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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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筑紫君磐井=八幡神説/聖徳太子=九州王朝王子説

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◆磐井八幡宮と「磐井の砦」
佐賀県武雄市朝日町中野5483
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「この神社は高橋駅の北西約1.2kmの小丘上に鎮座しています。この丘は嘗ては「磐井の砦」と呼ばれ、6世紀に筑紫の君・磐井が、大和朝廷に謀反をおこした時砦を築いたともいい伝えられており、又、後藤氏の居館が築かれたこともあります。」
祭神 応神天皇
 境内社:海童神社

 由緒:天正5年(1577)竜造寺隆信の三男家信は、武雄領主第二十代として佐賀より入城するにあたり、佐賀龍造寺八幡宮の分霊を磐井八幡宮として奉祀しました。(境内案内)
 磐井八幡社は中野区の氏神社で、武雄領主第二十代後藤家信が武雄に入嗣した時に、佐賀の龍造寺八幡社の分霊を祭祀しました。御祭神は八幡大神(誉田別尊=応神天皇)です。この地は元来、中野後藤氏の居館であり、後藤氏の北の防御拠点として機能していました。
http://8.pro.tok2.com/~tetsuyosie/saga/takeosi/iwaihachiman/iwaihachiman.html
神社探訪記事http://taxitake.exblog.jp/6133396/
 
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●磐井の砦
 
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「伝説によれば、524年に筑紫の国造磐井が大和朝廷に反抗し、肥前地区の拠点として築城したと伝えられる。
仁治元年(1240年)塚崎城主後藤直明の弟、後藤定明が中野村を分与され磐井砦を居城とした。中野後藤氏は代々続き八代清明のとき、鍋島直茂の家臣となったという。」
 
※筑紫国造磐井が、百済とのえにしを深くしていた大和朝廷に反乱を起こし、新羅と結んで、火・豊を巻き込んで最後は豊前に隠遁したという。『筑前國風土記』逸文が正しければ磐井が終焉したのは豊前の上膳(かみつみけ・郡)ということになる。
 
 
◆龍造寺八幡社
佐賀県佐賀市白山1丁目
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創建鎌倉時代
祭神
主神応神天皇(第15代)
相殿
神功皇后(主神の母神。安産の神)
玉依姫命(神武天皇の母神)
天児屋根命(学芸の神)
住吉三神(海上安全・交通安全の神)
境内末社楠神社
楠木正成之命
楠木正行之命
 
「龍造寺八幡宮は、鎌倉時代に源頼朝の命で平家追討にあたった功績により、
文治元年(1185)龍造寺村の地頭職を与えられた南次郎李家(すえいえ)が、
村中城を築き、土地の名をとり龍造寺性を名乗り、
1187年(文治3年)その北西に、鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、
一門の守護神として龍造寺氏の城内に祀った事が始まりとされている。」
「「龍造寺」の呼称の起源については、白山町の「瑞石山龍造寺」の俗称高寺が
それに該当するといわれるが、もとは天台宗の寺で、常陸筑波山の龍造寺の寺僧が来て
住んだことから起こったものであるという説もある。
また、景行天皇の皇子、小確命(日本武尊)が熊襲討伐のため西国に下向したとき、
有明海を舟行し、佐嘉沿岸に龍船を着岸して上陸したところを龍造島というようになり、
その後、行基がこの地に一寺を建立したので、これを龍造寺と号するようになった、
などいくつかの説がある。【資料:九州戦国史】
この瑞石山龍造寺は、龍造寺八幡宮の神宮寺として立てられたもので、
お城の高台に建てられていたので、俗に高寺と呼ばれていた。
当時は佐賀城の南方一帯は有明海に面しており、海上交通の目標となっていたようです。」
http://blog.goo.ne.jp/ft-sg/e/a106601e351b7a968ebb7838abad2862
 

◆磐井神社(鈴ヶ森八幡宮)
東京都大田区大森北
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「この神社の創建年代等については不詳であるが、敏達天皇の代に創建されたと伝えられ、延喜式にも記載された神社で、武蔵国における総社八幡宮であったとされる。江戸時代には、将軍家の帰依を得、「鈴ヶ森八幡(宮)」とも称された。なお、鈴ヶ森という地名はこの神社に伝わる「鈴石」(鈴のような音色のする石)によるものとされる。」
祭神応神天皇
仲哀天皇
神功皇后
姫大神
大己貴命
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE#.E7.A5.AD.E7.A5.9E
 
※境内に岩井(磐井)という水が湧くことから神社名になったという。
しかし「磐井」の文字をわざわざ岩清水にあてたのには意味があったのかも知れない。福岡県の筑後地方の山高良山(御井町)にも磐井の清水がある。清水を「いわい」というのは珍しいことではない。しかし磐という文字であることが気になるではないか。京都の八幡宮である岩清水八幡宮(八幡市)の名前も男山山頂に清水が枠からであった。
 

◆原八幡社
愛媛県西条市飯岡1195
 
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祭神品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)[別名]応神天皇(おうじんてんのう)
大帯比売命(おおたらしひめ)※[別名]息長帯比売命(おきながたらしひめ)※[別名]神功皇后(じんぐうこうごう)
比売大神(ひめのおおかみ)
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=6398
 
「宇佐氏が、6世紀にはいると急速に衰退したという。それは、継体天皇期に起こった“筑紫国造磐井(チクシノクニノミヤツコ イワイ)の乱”に荷担したためというのが一般の理解である。
 筑後国風土記逸文には
 「筑紫君磐井は、官軍を襲おうとしたがその勢力に勝てそうにないことを知って、単身、豊前国の上膳(カミアガタ)の県に逃げて、南の山の険しい峰で生命を終わった」
とある。
※ここにある上膳(カミアガタ)は「かみつみけのあがた」の誤りKawakatu

ここでいう上膳の山とは英彦山(ひこさん)を指すとされ、それは宇佐氏の勢力圏に隣接する。一説では、宇佐氏の勢力圏に逃れたともいう。」 
この乱が収束した後の宇佐氏の動向については不明だが、敗者側に荷担したことから、少なくとも宇佐氏本流は途絶え、残存勢力や傍系氏族は数カ所の奥地に逼塞したのではないかという。その宇佐氏に関係するのが安心院の三女神社・妻垣神社である。

 その空き家となった駅館川右岸一体に進出してきたのが大和の大神(おおが)氏で、6世紀前半の宇佐平野には、駅館川を境として東に大神氏、西に辛嶋氏が居住し、大神氏が奉ずる応神天皇霊と辛嶋氏の原八幡神との競合抗争が始まったという。」
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/usa-gen-yahatakami.html
 
 
※(原八幡という名前の神社は全国にあるが、原は単なる地名なので、それぞれに関係があるかどうかはわからない。原という地名はどこにでもある。野原がある地名。八幡神も中世には全国に広がった。ただ、原地名には地域によっては(新羅)渡来系移住は関連があるかも知れないと、各地を回ってみた経験から感じることがある。Kawakatu)
滋賀県http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/hikone/harahachiman/h038.html
 
※大神氏は伝承や系図上では大和の大三輪氏末裔。福岡と山口に移住の伝承と記録がある。想定は豊前秦氏の亜流か、三輪氏末裔か?彼らが田川郡を経由して宇佐に持ち込むのが八幡信仰である。その後、『日本書紀』がここに応神天皇を「神名の交換」させて今の宇佐八幡の性格が完成した。とすると中野幡能が想像したとおり、大神氏は大和朝廷が『日本書紀』整合と大和王朝至上主義を押し付け、同時に宇佐の比売神に大和のアマテラスを上乗せすることで九州磐井の鎮魂と政治的宗教統一をもくろんだとなるのかもしれない。
 
 
◆正体不明の八幡神
「第一は(八幡宮)祭神の不明確さである。宇佐の場合、当初、祭神は比売神(ひめがみ)だけであった。九世紀以降に応神天皇、神功皇后らが追加された。応神は関西では大古墳の被葬者として決められていて「知名度」があるが、九州では母親神功皇后のほうが祭神としてはふさわしい知名度を持っている。(Kawakatu要約)」
「第二に、中国の関帝(廟)信仰に影響を受けたとも考えられるが、日本古代史であらぶる武のモデルはほかでもない(筑紫君)磐井であろう。神社が鎮魂、怨霊封じを基としたとすると、北部九州では少なくとも、この磐井をおいて適任者はいない。宇佐神宮の祭神にふさわしいのは卑弥呼を連想させる比売神でも誉田別でもなく、まさに筑紫君磐井であろう。磐井戦没の地は宇佐の西、指呼(しこ。呼べば答えるほどの近い距離)の間にある。」(いき一郎「磐井戦争」『ゼロからの古代史事典』)
 
 
 
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上記原八幡社サイト管理者が言うような、

「筑後国風土記逸文には
 「筑紫君磐井は、官軍を襲おうとしたがその勢力に勝てそうにないことを知って、単身、豊前国の上膳(カミアガタ)の県に逃げて、南の山の険しい峰で生命を終わった」
とある。
ここでいう上膳の山とは英彦山(ひこさん)を指すとされ、それは宇佐氏の勢力圏に隣接する。一説では、宇佐氏の勢力圏に逃れたともいう。」
 
とすれば宇佐八幡と英彦山は確かにいき一郎が描くとおり、近接した場所にある。
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豊前田川郡の香春(かわら)神社から宇佐に八幡神が移動したコースから考えても、英彦山の麓にある田川郡で秦氏らが祭っていた八幡神が、原始宇佐信仰の大地母信仰の女神であろう比売神に集合したのは九世紀頃までであろう。いや、それ以前に、6世紀磐井を滅ぼしたのが継体、あるいは欽明であるならば、当然、その鎮魂を各地にせねばならない立場にあったのは大和政権側の両名いずれかである。
 
磐井の乱以後、継体まで続くと『日本書紀』が言うところの倭五王の時代が完全に終り、欽明から敏達(びだつ・聖徳太子の伯父)へ、そして飛鳥王朝へとなった『日本書紀』の大和の流れは、磐井の死を契機に動いたといっても過言ではない。
ここに筑紫君=倭五王、磐井=八幡神を唱えるだけの原動力、説得力がある。
 
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倭五王~上宮王家が九州にあったとすると、確かにさまざまの『日本書紀』が造る謎が解けてくるのである。
 
 
 
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