多神社注進状(久安五年 1149年)
「大宮二座、珍子賢津日靈神尊(読めず)、皇像瓊玉に坐す。天祖聖津日嬖神尊(読めず)、神物圓鏡に坐す。神淳名川耳(かむ・ぬなかわ・みみ=綏靖)天皇の御世、二年辛巳歳、神八井命帝宮より降り、当国春日県に居り大宅を造営し国政を塩梅す。ここに皇祖天神を祭礼し、幣帛を陳し祝詞を啓す。県主遠祖大日諸を祀となし、奉仕せしむるなり。
御間城入彦五十瓊殖(みまき・いりひこ・いにえ=崇神)天皇の御世、七年庚寅歳冬中、卜により八十萬群神を祭らしむるとき、武恵賀別の子にして神八井命五世の孫武恵賀前命(たけ・えがさき?)に詔し、神祠を改めつくり「珍御子命皇御命、新寶天津日瓊玉矛等を奉斎し、社地を号け太郷(おうのさと)という。天社の封を定む。神地の舊名春日宮、今多神社という」
御間城入彦五十瓊殖(みまき・いりひこ・いにえ=崇神)天皇の御世、七年庚寅歳冬中、卜により八十萬群神を祭らしむるとき、武恵賀別の子にして神八井命五世の孫武恵賀前命(たけ・えがさき?)に詔し、神祠を改めつくり「珍御子命皇御命、新寶天津日瓊玉矛等を奉斎し、社地を号け太郷(おうのさと)という。天社の封を定む。神地の舊名春日宮、今多神社という」
多坐弥志理都比古神社 (おうにます・みしりつひこ・じんじゃ)
奈良県磯城郡田原本町多569
祭神
神武天皇第二皇子神八井耳尊(かむやいみみのみこと)
第三皇子神沼河耳尊(かむぬなかわみみのみこと)
神倭磐余彦尊(かむ やまといわれひこのみこと)=神武
玉依姫(たまよりひめ)
合祀 太安萬侶
神武天皇第二皇子神八井耳尊(かむやいみみのみこと)
第三皇子神沼河耳尊(かむぬなかわみみのみこと)
神倭磐余彦尊(かむ やまといわれひこのみこと)=神武
玉依姫(たまよりひめ)
合祀 太安萬侶
弥志理都比古は神八井耳命の別名であると社伝は言い伝えてきた。
『日本書紀』では、神八井耳命について多臣(多氏)の祖と記している。
また『古事記』では、意富臣(多氏)・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする。
そのほか『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
以上参考文献は『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年
左京皇別 多朝臣 - 出自は謚神武の皇子の神八井耳命の後。
左京皇別 小子部宿禰 - 多朝臣同祖。神八井耳の後。
右京皇別 島田臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。同条では五世孫に武恵賀前命、七世孫に仲臣子上の名を挙げる。
右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
右京皇別 志紀首 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
右京皇別 薗部 - 同氏。
右京皇別 火 - 同氏。
大和国皇別 肥直 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀県主 - 多同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 紺口県主 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀首 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 雀部臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 小子部連 - 同神八井耳命の後。
和泉国皇別 志紀県主 - 雀部臣同祖。
以上Wiki神八井耳命 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%85%AB%E4%BA%95%E8%80%B3%E5%91%BD
以上参考文献は『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年
左京皇別 多朝臣 - 出自は謚神武の皇子の神八井耳命の後。
左京皇別 小子部宿禰 - 多朝臣同祖。神八井耳の後。
右京皇別 島田臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。同条では五世孫に武恵賀前命、七世孫に仲臣子上の名を挙げる。
右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
右京皇別 志紀首 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
右京皇別 薗部 - 同氏。
右京皇別 火 - 同氏。
大和国皇別 肥直 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀県主 - 多同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 紺口県主 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀首 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 雀部臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 小子部連 - 同神八井耳命の後。
和泉国皇別 志紀県主 - 雀部臣同祖。
以上Wiki神八井耳命 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%85%AB%E4%BA%95%E8%80%B3%E5%91%BD
ここで重要な氏族は肥直(ひのあたい)である。
「多神社注進状」には多神社神職は多朝臣と肥直とある。
「別宮(外宮)
目原神社 天神高御産巣日尊(アマツカミ タカミムスヒ) 神像円鏡に坐す
皇妃栲幡千々媛命(コウヒ タクハタチヂヒメ) 神像□□に坐す
已上神社川辺郷に在り 肥直を禰宜と為す」
このように多氏と熊本の肥直は同族だったと考えてほぼ間違いあるまい。(ここでもうひとつしっかり捉えておきたいのは肥直であって阿蘇国造ではないことである。これは非常に大事なことである。肥は火であって熊本西部の有明海~ハ代海=不知火海方面を指す。東部の阿蘇ではない。)
神八井耳の「耳」が、倭人伝に言うところの投馬国の官職である長官「 弥弥(ミミ)」、副官「弥弥那利(ミミナリ)」に由来するとするならば、神八井耳を祖とする多氏が、九州にえにしがあるのはむしろ当然だとも考えうる。
多氏の明確な痕跡を今に伝える地方は、大和の多のほかは静岡県~茨城県だと言える。
静岡の富士川周辺には例の、秦川勝に叱咤された大生部の多(おおうべの・おう)一族が住まっている。「枕草子」に「浦はおほの浦」とあり、中世には於保、「和名抄」に飯宝、飫宝と書いて「おう」とある。静岡県磐田市のことである。ここから太平洋を北上すると千葉県袖ヶ浦に飯富(いいとみ)があり、式内飫富(おう。現在は飽富)神社がある。さらに北上して茨城県
行方(なめかた)郡潮来町に大生原(おおうはら)がある。ここは建貸間(たけかしま)命軍勢が「杵島歌」を歌って国栖(くず)という山賊をおびき出して殺した記録が『常陸国風土記』にある。「きしま」は「かしま」であるので茨城県鹿島郡の「かしま」と同じである。その「きしま」は阿蘇山のひとつ杵島岳に由来する地名である。また同じ風土記に「ヤマトタケル食事を煮炊きするために小屋を海辺にかまえ、小舟を並べ連ねて橋とし、行宮に通った。そこで大炊(おおい)の意味をとって大生と名づけた」ともある。これらの「おう」地名はすべてが多氏居住の痕跡であると言える。
熊本の阿蘇に、持統天皇時代に災害を押さえ込む祝(はふり)として阿蘇氏が国造として入ったときに、阿蘇氏はすぐに在地の先住・肥の氏族を懐柔したとみられ、祖神を肥直由来の神八井耳命の子孫としている。つまり阿蘇氏・阿蘇国造家は熊本の古代では新しい氏族であることになる。従って阿蘇氏を多氏直系氏族とは考えにくい。直系は神八井耳を祖神とする肥直氏であり、その系譜は遡れば「火君」であることが想像できる。
さらに、熊本南部の人吉・球磨・八代地域には神八井耳の兄とも弟ともされる日子八井命が祭られる。これは『古事記』では神武につきしたがい東征するが、『日本書記』では名前すら出てこず、大和において神武の南九州での長子である手研耳(たぎしみみ)を殺害したとされる。つまり日子ヤイは『日本書記』史観には都合の悪い熊本南部の氏族なのであり、それに該当するのは球磨地方では熊襲しかありえない。ということは九州発の天皇家祖神には、記紀がしきりに賊として扱っている熊襲や日向の曽於族=隼人の血脈が最初混じっていた=北部九州渡来系氏族の南部縄文人懐柔策、という書き方をしてあるわけである。
そして大和へ行ってからは、その長子の女系の血脈が都合が悪くなり=近畿豪族三島ミゾクイらとの婚姻という政略結婚・・・南九州血脈は消されてしまうのである。しかも誅殺したのは、元は同族とも言える球磨族である。
こうしてわかることは球磨地方の豪族から多氏は出ただろうということである。
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九州と同じ靫、弓矢、的の絵柄で満ちている。
考古学では、さきほど書いた茨城県那珂郡=水戸市海岸部~福島県海岸部を貫通する「中通り」という街道沿いに、九州熊本に多い装飾古墳が点在することであろう。
茨城には虎塚をはじめとして数基、福島中通りには清戸迫などの横穴装飾墓群が数基と、装飾絵柄が熊本県のものとほとんど変わらない(大場磐夫)がある。また茨城の仲郡の仲国造が上記にあるように神八井耳の子孫で多氏枝族であることは、千葉から福島の海岸部の大生部が、つまり=多氏だったことの絶対的なあかしとなるのである。(奇しくも熊本県阿蘇には中通古墳群があり阿蘇国造の墓とされているが、その中のいくつかは阿蘇氏ではなく肥直・火の君の墓ではないかと筆者は睨んでいる)
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九州の珍敷塚古墳壁画。
やはり靫、的、が描かれる。
これが多氏=太陽信仰民族を証明する壁画である。記紀はこの太陽信仰を天皇家のものとしている。ならば多氏こそがもともとの王家だったと考えてもおかしくないことになる。そこから倭五王政権から飛鳥王権への「なんらかの交代劇の真実」が見えてくるのである。それこそは「記紀の嘘」を明々白々のものとし、天皇血脈の万世一系ではなかったことをも証明する証拠となるのである。だから研究家は多氏の謎を解くのにやっきとなるのである。
では秦川勝がなにゆえに、山城太秦からはるかに離れた土地である富士川の多を叱咤して、しかも殴打までする必要があったのか?
飛鳥時代の聖徳太子や蘇我氏の時代、秦氏は新興勢力として、古参九州由来の「記紀的には正統な純日本氏族である多氏を、ここぞとばかりに叩いて、地位の逆転をはかる目的があったと考えていいのではなかろうか?
ということは、飛鳥時代中盤直前において、秦氏は外からやってきた氏族であり、それはおそらく4~6世紀の間に渡来があった氏族だと言うことができるだろう。一方、多氏は考古学の装飾古墳から考えて、墓に虎塚と同じ弓矢や靫円紋を描き出すものが登場する時代・・・5世紀にはもう九州南部~北部に住まっていたこととなるのであろう。
それはしかし、単独で大陸からやってきたということではなく、熊襲の管理のために国造的な役職(耳)として大和から入ったのだと考えるべきである。その頃の大和は倭五王後半になっている。つまり日本古代史として整合性が高い雄略直前の話になるので、多氏自体の派生はあくまで大和であるとしてよいと考える。この多氏の南九州管理の伝承こそがヤマトタケル神話の正体であると言ってよいのではなかろうか?
ヤマトタケルのモデルを雄略ワカタケルとする説を採るならば、それはますます整合性を増す。タケルという尊称は、熊襲からもらったのだと記紀は書いている。熊襲を牛耳って支配権を手にし、ようするにそれまでのタケルという首長の名前をヤマトタケルは熊襲タケルに代わって襲名したのである。こう考えるとヤマトタケル伝説とは必ずしも雄略本人のことではなく、雄略が派遣した大和の精鋭たちの伝承であるとなるし、その後ヤマトタケルが北上して出雲・吉備を征服し、次に東国へ向かうコース上に、「おう」地名と装飾古墳と、そして鉱物探査の痕跡がちりばめられている事実は、まったくもって多氏=ヤマトタケルを照明していると言ってもかまうまい。
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