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文字を書くことと刻むことの違い  障礙とはなにか?


文字や絵を「かく」は、英語でWrite(ライト)だが、もともとの意味はドイツ語では reiβen (ライツェン)で、「裂く」「刻む」から来ている(平川南)。ラテン語ではscindite裂くからScribe書く で、どっちもSCで始まる。

古代、人が何かを書くときはまずは石に刻みを入れることに始まるわけである。
だいたい欧州語では裂くから書くが生まれてきたようである。


2003年だったか、長野県の根塚遺跡から東日本では最古となる文字?が刻まれた土器破片が見つかったというニュースがあった。

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イメージ 1
 

3世紀の遺跡である。
言われている通りに、この文字が漢字の「大」であるならばだが、平川南は文字の書き順が違うとして、渡来した朝鮮の土器工人が刻んだ文字だろうとしている(『出土文字に新しい古代史を求めて』2014)。

「大」の書き順(筆順)は、まず横棒を書いて人と書く(人は左が先で右があとになる)が、この「文字」はまず人を書いてから横棒を書いてるから筆順を知らない者が書いたはずだと言う。

よく見ると、横棒と人の重なる部分は、ちゃんと交差してはおらず、つまり人と書いてから横棒を上から入れているのではないのではないか?ということは、書いた人はまず横棒を先に書いたと筆者は見るのである。


もし漢字を理解して書いたのなら、この「文字」は「大」ではなく、見たまんま「六」だとなるのである。知らずに書いたとすれば、重なる部分を重ねないように記号のように刻んだことになる。そもそも漢字の筆順を知っていようが、いまいが、石に線刻する文字と、紙に書く文字では、その筆順もなにも比較するものではないだろう。

例えば、レタリングのようなデザイン文字や看板の文字の書き方に筆順はない。まず横棒を平行に入れていって、次に縦棒という手順で、機械的に描かれる。つまり看板屋さんにとってこの時の文字は「絵」「デザイン」でしかなくなるのだ。


石工さんには石工さんのやり方があるだろう。従って、土器に線刻された図柄を文字だと決めるには、手がかりが少な過ぎると筆者は思っている。


いずれにせよこの人は漢字ばかりか文字そのものをあまり知らず、ただの記号として理解していたことになる。

こうした日本の最古級の古いケースでは、筆者はこの「大」だか「六」だか知らない記号は、記号であると考える。どんな記号かと言えば「魔よけ」である。そもそも「大」という形には、人が両手を水平に広げてやってくるものを妨げている形である
つまり難しい言葉で言えばこういう形状の魔よけは「 障礙 しょうげ」という。いわゆる摩多羅神の名前が「 障礙神」である。民間で言えばそれは荒神であり、塞(さえ)の神のことになる。「さえ」とはいつも書くことだが「さえぎる」ということである。遮る、遮断する、防ぐ、護るという意味である。魔物を遮る神が 障礙神で、摩多羅神の場合は、人が臨終のときに魔物がその人の命と肉体を食べに来るのを妨げる神であり、であるにも関わらず、摩多羅神は最終的に自らが死神になって死者に引導を渡す神なのである。とどめを刺すのは摩多羅神自身なのであり、それは死者の肝臓、内臓を食らうことで往生が成就するのだというのであるから、なんとも独占心の強い神だ。一見独善的にも見える。

大の字の形は、古墳時代の九州北部にはよく刻まれている絵柄であることは読者はすでにご存知だ。いわゆる石人などもそういう魔よけである。おそらく大が人が立ちはだかる形だというのは、世界でも共通観念になりやすい形状であるはずだ。だから欧米などでも出てきても不思議ではなく、この長野の土器の大も、単なる魔よけの記号として刻まれたに違いないと考える。


ついでに言うならば、ほかに見つかっている「文字」として「竟」を学者は「鏡」の略字と観るようだが、これも魔よけ記号としての「境」であるかも知れないと思うのだが、誰もそうは思いもしないようなので不思議でしょうがない。「さかい」とはあの世とこの世との間にあるといわれる「坂」つまり記紀神話にもある黄泉平坂のことを言う。橋・梯・椅とも言う。天橋立はつまり現世と来世をつなぐ死の世界への架け橋なのであり、平坂もそうである。山と里山のあわいさ、不安定な時空、あるいは黄昏時などもすべて「境」である。竟の形状には、もしそれが文字であるならば当然あるべき偏が省略されており、それが金偏だと決め付けた理由が少なくともわからない。土偏であってもよかったのに、要するに考古学者には、そうした民俗学的な素養がない判別法しか持っていないようである。自然科学的着想のそこが限界だと見える。

このように科学には一面的・一元的な見方しかないケースが多々あって、極めて危険である。人の内面を多面的に観ないところは理系的着想だと言えるだろう。答えをひとつにしてしまいたい性癖は、どこまでがんばっても科学者が技術者としてしか扱われないこの社会の傾向である。なぜ科学者がこの世界のリーダーになれないかと言えば、まずはそういう答えはひとつしかないという独善性にあるのだが、どうやらその意味が彼らには理解できないらしい。







ちなみに

 障礙神とは?
1 荒神
2 道祖神
3 塞の神
4 マカラ
5 金比羅
6 川の神
7 摩軻迦羅天(密教)=マハーカーラ(梵語)の乗り物である空想上の生物
8 それが混同されてマハーカーラそのものになってしまった
9 人を食う自然災害の宇宙神=災害神
10 死神であり死者の肉体を独占するために、死ぬまでは魔物から人を護ってくれる神。食われれば浄土往生できて、さらに子孫として再生できるようにしてくれる。弥勒菩薩に対する存在。
11 ゆえに大日如来であり、大黒天であり、スサノヲでもあり、渡来系工人たちの守り神でもあり、新羅明神でもある。千手観音にも顕現する。八幡神。稲荷神でもある。蛇であり山であり川である。憤怒の
12 荼吉尼天 ダキニ 大黒を押さえつけた神
13 秦河勝(新羅系渡来人で工人も元締めで、河川工事と土壌改良と国土開発のパイオニアで、さらにあらゆる渡来人の大元・家元的人物で、おそらく空想の人物像)



そういう意味のものが全部ひっくるまったのが 障礙神である。お水取りの修二会で最重要だが、隠された秘儀として登場する神。鬼を調伏し、幸をもたらすが、代わりに人々の血肉と内臓を持ち去ってしまう神。永遠と再生の象徴。渦巻き。螺旋の神。

まあ、宇宙の摂理などというものはそれ自体が理不尽で、独善的に登場するものである。つまり「災いは忘れた頃にやってき」て人を巻き込み、もちさってゆく。ようするに3・11の津波等はその最たるものだろう。あの津波も大地震も、つまり 障礙神の現象化なのだ。これを顕現、権現と言う。神でも在るが悪魔である。しかしながら長い眼で見れば、消えた命は天上界で再生され、新しい命となって「更新されて」子孫は存続するのだ・・・そう思わなければあまりにも切ないほどに人が死んでしまう時代だったからこそ、この神が必要になったわけである。悲惨な悲しみを、行く末の幸福にアウフヘーベンする摂理の中の超克者。夢。希望でもあるのだ。

「死こそが究極の永遠」だった、いや、なのだ。

である。

近々、その 障礙神としての摩多羅神の過去の記録をすべて列挙したい。
これはなかなか大変な仕事になる。全文が漢文だったり、当用漢字にない漢字をインプットしなければとても写せないしろものばかりだからだ。


ま、そのうち作っておく必要があるから仕方がない。


山本ひろ子の『異神』が頼りである。





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