新潮社Foresightサイトに先日、歴史研究家の関祐二が面白い仮説を書いている。
「権威」を疑うと見えてくる「聖徳太子」「天武天皇」本当の関係
関裕二
執筆者:関裕二
2014年10月8日
2014年10月8日
前略
■天武「生年」の謎
「15世紀前半に編纂が始まった『本朝皇胤紹運録』(皇族の系譜)によれば、天武天皇は推古31年(623)に生まれ、朱鳥元年(686)に亡くなり、65歳だったとある。しかしこれだと計算が合わず、その上、『日本書紀』で推古34年生まれとされている兄・天智天皇よりも年上になってしまう。
■天武「生年」の謎
「15世紀前半に編纂が始まった『本朝皇胤紹運録』(皇族の系譜)によれば、天武天皇は推古31年(623)に生まれ、朱鳥元年(686)に亡くなり、65歳だったとある。しかしこれだと計算が合わず、その上、『日本書紀』で推古34年生まれとされている兄・天智天皇よりも年上になってしまう。
もちろん史学者たちは、この記事を無視する。「65歳は56歳の誤り」とする説もあるほどだ。
けれども、中世文書のほとんどが、天智よりも天武が年上としているのはなぜだろう。『日本書紀』の主張に対し、声を合わせて反論しているとしか思えない。
■「本当の父」は蘇我氏系?
『日本書紀』は、天武天皇の生年と年齢を記録していないが、もし仮に中世文書の主張が正しく、『日本書紀』が天智と天武の兄弟関係を逆に記しているのならば、『日本書紀』編者に何か「動機」があったはずだ。
こういう考えがある。天智と天武の母・皇極天皇(重祚して斉明天皇)は、舒明天皇に嫁ぎ天智らを生む前に蘇我系の高向王(たかむくのおおきみ)と結ばれ、漢皇子(あやのみこ)を生んでいたが、漢皇子こそ、天武の本当の姿ではないかというものだ。すなわち、天武は蘇我系皇族だったというのだ。
『日本書紀』は、古代史の根幹を揺るがしかねない巨大な隠蔽工作を行ったのではあるまいか……。ここで注目されるのは、聖徳太子である。
『日本書紀』は「聖徳太子は推古29年(621)に亡くなった」と記録するが、百科事典を調べれば分かるように、一般にはその翌年に死んだと考えられている。それはなぜかといえば、法隆寺や中宮寺に残される金石文に「聖徳太子は推古30年(622)に亡くなった」と刻まれているからだ。なぜここだけ、通説は『日本書紀』の記事を採らなかったかというと、金石文は聖徳太子の死後すぐに作られたと信じられているためだ。
しかし、どうにも不可解だ。なぜ、『日本書紀』は、皇室の聖者としてもてはやされた古代の有名人の死亡年数を誤って記録したのだろう。信じがたいことではあるまいか。恣意的な隠蔽工作の匂いを感じる。
聖徳太子の死亡年と中世文書の示す天武の生年を重ねてみると、興味深い事実に気付かされる。それは、もし『日本書紀』の証言通りなら、天武は聖徳太子の死の2年後に生まれたことになるが、金石文の証言を採用すれば、翌年ということになる。しかも中世文書は天武天皇の年齢を間違えて計算していることがあるが、なぜか誕生の年は推古31年だと言い張っている。じつは先述した『本朝皇胤紹運録』もそうなのだ。ここに、中世文書の「本当にいいたかったこと」が、隠されているように思えてならない。
そこで筆者は、意地の悪い推理を働かせる。
「『日本書紀』は聖徳太子と天武の関係を抹殺したくて、聖徳太子の死を1年繰り上げ、さらに、天武の生年を隠匿したのではなかったか」
つまり、天武が聖徳太子の子供だったと推定するのだ。とすると、聖徳太子とは高向王だったことになる。父の死の翌年に子が生まれていたなら、計算上親子関係を否定できなくなる……。だからこそ『日本書紀』は天武の生年を抹殺したのではなかったか。
天武を聖徳太子の子と考えると、古代史の多くの謎が解けてくる。天武は反蘇我派の天智と対立していたし、壬申の乱(672)で天武は窮地に立たされたが、蘇我氏の後押しを受けて勝利している。天武を蘇我系皇族とみなせば、これらの謎が解けてくる。兄弟で敵対する別々の派閥に支えられていた意味がはっきりする。
もちろん、この考えはまだ仮説だが、少なくともこれだけは言えるだろう。『日本書紀』という権威を、あてにしてはならないということだ。権力者の描いた歴史書を信頼していては、いつまでたっても本当の歴史は解明できないのではないだろうか。」
歴史作家 関裕二
法隆寺金石文とは何を指しているのだろう?
おそらく例の光背銘文のことかと思う。中宮寺のほうは不明にして知らない。
おそらく例の光背銘文のことかと思う。中宮寺のほうは不明にして知らない。
天武が兄天智よりも年長だったというのは、おそらく複数の記録にあるから『日本書記』よりも信憑性があるだろう。筆者は天智、天武そのものの存在を疑ってしまう立場で、はなっから『日本書記』記録の二人の存在からして作り話だったと考えている。
日本の史書の不確実さをよく表している箇所は、なにも『日本書記』だけではなく『古事記』にも、その書かれた前提から奇妙な記述がある。
『古事記』はその序によれば、712年(和銅5年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)(太安万侶とも表記)が編纂し、元明天皇に献上されたことになっている。
「成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。」Wiki『古事記』
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
一方『日本書記』は、『古事記』と異なり、成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
大意
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
大意
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
ということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。
また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。
ということは『日本書記』よりも先に編纂され、天武天皇は生前、最初から二つの指示を出して、二つの史書を作らせようとしていたことになるのである。これは奇妙なことである。
『古事記』よりも8年あとに成立した『日本書記』の編纂事情は、明らかに『古事記』の太安万侶、稗田阿礼の二人によった編纂による天武の正史編纂指示と矛盾してくる。
古事記編纂に先立ち、 諸家の帝紀、本辞(旧辞)があったようである。別名として「帝皇日継」(すめらみことのひつぎ)、「先代旧辞」(さきつよのふること)とも記されている。これを仮に「正真正銘の古史古伝」と命名する。「正真正銘の古史古伝」は何文字で書かれていたのかも分からない。恐らく、今日では痕跡が消えている古日本文字で書かれていたのではなかろうか。そういう意味で、古事記は万葉仮名で「帝紀を撰録」、「旧辞を討覈」したものと云うことになる。
711(和同4).9.18日、元明天皇の御代、元明天皇が、大安万呂(おおのやすまろ)に命じて稗田阿礼詠みまとめていたところの歴史書の編纂の詔を下す。
それを稗田阿礼が暗誦して詠唱し、それを太安万侶が書き取った。さらにそれを
712(和同5).正月28日、元明天皇の御代、大安万呂は、天武天皇の命を受けて始めた国史として古事記3巻を編纂し、持統、文武の時代を経て元明天皇に献上した。これが我が国初の国史書となった。実際には古事記以前の国史書の存在も推定できるが残存しておらぬ為、古事記が史上最も古い国史書と云う歴史的地位を獲得している。
だから太安万侶の序が正しいとするならば、天武が命じて完成した史書は『古事記』だけのはずだ。そこで『続日本紀』は天皇は舎人親王に別の史書編纂を命じていた。この「天皇」はおそらく元正女帝だろうから問題はない。しかし「天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる」というのは、どう考えても天武が安麻呂に・・・と重複指示を出していたことになってしまっているのである。
学者の解釈は天武の川島皇子らに編纂させた原「日本紀」を、安麻呂がさらに編集して『古事記』に使ったというのだが、それでは稗田阿礼はなんだったの?となってしまうわけだ。
安麻呂がわざわざ序文に明記した内容は、『日本書記』ではまったく破棄されてしまうのである。しかし史書はふたつともに今に残されている。これは不思議なことである。もし『日本書記』が『古事記』内容を消し去るつもりなら焚書されていてもおかしくない。
このようにどうもあとからできた『日本書記』成立過程からして、どうも『書記』は怪しい文献なのである。
『古事記』が正しいという視点で見れば、天武の意思ではじめられた史書編纂は天武を健勝してあって当然。『古事記』序はちゃんとそういう書き方で、天武が壬申の乱がいかに勇壮なものだったか、天武が勇ましかったか、敵の大友がいかに女々しく死んだかを言ってある。つまり立場として『古事記』は整合だが、『日本書記』は成立過程も明確にしておらず、天武よりも天智・大友が正統だったことをさまざまな手を用いて表現しようとしてある。
だから『日本書記』が繰り返し同じことを言い募ることは、あくまで天智のためのリフレインであるのに対して、『古事記』は天武のために同じエピソードの繰り返しをしていると見ている。これは大きな違いを生むことになるはずである。
そうした中で、『日本書記』の飛鳥時代~持統天皇までは、どこまで信用できるかである。
聖徳太子の死去年のすぐあとに天武が生まれていたならば、天智と天武の兄弟関係は疑われて当然である。もしふたりにそもそも兄弟関係がなかったとしたら、そして天武が蘇我氏血縁だったとすれば、関が言うように、天智の異常なまでの百済重視と天武の新羅重視外交の対立が乱となって表出したとして矛盾はなくなるのである。
聖徳太子の死去年のすぐあとに天武が生まれていたならば、天智と天武の兄弟関係は疑われて当然である。もしふたりにそもそも兄弟関係がなかったとしたら、そして天武が蘇我氏血縁だったとすれば、関が言うように、天智の異常なまでの百済重視と天武の新羅重視外交の対立が乱となって表出したとして矛盾はなくなるのである。
ただし、天武時代にはすでに百済や高句麗はあらかた滅んでおり、外交相手にならなくなったわけなので、残るは新羅しかなかった。そこで判断題材になるのが、日本国号の中国への表明、天皇号の同じく表明が重要になる。それは天武晩年のこととされるのが定説で、生きてそれを名乗ったのが持統天皇であることからも、新羅だけではない、東アジア外交へのデビューを意識したのは『日本書記』のほうであるわけである。ところが現実の持統外交はなぜか中国との交わりはほとんどない。遣唐使派遣を見ても天武から女帝時代がすっぽりとぬけており、天智と文武のあいだが一回もなかった。ということは天武が果たして蘇我氏のようなグローバル外交を目指したのかどうかはなはだ疑わしくなってしまうのである。
もちろん白村江敗北による天智以後の唐との疎遠は、天武にはいますぐ中国とというのはあるにしても、持統も元明・元正もというには不思議である。しかもその間に『日本書記』は製作され、そこには中国への日本・天皇国家体制が整った律令国家だったとある。このあたりがやや気になった関説だった。みなさんはいかがお考えでありましょうや?
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U