふるに、吉からず。乃ち車駕(みゆき)止みぬ。屋主忍男武雄心命(一云武猪心)遣して祭らしむ。爰に屋主忍男武雄心命、詣して阿備の柏原(和歌山市という)に居て、神祇を祭祀る。仍りて住むこと九年あり。則ち、紀直が遠祖菟道彦の女影媛を娶りて、武内宿禰を生ましむ」とあり、景行天皇と武内宿禰の出会いを設定している。
とは言え、和歌山市には延喜式神名帳にも内氏を祀る神社はなく、和歌山市安原に武内宿彌誕生井(産湯の水を汲んだ井戸)と武内神社(祭神・武内宿禰)があるが、後世に作出されたものである。こう見ると、和歌山市と内氏ないし武内宿禰はあまり関係がないのではないか。
★景行天皇と関係があると思われる「内」地名
畿内には内、宇智、有智、宇治などの地名がある。私見では景行天皇は但馬国場合によっては因幡国の出身と思われ、おそらく、邪馬台国と狗奴国の紛争の際、但馬より援軍として駆けつけた兵士ではなかったかと考えられる。その後、論功行賞か何かはわからないが摂津国(現在の阪神間あたりか)に小豪族として定住したのではないかと思料せられる。そこで、武内宿禰と接点を持つ内氏となると、畿内の内などの地名、また、内一族を祀る内神社があるところが有力となろう。そういう地名を探してみると、
山城国綴喜郡有智郷(現・京都府八幡市内里内) 式内社「内神社」がある。
摂津国谷部郡宇治郷(現・兵庫県神戸市中央区宇治川あたりか)
大和国宇智郡(現・奈良県五條市) 式内社「宇智神社」がある。
紀伊国名草郡宇治(現・和歌山県和歌山市宇治)
がある。
摂津国谷部郡宇治郷(現・兵庫県神戸市中央区宇治川あたりか)
大和国宇智郡(現・奈良県五條市) 式内社「宇智神社」がある。
紀伊国名草郡宇治(現・和歌山県和歌山市宇治)
がある。
ほかに山城国久世郡宇治郷、山城国宇治郡宇治郷(いずれの宇治郷も現・京都府宇治市)があるが、これらの起源は応神天皇の皇子である「菟道稚郎子皇子(うぢのわきいらっこ)」に起因する地名と言うことで割愛する。但し、皇子の名前の由来は「古事記」(宇遲野〈うぢの〉)、「日本書紀」(応神六年二月菟道野)によるものと思われる。
山城国綴喜郡有智郷
文献等の記録
「古事記」 孝元天皇段「比古布都押之信命、尾張連等の祖、意富那毘の妹、葛城の高千那毘賣を娶りて生める子は味師内宿禰(うましうちのすくね)(此は山代の内臣の祖なり)」
「日本書紀」 応神天皇九年四月条「時に武内宿禰の弟甘美内宿禰、兄を廃むとして」
「日本書紀」 雄略天皇十七年三月条「山背国の内村」
式内社
内神社 祭神「山代内臣、味師内宿禰」
文献等の記録
「古事記」 孝元天皇段「比古布都押之信命、尾張連等の祖、意富那毘の妹、葛城の高千那毘賣を娶りて生める子は味師内宿禰(うましうちのすくね)(此は山代の内臣の祖なり)」
「日本書紀」 応神天皇九年四月条「時に武内宿禰の弟甘美内宿禰、兄を廃むとして」
「日本書紀」 雄略天皇十七年三月条「山背国の内村」
式内社
内神社 祭神「山代内臣、味師内宿禰」
摂津国谷部郡宇治郷
文献等の記録
「法隆寺伽藍縁起並流記資財帳」
天平十九年(747)二月十一日
摂津国雄伴郡宇治郷宇奈五岳 山林を所有。郡内に二ヶ所の庄を所有。
摂津国莵原郡宇治郷 池一塘を所有。
雄伴郡は谷部郡の旧呼称。雄伴郡と谷部郡を合わせて雄伴国と言ったという。
「行基年譜」(1175、泉高父宿禰著)
天平二年(730)二月十五日 摂津国莵原郡宇治郷に船息院・尼院を建立
文献等の記録
「法隆寺伽藍縁起並流記資財帳」
天平十九年(747)二月十一日
摂津国雄伴郡宇治郷宇奈五岳 山林を所有。郡内に二ヶ所の庄を所有。
摂津国莵原郡宇治郷 池一塘を所有。
雄伴郡は谷部郡の旧呼称。雄伴郡と谷部郡を合わせて雄伴国と言ったという。
「行基年譜」(1175、泉高父宿禰著)
天平二年(730)二月十五日 摂津国莵原郡宇治郷に船息院・尼院を建立
大和国宇智郡
文献等の記録
「弘福寺田畠流記帳」 和銅二年(709)十月二十五日「内(宇智)郡二見村陸田陸段」
「続日本紀」(797) 宝亀四年(773)「(井上内親王と他戸親王)を大和国宇智郡没官の宅に押込め給いき」
式内社
宇智神社 祭神「不詳。彦太忍信命、宇智大神説など」
文献等の記録
「弘福寺田畠流記帳」 和銅二年(709)十月二十五日「内(宇智)郡二見村陸田陸段」
「続日本紀」(797) 宝亀四年(773)「(井上内親王と他戸親王)を大和国宇智郡没官の宅に押込め給いき」
式内社
宇智神社 祭神「不詳。彦太忍信命、宇智大神説など」
紀伊国名草郡宇治
文献等の記録
「日本書紀」 景行三年二月条「紀直が遠祖莵道彦」
「一代要記」(後宇多天皇時代に成立。著者不詳) 成務天皇条「武内宿禰の母を紀伊国名草郡人宇治郷人」
「日本霊異記」(弘仁13年 (822年) か。著者は薬師寺の僧、景戒)上巻第五話「紀伊国名草郡宇治大伴連等」
以上より考察すると正統な文献で判断するならば、「山城国綴喜郡有智郷」が「内氏」の本貫ではないか。「摂津国谷部郡宇治郷」と「大和国宇智郡」は資料が比較的新しく、「紀伊国名草郡宇治」は公文書が少ない。
しかし、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』によると、『大和国宇智郡より此の地(綴喜郡有智郷)に移り住居したか。地名もその時起こしたものか。内神社は大和国宇智郡宇智神社の分社に外ならず。「内氏の本貫を此の地(綴喜郡有智郷)とするのは誤也」』と。また、次のようにも言っておられる。『欽明紀14年条に「内臣を遣わして百済に使いせしむ」と。蓋し、次の項に照らして味師内の裔なるを知るべし』と。これなら、内臣の本流は味師内宿禰の子孫ではなかったのか。
まとめ
1.「古事記」には孝元天皇段「比古布都押之信命、尾張連等祖、意富那毘の妹、葛城の高千那毘賣を娶りて生める子は味師内宿禰(此は山代の内臣の祖なり)。また木國造の祖、宇豆比古(うづひこ)の妹、山下影日賣を娶りて生みし子は、建内宿禰。此の建内宿禰の子は并せて九たり(男七たり、女二たり)」とあり、味師内宿禰(長男、本家)、建内宿禰(次男、分家)のような感じだ。また、「日本書紀」応神九年四月条にある味師内宿禰が出張中の建内宿禰を讒言したなどと言う話もない。こういう話はまだ藤原氏の覇権が確立していなかった時代に各有力豪族が権力闘争や足の引っ張り合いをした残滓であろう。建内宿禰は子孫が多い、となっているが、これも事実かどうか。後世に大臣となった巨勢、葛城、平群などが自己の正統性を主張するため言い出したものではないか。
2.「ウチ」氏については、大和国宇智郡には「氏直」が住んだと言う説もある。字面だけを言うのも問題だが、武内宿禰の子孫という二十七姓にも「氏」姓はなく、紀伊国では「紀直」がいるがこれは武内宿禰の母の実家とされる。即ち、紀氏は武内宿禰より前に既に存在していた。莵道彦(うぢひこ)だがこれは今で言う名前のことか。さすれば、武内とは(吉備)武彦とか(大伴)武日のように実際は名前だったのか。和歌山市の宇治の地名を「莵道彦」を根拠にしても、ほかの「ウチ」地名が「ウチ」と清音なのに対し、「ウヂ」と濁音なのも気がかりなところだ。単に漢字の表記の問題だけではないような気もする。今のところ「タケウヂ」と濁って読ませる見解はないようだ。但し、多数説はこの和歌山市宇治(本来は紀ノ川河口部の中島で、内の意であったという)に武内宿禰の伝承があったと解している。
3.味師内宿禰は「臣」と言うがいったい何をしていたのだろう。当時は「臣」カバネの人は後世の「荘園」のような領地を所有し、そこで完全自立の生活を送っていたようだが、その子孫の働きぶりの一端を「記紀」で見ると、「日本書紀」雄略天皇十七年三月条『土師連等に詔して、「朝夕の御膳盛るべき清器を進らしめよ」とのたまへり』とあり、山背国内村からも人員が選抜された。作陶能力のある者を抱えていたのだろうか。また、欽明十四年六月「內臣(闕名)を遣して、百濟に使せしむ。仍りて良馬二匹・同船二隻・弓五十張・箭五十具を賜ふ。勅して云はく、「請す所の軍は、王の須ゐむ隨ならむ」とのたまふ。別に勅したまわく、医博士・易博士・暦博士等、番に依りて上き下れ」と。この内臣は阿部氏と解する説もあるが、綴喜郡有智郷の内臣ではないか。この頃は「内臣」も華麗に宮廷官僚に転身したのであろうか。もっとも、武内宿禰の子孫は蘇我稲目の時代だった。
4.地名の混同があったか。山城国には紀伊郡と宇治郡があり、紀伊郡は、「欽明即位前紀」に「紀郡」(きのこほり)で初見し(紀伊郡と書く写本もある)、「山城国風土記」逸文に「許乃国(このくに)」(「木の国」解するのが多数)とあるといい(宇治の旧称と言うが疑問でもある)、宇治郡は「記紀」に「宇遲野」(応神記)、「菟道野」(応神六年二月条)とあり、武内宿禰の説話は本来は山城国の伝承だったものを誤って紀伊国の伝承としてしまったものか。『延喜式神名帳』で「山城国綴喜郡 内神社二座」とあるのも、味師内宿禰と武内宿禰を祀ったものではないのか。
紀伊国は、高天原ないし出雲国の人であるはずの素戔嗚尊が紀伊国に関連づけられたり、大国主命の御祖命(母)が大国主命を木国の大屋毘古神のもとに逃がしたとか、本来関係ないものが紀伊国に関連づけられるようだ。武内宿禰の話も、本来、山城国或いは摂津国の豪族だった「内臣」の話が、名草郡宇治の地名に引かれて紀伊国の話になったものか。おそらく、武内宿禰の出身地としては、まず、山城国綴喜郡有智郷が有力で、次いで、摂津国谷部郡宇治郷ではないかと思う。谷部郡は莵原郡と併せて元雄伴国と称されたという説も発音は全然違うが「雄伴」は「大伴」を連想させる。」全文引用
http://tytsmed.wordpress.com/2012/12/15/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%8B/
http://tytsmed.wordpress.com/2012/12/15/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%8B/
武内宿禰 たけ・うじの・すくねと読むのが正しいか?
「比古布都押之信命、尾張連等祖、意富那毘の妹、葛城の高千那毘賣を娶りて生める子は味師内宿禰(此は山代の内臣の祖なり)。また木國造の祖、宇豆比古(うづひこ)の妹、山下影日賣を娶りて生みし子は、建内宿禰。此の建内宿禰の子は并せて九たり(男七たり、女二たり)」
がヒントになる。
木国造宇豆比古(きのくにのみやつこ・うづひこ)とは珍彦で、椎根津彦槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)、のことか?
神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『書記』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)、または珍彦(うずひこ)は、記紀に登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖である。
木国造とは紀直氏のことであり、倭直氏ではない。 紀伊国には紀直氏と紀臣氏という二大勢力が存在していた。しかし倭直氏の祖である椎根津彦は『古事記』では木国造の祖とされているから、同一人物に違いない。
ということは倭直=紀直となって、武内宿禰の子孫であるはずの紀氏たちと、神武東征のナビゲーターとなって大和に入った倭国造はもともと同じ氏族?
これを真面目に受け止めていると頭が混乱してくることになる。
宇智地名・内臣
内臣には音読みすると「ないしん」=記録上四人しかいなかった大王の特殊な大臣という意味になるので、武内宿禰・甘美内宿禰(うましうちのすくね)を、記録どおりには受け取らずにそういう、ある一時期の特殊な大臣の象徴として、話にちりばめたものと捉えたらどうか?
宇智地名・内臣
内臣には音読みすると「ないしん」=記録上四人しかいなかった大王の特殊な大臣という意味になるので、武内宿禰・甘美内宿禰(うましうちのすくね)を、記録どおりには受け取らずにそういう、ある一時期の特殊な大臣の象徴として、話にちりばめたものと捉えたらどうか?
このさい、どっちが正しいかではおそらく紀氏の二つの氏族・・・紀直氏と紀臣氏の仲たがいと受け取っておいたほうがよさそうだ。どちらかが武内で、どちらかが甘美内ではないか。
いずれにせよ紀氏も倭氏も、南九州の海人族の出身と見て間違いなかろう。つまり葛城系譜の中にある彼らには大和宇智(うぢ と読むべきだろう)に入り分裂して各地にちらばったと。そのひとつに宇治も入るのだろう。従って二人の名前の読み方は・・・たけし・うぢのすくね、うましの・うぢのすくねだったと推定でき、そこから派生してきたのが葛城・蘇我・波田・許勢などであることとなる。これは近畿最古の来訪氏族。そして物部・尾張・海部・(息長・宗像も?)などもどこかで彼らとつながっていた氏族だったと見られる。最初は南九州であろう。
渡来系よりも早くから大和にいた人びとのひとつ。
やはりこれは葛城系譜=隼人系豊玉姫子孫じゃあなかろうか?
つまり浦島太郎の一番古い祖先であり、鹿児島霧島山の山幸彦・海幸彦かな?
要するに彼らをまとめたのが女王卑弥呼だったんだろうな。共立した氏族。
熊襲を平定したのも彼らの誰か・・・日下部氏だとなるか。となるとあさぎり町の金メッキ画像鏡が出た才園古墳の主は日下部氏だな。森さんと人吉市民には悪いが、熊襲じゃない。人吉市には靫や的の陽刻のある横穴があるのだから、弓をステータスにしていたのは日下部氏や的臣だから想像どうりである。
たけし・うじのすくね うまし・うじのすくね だな。理解できた。あとは南九州に「うじ」を探せばよい。