「乙未(きのとひつじ、いつび)は、干支の一つ。
今年は乙羊である。
この筆者のタグは今年の魔よけの意味がある。
木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる。
それが木剋土の相剋=陰の気である。
羊もまた土に生えた牧草を食うことで肥えるが、同時に糞は土を肥やすので問題はない。
時流は衰亡に向かっているが、消費大国アメリカがシェールガスのおかげで復活し、原油を買わなくなると原油価格が暴落し、中東が冷える。一時的に株価は暴落するが、ドルに代わって円は高騰し、ロシアや中国は手を組まねばならなくなる。
欧州は英国のEU脱退で衰弱を加速する。中国・ロシア・北鮮が手を組んでも西側包囲網の既成社会が作ってきた世界動向には従わねば経済的に立ち行かない。
今年は大事な年になりそうだ。これは干支や陰陽とは関係がない。
ニュートンは科学者にとっては始祖とも言える万有引力をリンゴから発見した人だが、彼が同時に錬金術師だったことはあまり一般では知られていない。
科学者の代表みたいな人が、錬金術のごとき眉唾な非科学的魔術なんぞにひたっていたなんて信じられないことだろう。しかし錬金術は中世では最新科学だった。
ところが彼は「賢者の石」を発見したと自筆原稿に書いており、当時の科学が一方で、非常に不条理なところから出てくることに気づかされる。錬金術やアルコール=アクア・ヴィエータの探査に耽溺することは、高度な数学理論と同じマニアな慶びなのだった。つまりニュートンもまた「魔術師」のひとりだったのだ。面白い時代である。科学は正反対の神秘主義・魔術から生まれでた。
ガリレオと同時代人であるデッラ・ポルタには『自然魔術』という神秘主義まがいの著書がある。ガリレオが地動説という科学理論で宗教と戦っていたほとんど同じ時代に、実は魔術は世間一般の興味対象のNO.1だった。自然魔術はオカルト的な感覚主義で宇宙(マクロコスモス)と地上(ミクロコスモス)との感応によって統一しようというわけのわからん理論である。神学的には彼は汎神論者=多神、器物すべてに神は宿る=つまりそれはケルトと同じ多神教からあまり変わりがない。つまり中世とは言えども、まだ人々の神感覚は古代である。日本などは今でも多神教だから、心的古代人である。しかし多神教は、同時に真理でもあるし、近代教義宗教が言っている唯一絶対神とは、宇宙の摂理にほかならない。つまりそれは天文学であり数学の手中にある真理追及となんら変わりはない。
宗教家が文学的、オカルト的に神を考えるのと、数学者が数学的に、物理学者が物理的に神を科学から遠のけ、宇宙を考えるのとは、実は昔はひとりの人間の中では同時進行していけた。錬金術や魔術はつまり科学への橋渡し役だったのである。
ついでだが、小保方晴子は、そういう中世の着想にとっぴでよかった科学者に似ている。自分を信じて、まったく疑わないのだが、実は大元でそれがまがいものにすりかえられていたことに気づかない。科学論理の正しい手法も知らない。着想だけが先行し、証明方法が伴わない。その弱点を穴埋めしてやった教授が登場して、彼女自身が「やっぱりあったんだ!」と大喜びしてしまう。実に罪のない可愛い性格である。すべての罪は理研と言う組織構造内部のいい加減な構造にある。それで国は別に、医療開発機関を今度立ち上げることとなった。理研から医学関係の研究部門を切り離そうというわけであろう。
ハッブル定数が大きいと宇宙の密度は大きくなり、時間速度はゆっくりになる。小さいと時間は早くなり、人間は生まれ出ることができなくなる。なぜなら宇宙が星や銀河を形成する暇がなくなるからだ。星がなければ生命体は生まれ得ない。
そういう適度な時間速度は偶然この宇宙が生み出したもので、だから人類の誕生も偶然である。ゆっくりと宇宙が膨張すると宇宙はブラックホールだらけになってしまう。やはりそれでは人間は生まれることができない。
ならばはなからそれを逆手にとって、人間が生まれるための諸条件つまり物理的量を逆算すればいいのではないか?こういう人間の存在から逆算するシナリオを「人間原理理の宇宙論」という。
光の速度、重力の強さ、電荷の大きさ、電子や陽子の質量、ブランク定数、空間の次元・・・それらが物理定数である。どこでも普遍的に同じ値を示す。
これらが全部、都合のよい適度な数値にあてこそ生命は生まれる。何かがちょっとでも少なければもう生命体ももちろん人間も生まれてはこない。原子が安定できなくなるからだ。原子が安定していなければ物質は生まれない。星も銀河も生まれないのである。だったらその適度な条件を持った宇宙空間ならば人間は生まれてくることになる。
しかし、ではなぜわれわれの宇宙がそういう条件をもてたのかは、これまたまったくわからないのである。つまりまだ神=謎は完全に死んではいないのだ。科学者は科学から神=謎を遠ざけるために出現したといってよい。謎を解明してゆけば、いつか必ず神=自然の法則は解明できる。神の姿を見るために実は科学は存在する。しかし神学者たちはそれを「不遜」としてきた。神を信じるものは実は、自分では神を見ようとはしない人々なのである。恐れ多くて土下座してしまいたがるので、見えるはずがない。現実を観ずに、それは在るとしてしまう。あるものはあるのであって、あえて探すことも泣く、ただ信じればよいと言いつづけて来た。そこには感応はあれども客観性はまったくない。それは古代人である。中世人はすこしづつ、おずおずとそれを疑い始めた人々、近代人はもう嘘とはわかっているがなんとなくまだ古い流れに従った人々、現代人は神を捨て去ろうとする人々。
すでに宇宙もまた無数に存在していることがわかっている。神もまたそれぞれの宇宙にあり、それぞれの摂理を持っているということになる。唯一絶対神など理論的にありえない。だがこの宇宙の中にはこの宇宙の作り出す摂理と言う、数値と言う絶対神がいる。それは自然神であるから古代多神教の神々の中でも器物神などではなく、災害を引き起こす自然崇拝の神=あるときは悪魔と原理はまったく同じなのである。
アマテラス・ツクヨミ・スサノヲに神としての違いなどない。もちろん男女など関係はない。すべてひとつの銀河系の物体の神格化したものでしかない。太陽・月・地球である。つまり神とは宇宙の銀河構造なのだと神話はちゃんとささやいているにも関わらず、オカルト信者たちは未だに神は私の心の中にいつもいると言っている。
人間一人のちっぽけな心の中にいるのは、それはあなたの解釈している神のほんんお一部でしかない。あなたにとって都合のよい神でしかない。神は実は都合の悪いぞんざいでもあるのだ。それがスサノヲとして言い表されている。つまり自然災害である。すると今度は災害は神が与えたもうた試練であるという。ならば死んでしまったものは髪の天罰をうけたふとどきものとなってしまうのに。大震災と津波で流されたあなたの家族は、ならば天罰を受けるほどの大罪人だったのかと逆に問わねばなるまい。
神は数値で動いている。一定の定物理的数がある。それが科学の考え方である。そういう意味でなら「神は確かに存在する」しかし、なぜそうあるかはまだわからない。わかったところでわれわれの運命は変わるわけでもない。
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