これまでこのブログでは、古代人の渦巻きと再生の死生観について、世界各地の遺跡を記事にしてきた。
その画像のいくつかを並べておきましょう。
纏向遺跡弧文円盤の渦巻き
このスタイルは巻貝を切り取った断面そのもの。
渦は貝殻の中にあった・・・。
それとまったく同じものが古代ケルトの意匠にもある。
その年代差は数千年もあるのに。
それは南半球のアボリジニですら
古代エジプトの太陽信仰でも、やはり太陽が渦巻きの絵柄になって、最も貴重だった船の真上に。舟は死者の命を太陽へと運ぶもの。
太陽がそのまま円文になったのは、そこに生命の渦巻き=永遠を見たからだ。
エジプトのラー=太陽神にはセトのような巫女王(日本では日子・比)が寄り添う。比の「」は音が「よう」で太陽と同じ。羊に口でしゃべる美人である。美人の「美」にもちゃんと羊が乗っかっている。中国で美の代表は羊の毛並みだった。
縄文人も・・・
弥生人も、古墳時代人も、そしてなんと江戸時代でも・・・
いや現代の意匠もまだ
太陽=生命
渦巻き=永遠=再生・・・・を願い続ける・・・
インド人も
中世西欧人も
なぜ共通するのか?
それは海洋民族たちの永遠の願望である再生が、太陽と言う生命を生む母の胎内を表そうとした結果。
また生命を生み出す「海」こそが「産み」の語源だったから。
だから太陽のいます空も、貝殻と渦を持つ海も「あま」「あめ」、海人も「あま」。貝を採る人々も「海女・海士 あま」。海人族も海部も「あま」。
海と山・・・。
山に降る雨は、海へと流れ出しプランクトンを育て、それを食べて小魚は育ち、それを食べてカツオは育ち、それを食べて勇魚は育ち、輪廻転生し、また循環の輪を形成し、死んで再び栄養素となり還元され・・・リーインカーネーションとナース・ログを繰り返し、あなたが生まれ、私が生まれ、そして死に、子が孫が・・・
はるかな永遠の繰り返し。
それこそが種の生存。
つないでつないで、バトンを渡して、永遠に繰り返すことこそが不老不死。
だから宿禰も300年、浦島太郎も300年、海幸も300年、何度も何度も同じことが、主人公を変えながら書かれねばならない。
それはひとりの人間の長寿などではなく、氏族のつながること、すなわち氏族が亡びず繁栄してゆくことを指している。
なんと賢い人類。
なんとはかないひとりの生命。
なんと切ない観念なのだろうか、永遠とは。
いつかわたしの氏たちの中から、誰かカリスマは現れ、きっと歴史に残されることだろう。ぼくはそのための「捨て石」。けれどそれは、人類、はるかなる継続の中の、どれもが輝く星屑。