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多氏と弥五郎どん祭と倭面土国 奴国は「とこく」と読むか

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森浩一『山野河海の列島史』121Pより
 
「大足彦の治世の十二年に熊襲が反いた【ママ。そむいた】。反いたとはあくまで、『紀』の叙述に使われた言葉であるから、要するにトラブルがおこったのである。そこで大足彦は軍勢を率いて筑紫(この場合は九州島を指す)【くれぐれも「つくし」と読んで欲しい。たまに「ちくし」と読む方がおられる】に行くことになった。周芳(防)、豊前、碩田(大分・おほきた)の順で、それぞれの土地の豪族にたいして軍事行動をしたあと、日向国に入って熊襲、とくに襲国を討つための会議をひらいた。
 
 
○つまり第一の問題は、熊襲を討つとはいっても、最初の目標にしたのは襲国であった。
 
襲国には、厚鹿文【あつかや】、しんにゅう扁に乍鹿文【さかや】という熊襲の渠帥者【きょすいしゃ】がいた。

しかも衆類がはなはだ多く、彼らを熊襲の八十梟帥【やそきょうすい】(古訓は八十多稽屡【やそ-たける】=神武即位前紀。たくさんの勇者のこと)といい、勢いが盛んで合戦では適う者がいなかった。
 
○第二の問題は、熊襲という軍事的集合体の渠帥者は、襲国にいたことになる。襲国の王的な二人の人物が熊襲全体の首長だったとみてよかろう。
 
軍事力では格段上にある熊襲にたいする策が一人の家来から提案された。「熊襲の梟帥には、市乾鹿文【いちふかや】と市鹿文【いちかや】という娘がいます。この姉妹を多くの幣【まいない】で手なずけると、戦わずに破ることができます」という内容だった。
大足彦はこの策を採用して、姉妹を手なずけた。*1姉の市乾鹿文は家に帰って父に酒を飲ませて酔わせると、父の弓の弦を切ってしまった。市乾鹿文がともなっていた一人の兵士が熊襲の梟帥を殺した。*2だが大足彦は姉を不孝だという理由で殺し、妹の市鹿文を火の国造にしたという。
○この話からの第三の問題は、女性の力と役割が大きく、国造に任命されてもおかしくはなかったという点である。【森は、これは蝦夷とは雲泥の相違であると書いている。】」
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
以上の記事の中で○をつけた三つの問題点を分析してみよう。
まず熊襲の中心はクマではなくソだったことであるが、クマは球磨郡であるから熊本南部の人吉盆地周辺に住む「山の熊襲」であろう。そしてソはこれまた森が言うところの「海の熊襲」すなわちのちの隼人がいた曽於郡のあたりであろう。

従って熊襲とは言っても中心は鹿児島県北西部~大隅半島あたりの襲国こそが中心地であったということになる。これを把握しておく必要がある。一般に熊襲とは熊本というイメージが先行し、隼人=熊襲という発想は人口に膾炙していないからである。今、鹿児島の大隅半島や宮崎県南部で行われる「弥五郎どん祭り」の巨人が川上梟帥(かわかみたける)と呼ばれることと大いに関連している。

一方、熊本県南部にそのような祭りがないことも知っておかねばなるまい。
第二の問題は第一の問題と同じである。首領もまた中心であった襲国にいた。
第三は蝦夷とは違って熊襲では女性の役目が重要だったということである。
九州には未だに、女性を大切にする祭りが見受けられ、歴史上でも女性の首領、女神をたてまつる地域が多かった。巫女的シャーマンが中心にいた。
 
そしてさらに彼女らのうち、*1実際に手を下して父親を裏切った姉の方は殺害し、手を下さなかった妹を助けている。これは儒教的な「親殺しは極刑」の倫理観が反映されたと言っていいだろう。つまり景行紀にはあきらかに、記紀成立時に大和に入っていた儒教の影響がある。従って記事の完成は新しい時代のものだと言えるだろう。景行の時代がいつかははっきりしなくとも、記事ができたのは記紀の8世紀のものである。
 
さらに*2火の国造の初代が女性だったということ。しかも地元の襲人の娘だということである。これはあとになって書かれている「神功皇后が鴨分を熊襲征伐に差し向けた」「火の葦北国造は百済人」という記述とは矛盾する。

まして景行時代に「国造」の概念や言葉があったかどうか疑問である。
少なくとも国造は倭五王から雄略までの概念ではなかろうか?
景行の西征が雄略の、つまり倭五王の上奏文を背景に作られているという説があるように、景行~ヤマトタケル~仲哀天皇の熊襲征伐は、雄略の事績を奪う形で応神の前に置かれた可能性が高いだろう。
 
景行に「おおたらしひこ」という崇神王朝的ではない「たらし」をつけているのも、もしかしたら崇神王朝と倭五王の間にはかなりの時間的隔たりがあって、ここで時間の調整をした感も否めない。
 
いずれにせよ、認識をあらためておきたいのは、やはり襲こそが熊襲のメインだということ。
 
「大足彦はこのあと六年間を襲国ですごし、襲国を平定し、その国の御刀姫(みはかしひめ)を妃として、豊国別皇子を生んだ。皇子は日向国造の始祖であると述べている」(同著122P)

日向国造とはおそらくのちに襲の君(曽君)となった隼人の一人か?豊国とは今の大分県のことであろうか。日向国はこうして豊から分かれて国となる。河内王朝が送った国司・日下部氏のことであろうか?それともまったく別なのか?
2007/12/3(月) 民族学伝承ひろいあげ辞典 景行紀の熊襲問題点http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/38999248.html
 
 
 
 


 
 
イメージ 1
宮崎県南部の弥五郎どん祭
冠が熊本のチブサン古墳にある人物の冠に似ている。
三本の角の形式は百済と、百済が親しくしていた中国江南の王朝との関係を語る。
また人吉あさぎり町にある才園古墳の金メッキ神獣鏡は中国南朝と人吉球磨地方の豪族の関係を物語る遺物である。
 
 
 
弥五郎どんを見るために鹿児島県の霧島姶良~大隅半島に筆者が向かったのは2007年の年末だった。もうあれから7年も経ってしまった。

鹿児島には「弥五郎どん祭」のほかにも、年末年始の追儺行事としての「歳どん」儀式や、また道祖神を「田のかんさァ=田の神様」と呼んで年中敬う風習など、かなりマニアックな奇祭や神事が多い。田の神様というのは中国の江南の少数民族など稲作農耕民族に共通の「年の神」で「たのかんさあ」も「としどん」も同じく稲魂・穀霊の来訪を迎える精霊信仰だと言える。つまり来訪する神とは秋の季節風を神格化したものと考えても間違いではない。風である。
 
イメージ 3
田のかんさァ
 
 
 

さて弥五郎どん祭は、昨日文化の日にとどこおりなく行われたが、この神様は熊襲の首領だとされていて、その名を「大人川上渠帥」と言う。「ひじり・かわかみ・たける」と読ませるが、大人は「おとな」ではなく「たいじん」の意味、川上は熊本県に多い氏名だが球磨川上流のこと、渠帥は記紀の歴史観側からは「賊の首魁」のことである。しかし勝負の双方に平等に言うならば族長、ドン、ボスでいいだろう。
 
渠は、緩和辞書では1には暗渠のように使われた「堀」のことだが、2の意味では「かしら、首領」の意味しかないし、帥にも「率」つまり率いる者の意味しかないので、あわせてもどこにも賊や悪の意味は含まれてはいない。「そつ」などは太宰権率(だざいのごんのそつ)など、中央官人の職称であり、もっと古くは中国の「後漢書」にも光武帝の頃に朝貢した倭王のことを帥升としてあり、これは国王・升ということで、おそらくは「倭面土国」の王のことである。
 
 
 


 
 
 

ちなみに倭面土の読み方には諸説あるが、
 「漢書」<地理志倭人条>(原文)には、
(本文)
  夫楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云
(注)
 如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
  臣サン曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
  師古曰「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国
     魏略云『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種』」
         台湾商務印書館発行 「百衲本二十四史 第2巻」漢書 より

「如墨委面」とは意味は「入墨をした奇怪な面構え」である。つまり国名とか何人という意味がない言葉に始まっており、その様子からはどうやら倭の海人族だったと考えられる。この語句を無理に音読しようというにはちと無理があり、意味面だけ採ればいいのではあるまいか?

この如淳の注は本文中の「倭人」の語句をみて、「入れ墨をしたような変な顔をした種族が、帯方郡の南東・万里の処(非常に遠い所)に住んでいる。」と注釈を入れたわけである。倭人とはそういう連中のことだろうという意味だ。
 
その後の 
 臣サンの注もまた本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて、
   「「倭」というのは国名であって、入れ墨をしているという意味ではない。古くは
  これ(倭)を委と言った。」であり、

 師古の注もまた本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて追加して、「如淳は『入れ墨をしたような変な顔をした種族』と注をしているが、どうして、(倭の)音は「委(ゐ)」の字だけしかないとするのか。(倭の音は)この(委[ゐ]の字の)音ではない。「倭」の音は「一戈反(わ)」である。今でもなお「倭」という国はある。

 (史書の)魏略に次の様に載っている。
   『倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。
   海を渡ること千里、又国があるが皆倭種である。』と、したのである。

だから倭面は委面と同じことで「いびつな顔の」であり、土国は「奴国」の音を示唆する音読みで「と・こく」のことであろう。「いびつな顔の奴国」だと書いてあるのである。だから魏志の「奴国」も当然、「とこく」あるいは「どこく」と読むのかも知れぬ。そうすると狗奴国も「くどこく」になる。
参考http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm
 
 
 
 


 
 
 
 
さて弥五郎の名前はどう見てもさほど古くない日本人の名前であるので、この巨人が祭られるようになったのは少なくとも奈良時代の、中国の風習である「儺」が日本に入ってかなり経ってからのことであろう。名前の弥五郎とは「五郎」は「左甚五郎」とか「曽我の五郎」とかいうような「ちょっと人を超える人」に共通する名前であり、前につく「弥」とは新潟の「弥彦」とか倭人伝の「弥弥 みみ」のように、やはりちょっと飛びぬけている偉人の名前になっている。
 
「みみ」は人の意見をよく聞くという尊称で、聖徳太子を豊総耳(とよとみみ)と書いたのと同じである。もちろん綏靖の「ぬなかわみみ」「かむやいみみ」「ひこやいみみ」「たぎしみみ」、あるいは古墳地名の「百舌鳥耳原 もずみみはら」「摂津耳原」などもみな同根であろう。特に摂津表記は古くは攝津で、耳が三つもある。ここには例えば三島溝咋耳とか紫金山古墳の被葬者のような王者が三人いたのであろう。つまり三島の地名もかつてここが三ヶ所に分かれて統率者がいたことを表してもいるわけである。古墳の地名に耳原が多いのは、その被葬者がみな、上手に人を統率し、よく意見を聞いた偉人だったからにほかならない。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54731420.html
 
 
また「大人」は中国的なあだ名呼称であり、年長者のことだが、「おおひと」「ひじり」とも読ませるのは、弥五郎がちょうど山ノ神であるダイダラボッチのような巨人に作られることとかかわり、そういうこの世のものでないほどの偉大なことをした人の意味に使われていると思えるのと、同時にダイタ=大太という武将名もダイダラボッチ由来で、道をさえぎり護るものの意味を持つ魔物のような首領だったことを指すので、古墳に置かれた石人や横穴墓の石人のように、両手を広げて立ちはだかる巨人・弥五郎の姿にまったく一致するのである。
(静岡の伊豆に大仁という町がある。おそらくダイダラボッチ地名である。)
 
 
さて、弥五郎どんはなぜ大隅半島で祭られるのかであるが、地元民は弥五郎どんを熊襲・隼人の首領だったと考えており、それが何度かの中央からの圧迫に対抗して見事に討ち死にしたから聖人として祭ったとするのである。つまりその「何度かの圧迫」とは記紀の言うヤマトタケル、景行天皇ら吉備氏族を引きつれて不知火以南にやってきた人たち、さらには霧島山~大隅半島にかけての地域がかつての曽於や阿多であったこと。またこれは半島が薩摩半島での事件だが隼人20年戦争の悲惨な終結と八幡神による中央支配があったことなどにかなりの影響を受けているだろうし、もっと新しくは西郷隆盛の薩摩の敗北なども絶対にあとから付加された反発心・叛骨心の集大成した創造物であるに相違ない。
 
その球磨と曽於をやっつけたのは多氏である。
そして多氏がそのときから球磨・曽於地域の首長となったのであろう。
その多氏は大和から、倭五王の指令で南九州へ来るのであるが、そのまま九州の南北の境目である中央構造線別府~八代構造線に沿って靫負として防御網を築いたのである。つまりこれが中央「日下部(くさか・べ)」や「額田部(ぬかた・べ)」になることは間違いない。ということは彼らは多氏の手下だったことになるので、倭五王当時、西の雄であった大伴氏などは、極めて多氏に類似してしまうのである。

あらに日下といえば東大阪市の生駒山の麓にあった古河内湖の港である「くさか江」を名乗っていて、草加江を開いた聖徳太子もまた、どうにも熊本と大いに関係ありそうな気配。日下部は孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)とされ、もっと古くは1.開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)。ともされているが、そもそもは九州熊本の草部を本拠としていて、それが5世紀中頃のことであることは、その土地にあの日子八井命を祭った草部吉見神社や、人吉市のやはり日子八井を祭る青井阿蘇神社のあることでまず間違いない。

そして中央から彼らがやってくる以前、熊本は阿蘇から八代までが肥直の祖先であった火の君の領地であったわけである。すると肥君の正体はどうも熊襲だったか?となってゆくのだが?
 
ヤマトタケルの征伐は、要するに中央にまつろわぬ火君たち神八井耳氏族の懐柔と支配なのであり、逆に神八井耳氏族がみな神武の長男皇別氏族だと主張する理由も一種の叛骨心ある表現であると見えてくるわけである。

ここで最大のヒントは天武天皇にまで時代が下る。
壬申の乱で活躍した氏族がやはり多氏である。そして天武が皇位を奪い取った相手は天智天皇の嫡子である大友皇子=弘文天皇。その父・天智は中大兄皇子であり葛城王子でもあり、藤原鎌足とともに蘇我氏を滅ぼした。つまり天智王権は蘇我氏政治には反対した勢力であり、天武はそれをまた転覆させた人物なのである。

『日本書記』に登場する宰相では二大巨頭がまずは武内宿禰、もうひとりが蘇我馬子である。
あとは自分でコラージュしてみてください。何か気づくことはないでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2
 
 
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

 
 
 
 
 
 
 
 
PS
宗像君徳善と天武は急速接近して外戚となった。このときから沖ノ島祭祀に素晴らしい遺物がどんどん増えてくる。さらに持統天皇は伊勢にアマテラスという太陽神を祭り、さらに豊受大神という海人族の女神を置いている。その宗像氏は徳善以前の系譜がよくわからず、なぜ宗像にやってきて管理者となったのかがわからない。天武は何を政治の根底にすえようとしていたのだろうか?その律令制度の基盤は実は蘇我氏が築いたものの再現ではなかったか?そして天武の幼名が大海人皇子であること。多氏をよく使ったこと。聖徳太子と蘇我馬子が秦氏を重要視したのに対して、天武は倭五王以来の重臣多氏を復活させた感がある。
 
 
 
もうひとつ。
倭五王と飛鳥王権をつないだ継体大王のつなぎ役としての存在。その墓がなぜか摂津三島の今城塚であること。しかもでき過ぎたことに同じ三島には鎌足の阿武山古墳があること。その古墳は不比等によって改葬され、鎌足は奈良の談山神社に移されたはずなのに、阿武山石室には被葬者遺体も、大事な大職冠も放置されていたこと。被葬者頭髪からは砒素が検出されたこと、などなどが、多氏によってつなぐことができないのだろうか?
 
 
 
 
 
また額田部にしても推古女帝の名代であるから蘇我氏とも深く関わってきそうな按配なのである。
 
 
 
 

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