今、問いたいのは、いったいどっちが日本の正しい「中世の始まり」だったかだ。
現在の歴史教科書は、安土・桃山時代からを近世としていることが多い。かつて戦国時代は中世で、江戸時代からが近世だった。
京都の人はよく「先の大いくさと言えば?」と聞かれて「応仁の乱」と答えるというようなことが言われている。まさかそんなことはない。第二次大戦で焼かれなかった京都では、先の大いくさとは蛤御門の変というのが正しい。しかし、それとは別に応仁の乱は、日本史の中で中世から戦国時代への画期となったいくさである。その応仁の乱と3世紀の倭国大乱のふたつの戦争は、実は日本史を区分するに値する画期的な歴史変化だったと言える。つまり邪馬台国と卑弥呼の登場は、日本史の「弥生時代」などという土器区分ではなくて、そこから中世的な王権・・・つまり
1仰揚型前方後円墳
2環濠・城柵を持ったシャーマニズム神殿
3巫覡であるながら共立された武力王
という条件を備えた時代の始まりをつげているのである。
それが室町と戦国を分ける応仁の乱と、時代背景がまったくよく似ている。
日本史で、環濠や城柵といった、外敵を防御する設備を持った構造の町が登場するのは、実は弥生時代の3世紀以降と戦国時代、特に信長が始めて作った天守閣のある平城(ひらじろ)=安土城以後の二回だけである。弥生環濠集落は古墳時代には消えてしまうし、平城は明治時代には消える。平城には堀と石垣が付随するから、卑弥呼の居城?とまったく同じである。つまりこの二度は国内が争乱期だったから生まれた施設である。ちなみに高地性集落と中世山城にも類似点はあるだろう。
つまり日本史で、大きな内乱がこの二つの時期にだけあったからなのである。
これ以外では天智天皇の時代に朝鮮式山城とか神護石とか呼ばれてきた石垣と水城ができた時期、そして蒙古襲来の際の防塁ができた時期が二度あって、これはどちらも海外の外敵からの防御のための施設だった。
このように日本史では、二度の大内乱と二度の外敵襲来の危機は確実にあったことが考古学的に証明できる。これ以外では、記録では壬申の乱があるが、これが実際にあったかどうかを証明する考古学上の遺物は実は存在しないことはあまり知られていない。壬申の乱はあくまでも朝廷内部のあとめ争そいに過ぎないからだろう。次に蛤御門の変と明治維新戦争、そして日清・日露戦争のあと、最後の大いくさが二度の世界大戦である。このうち日本が国家として敗北したのは白村江と第二次大戦の二回だけ。
大局的には、日本はおしなべて、少しの戦争、少しの朝貢外交、あとはずっと鎖国状態でやってきたと見てよいだろう。ちょっと外を見て、すぐ閉めて、あとは数百年も寝ていたというのを繰り返すのが日本の歴史である。
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