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千年後の自分は

 
千年後、自分は何をしているだろうとは、おそらく誰も考えることなどないと思う。
 
 
けれど私は、今そう考えている。
 
 
ありえない?
 
 
いや、そうではなく、
 
 
歴史を知るという行為は、そういうものなのだと言っているのだ。
 
 
千年後の将来等、誰にもありえないし、あったとしても知ることなどできるはずはない。
 
 
歴史とは過去でしかない。
 
 
過去はほのかに見ることが可能だ。
 
 
けれど未来は絶対に見ることはできない、不可視の将来である。
 
 
だから、未来を少しでも見えるようにするために、自分は過去を知ろうとしている。
 
 
 
実は、歴史とは、過去にこだわりつつも、未来を見たい人たちのためにあり、
 
 
古ぼけ、苔むしたと現代人の誰もが考える、人間の生きてきた痕跡を通して、
 
 
千年後のこの世界が、どうなっているかを空想するためにあるのであって、
 
 
決してただ単純に過去の真実に迫りさえすればいいものではない。
 
 
なぜなら、時は戻らず、前にしか進むことがないからだし、
 
 
地球と言う大地でさえ、老いてゆく器物に過ぎないからである。
 
 
すると、私が気になって仕方がないのは、未来の世界人類が、果たして、今の国境
 
を超えて、ひとつになれているだろうか、なのである。
 
 
自分は、そのために古代史を楽しんでいる。
 
 
どうにも、気になることの次元が、学者たちとも、研究者たちとも、愛好家たちと
 
 
も、違うのだろう。
 
 
 
私はここにいない。
 
 
 
悠久の過去と、永遠の未来とをただ行き来している無なのではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
意識の中での話だが。
 
 
 
 
 
 
 
例えば、逢いたい偉人がいるなら誰にあいたいかと聞かれても、私の答えには、
 
 
 
キリストも仏陀もマホメッドもなく、
 
 
 
それらを生み出した宇宙の創造者にしか、逢いたいものがないのだ。
 
 
 
やはり、私はここにいて、本当は過去にも未来にも固執のない、
 
 
 
すでに風のような、空気のような、いなくてもいい存在になってしまっているのか
 
 
 
 
そうかも知れない。
 
 
 
 
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無機質な石がうらやましい。
 
 
 
 
千年経ってもそれはそこで時間を眺めているだろうから。
 
 
 
 
もし、石に意識と視力があるのなら、今すぐ石になってもかまわない。
 
 
 
 
 
けれど、非凡でない私には、それは無理な話だ。
 
 
 
生物とは、なんとはかなく、切なく、消えてゆくモノなのだろうか。
 
 
 
 
かなわぬものはかなわない。
 
 
 
過去を鏡にして、未来を想像するしかないまま、われわれはみな、
 
 
 
やがて消滅する。
 
 
 
いさかうことなど何もない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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