高倉健の死去で思い出した古代史ヒント。
隼人が服従した多氏=ヤマトタケルと豊前海人族の北上
「隼人は、ハヤビトと訓むべし、(中略)隼人といふ者は、今の大隅・薩摩二国の人にて、その国の人は、す ぐれて敏捷(はや)く猛勇(たけ)きが故に、この名あるなり(下略)
この宣長の説はハヤトの名の由来を、その敏捷性に求めている。したがって、『万葉集』の「早人」の用字にも通じる説 である。
これに対し、近代の歴史学者喜田貞吉(きださだきち)は、宣長説を批判している。すなわち、古 代の異族をよぶのに、その性状を形容したり、挙動をもって名とする例はなく、多褹(たね)人・阿麻弥(あまみ)人・国栖(くす)人・越(こし)人などその 住地の名をつける事実のあることを指摘している。
そこで、「はや」の人と解すべきで、中国の『新唐書(しんとうじょ)』倭国(わこく)伝に、「又、 邪古(やこ)、波邪(はや)、多尼(たね)三小王」のある一文をとりあげ、
ここに邪古の国史にいわゆる夜句(やく)(屋久島)人、多尼の国史にいわゆる多褹(種子島)人なることは疑いを容 れず、しかしその中間なる波邪が、隼人を指せるものなること、また疑いを容れざるべし(『日向国史』)。
といっている。宣長の説は、隼人の性行・行動にもとづくものであるから性行説とすると、喜田の説は地名説といえる。
その性行説にもほかにいくつかの考え方があって多様である。たとえば、ハヤシビト(難し人)の意だとする説、ハイ ト(吠人)の意だとする説などがある。また、地名説にしても、南方をハエする古語にもとつく、南方の人の意だとする説 などがある。」
http://www5.synapse.ne.jp/shinkodo/thistimeimg/kodaihayato13.html
「はやと」は「はや-ひと」の複合語であることは間違いない。ただ「はや」の意味が確定していないままである。「はや」は『新唐書(しんとうじょ)』倭国(わこく)伝に「波邪」とあるのが古い。しかしこの文字は中国人による音の当て字である。ただ、漢字にうるさい中国人が「波」を使ったのだからおそらく隼人とは海の人だっただろうと思える。
「隼」の文字も当然、のちの日本での当て字であろうが、「はやぶさ」で「はやくとぶ鳥」であり、一文字では「はやし」とも読める文字である。当家の近所で寿司屋さんの大将に「隼」で「はやし」さんがいる。
隼人の居住地は全国にあり、九州では本拠地薩摩・大隅以外には北部の豊前地方には隼人の地下式横穴とともに蛇行剣が出土しており、日向~豊の海部の中に隼人は多く含まれていたことが忍ばれる。
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さて、俳優高倉健の死去が報じられた。
ずっと以前から、健さんの顔つきと体躯は、絶対に豊前海人族の子孫のものと感じている。そしておそらくそれは間違いがない。
というのは豊前長洲~中津、行橋~小倉にかけての旧豊前地域の漁師たち、一般人も、ああいう顔つきで体格の男をたくさん見ているからである。健さんも筑豊中間市出身だ。中間市はかつての豊前国と筑前国の境にある地域である。
この「なかま」という地名は、山の名前になっている。大分県中津市に「なかまどんのはたやま」が存在する。豊前なのに鹿児島弁の「どん」=殿がつく。
中間一族は英彦山一帯に居住し、沖縄にも移住者がいると思っている。- 中摩殿畑山(なかまどんのはたやま) 登山記 【そのⅠ】, 大分県中津市耶馬溪町
彼らはおそらく英彦山修験道ともやがって関わったに違いないだろう。修験者の多くは底辺職能民の心的救済から転進していると思える。
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健さんの本名は「小田」である。小田氏は
1.常陸国筑波郡小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠とした大身。肥前、武蔵などに分家が存在する。小田は相模国小田原などが著名で、おそらく相模からの移住者地名ではあるまいか?あるいは逆もある。
1.常陸国筑波郡小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠とした大身。肥前、武蔵などに分家が存在する。小田は相模国小田原などが著名で、おそらく相模からの移住者地名ではあるまいか?あるいは逆もある。
2.備中国小田郡の地を名字とした氏族。応安3年(1370年)に小松秀清が地頭職を得て、小田神戸山城を本拠とした。戦国時代末に毛利氏の幕下となった。
福井の織田もその一族であろう。
小田氏は鎌倉時代、源頼朝に従って功績を挙げ、常陸守護に任じられた八田知家(八田太郎、宇都宮宗綱の子)を祖とする。知家の子の八田知重(尊卑分脈では「八田五郎」、宍戸系図では八田太郎)が小田を名のる。とされ、もとは「はった」である。八田は波多で波多野と同じである。常陸・相模・千葉一帯の八田・小田は、そもそも筑紫を大元としたので、その地名を
筑波(つくば)郡としたはずである。
筑波(つくば)郡としたはずである。
考古学でも、九州北部の装飾古墳、横穴式古墳が常陸は多く、多氏大生部・茨城の元になった多氏茨田(まむた・まんだ)氏が入っている。その常陸中央部が海人地名の「那珂郡」である。
(卑近な例で恐縮であるが小田和正も福岡出身ではなかったか?」)
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この「なか」は英彦山の「仲間」、筑紫の「中間」に合い通じる。
実は、茨城県の那珂郡にある息栖神社には、当家と同じ姓名の郎子伝承がある。相模の国のなか郡から鹿島にやってきて、地元の娘とならぬ恋におち、そろって並び松ノ木となったという寒田郎子(さむたのいらつこ)伝承である。その寒田は相模の国(神奈川県)の秦野市に寒田神社があってヤマトタケルを祭る寒川六社のひとつであるが、ここは海人族波多野氏と居住地であった。波多野姓は九州では大分県豊後大野市周辺に多く、ここ三重町がある。ヤマトタケルは「足が三重に折れて」歩けなくなったと記録されている。つまり波多野氏の伝承から三重地名になったと考えうるのである。
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奈美松霊・古津松霊なみまつのれい・こつまつのれい
常陸国風土記の香島郡の条に、童子女(うない)の松原の伝説の記述があり、それによれば、昔、年若い僮子(うない、少年少女の意)がいて、少年は名を那賀寒田郎子(なかのさむたのいらつこ)といい、少女は海上安是嬢子(うなかみのあぜのいらつめ)といったが、土地の人は二人を神のおとこ、神のおとめと呼んでいた。二人は夜ひそかに童子女の松原で逢っていたが、いつか夜が明け、人に見られることを恥じて松の木に化身した。少年の松を奈美松とし、少女の松を古津松と名付けて今に至るまで改めていないと記されている。この遺跡は、波崎町の手子后神社の地に比定されているが、或いはこの伝承の地と地形の上で類似している中津川の地にも、この説話が伝えられていたものか。
ということは隼人の前身であろう熊襲の曽於族を打ち破ったタケル=多氏に帰順し、南九州から北上し、拡散していった人々はヤマトタケル伝承と同じく北関東の筑波にいたっているのである。
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