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聖徳太子と忍冬とカササギ その正体を探る1

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伝聖徳太子二王子像の王子ふたりのみづらには花飾りがさしてある。
いったいこの花はなにか?まずそれを探ってみる。


パルメット=忍冬唐草文

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■アンテミオン スイカズラ(正しい古訓だとカヅラであるはずだが)

 「「忍冬文(にんどう・もん)」 という名もあるが 、この植物(忍冬・スイカズラ)に宗教的なまでの意味が与えられたかどうかということがみえないのと、時代が下がるので、もはや、なんの植物からという意味合いはなくなっている様に見え、植物のスイカズラからということはあまり考えられなかったため、スイカズラの項目もたてていませんでした。

Anthemionが ギリシア語の花という意味のアントスから来たということで、あらためてスイカズラの花姿を見ると、つる植物で、花も園芸植物となってゴージャスにみえ、香りもあり、・・スイカズラというのもまずくはないようだ。
しかし、文様を、「パルメットまたはAnthemion」 とする紹介が多く、あまりパルメットから区別されていないようだ。

Anthemionの説明に、カッコで(ロータスとパルメットの連続したフリーズLotos-Palmettenfries)である、といった 紹介なのも、スイカズラという植物 自体はあまり重要視されていないようにみえるがどうだろう。※

Honeysuckle(ハニーサックル)は、Lonicera(ロニセラ)やスイカズラの同義語(異表記)。
 忍冬 :すいかずら、スイカズラ は Japanese honeysuckle
Wikipediaによれば、 「スイカズラ(吸い葛、学名:Lonicera japonica)はスイカズラ科スイカズラ属の常緑つる性木本。別名、ニンドウ(忍冬)。冬場を耐え忍ぶ事からこの名がついた。」こちらは蔓植物。
しかし英語版Wikipediaの方は低木のようである・・」


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実際のスイカズラの花(赤)



「忍冬はスイカズラの漢名である。
 日本のスイカズラと文様としての忍冬は似ていない部分が多く、 飛鳥や白鳳時代に仏教美術を通じて現れる忍冬文様は、 現実の植物よりもはるかに流麗な姿をしている。

 忍冬文様の源流地は、遠く古代エジプトと言われる。それがシルクロードを通り、中国、朝鮮を経て日本に到達したのであろう、日本産の忍冬(スイカズラ)は、もともとデザインの原型になったものではない

普通忍冬文様と称されるものは、扇形に開いた花をつけたものを指す。
この花の扇形が誇張されるとパルメットに似てくるし、エジプトのロータスの花弁をやや丸くしたものにも似てくる。

 忍冬文様が実際の植物のスイカズラから出たかどうかは問題外で架空の吉祥蔓文様となって様々な花を咲かせては、別の名前を獲得していく。」
 「世界文様事典」(西川ハルオ)P32 
以上出展記事元 http://www.karakusamon.com/anthemion.html


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復元執金剛神像の忍冬文(スイカズラとはかけはなれている)
蕨手文、唐草文、パルメットであふれている


忍冬唐草文
「主要な仏教系文様の一種。基本形は数枚の葉が扇状に広がった形であるが,その半截形も多く用いられた。忍冬はスイカズラ科の植物で,葉の一部が越冬するのでこの名がある。しかし,文様系統は,すいれんの側面形に聖樹椰子の葉などが加味されてできたものと考えられており (→パルメット ) ,正しくは忍冬ではないが,日本ではこの名が一般に用いられている。おなじみの冠に笏を持った姿は、飛鳥時代の人物の服装とは考えられていない。人物の冠、服装などの様式研究から、この絵の制作年代は早くとも8世紀(奈良時代)と考えられ、平安時代以降の模本とする説もある。」ことバンク




パルメット
palmette


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右パルメット=忍冬 左ロータス=蓮
美術用語。図式化した花弁または葉文が扇状に広がった模様をいう。シュロを意味する palmから派生した語。ギリシアではこの形をアンテミオン (忍冬〈スイカズラ〉) という。その原形は古代メソポタミアに始り,古代エジプトのロータス (ハスの花の文様) とともに,ギリシア時代に現今のような形式ができあがり,古代世界一帯に広く伝播した。

※パルメットがスイカズラの花の図案化というのが定説だが、実際の元花はスイカズラかどうかわからないというのが本音。アンテミオンつまりスイカズラの花と、パルメット模様の花形にはいささか隔たりがある。


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パルメットという言葉の語源はどうもPalm(ヤシ)の葉にあったようで、のちにこのデザインをスイカズラの花の後ろに広がったまるで光背のような花額部分の形状をヤシの葉と取り違え、そのままデザイン呼称としてきたのではないかと思える。ヤシの葉では唐草の土台にはふさわしくない。エジプトからギリシアへこの模様が伝播するさいに、おそらくギリシア人が身近な花=アントスだと勘違いし、そこからさらに他国で呼び名が似ていたアンテミス=スイカズラの光背花だと思い込んだ・・・結果的に本来はパームの葉だったものが、名前だけは残ってパルメットとなったが、模様そのものはスイカズラだとなってしまった。結果的にパルメット=スイカズラとして欧米では理解されてしまった・・・。のだろうと思う。


さて、日本には、これらのデザインはもちろんローマ帝国と大秦国の交易で伝わったものが、美術史の考察では飛鳥時代~白鳳・天平時代にやってきた。つまり太子と蘇我馬子の時代にはすでに来ていた模様だと思われている。しかし、火災にあって再建された飛鳥寺が、やがて法隆寺として再建(7世紀)されたが、その法隆寺がまた火災にみまわれて修復される。その修復前の伽藍がわずかだが基礎に残っており、そこに手彫りの忍冬唐草文が見つかっているのが日本最古の忍冬唐草だとするのならば、これでは聖徳太子の時代からあったことは証明できないことになる。玉虫厨子にもこれがあるらしいが、玉虫厨子も

「天平19年(747年)の『法隆寺資材帳』[2]には金堂に「宮殿像二具」があることを記し、そのうちの「一具金埿押出千仏像」と記載されているものが玉虫厨子にあたると推定されている。「押出」とは、薄い銅板を型に乗せて、槌で叩いて図柄を表した像のことである。鎌倉時代の『古今目録抄』には、「推古天皇御厨子」とあり、「玉虫厨子」という名称は鎌倉時代に遡る。制作年代は7世紀と推定されている。前述のようにもとは、法隆寺金堂に安置してあったが、現在は大宝蔵院に安置してある。」Wiki玉虫厨子

つまり厨子が太子の時代からあったとはどこにも記録はなく、玉虫厨子の名前は鎌倉時代になって初めて登場し、それが太子のおばである推古天皇の持ち物というのも、鎌倉時代の「鑑定」だったに過ぎない。少なくとも、この厨子が確かに日本に伝来したのは745年を遡れないのである。




ところが太子がモデルだとされている唐本御影(とうほんみえい・御物聖徳太子二王子像)には、スイカズラらしき花飾りをみづらにさした少年が描かれている。

この御影像は唐風衣装を身に着けているので「唐本」、太子だからこそ「御影」と名づけられたのであるが、残念ながら、これがまた太子の肖像だとは証明できない。それどころか、一説では天武天皇や百済の阿佐太子御影であると言われている。

「2人の王子は、右前方(向かって左)が弟の殖栗皇子、左後方(向かって右)が息子の山背大兄王とされる。
1982年、当時の東京大学史料編纂所長であった今枝愛真が聖徳太子とは関係の無い肖像ではないかとの説を唱えて話題になった。
制作時期は8世紀ごろとみられるが、中国で制作されたとする意見もあり、誰を描いたものかも含めて決着は着いていない。最近の教科書や歴史参考書等では、この画像を掲載する場合「伝・聖徳太子」と説明したものも多くなっている。」Wiki唐本御影

服飾史の見方では、着ている唐服が太子の時代のものではないとされ、描かれたのは8世紀頃かとされた。おなじみの笏(しゃく)も、かぶっている冠帽も、実は飛鳥時代にはなかったものばかりだ。

百歩譲って太子であるとして、ではスイカズラの花の髪飾りは来ていたかは問題になる。また手前の王子の髪飾りはどうやらスイカズラではなく不明な四弁花で、名前がわからない。

空想上の絵であると言ってしまえば、いくらでも花などは作り出せるわけだが、奥の王子のはあきらかに光背花が見えてスイカズラだろう。スイカズラは東アジア一帯に自生し、日本にも自生種が20種ほどあるから、すでに赤い品種が飛鳥時代に描かれていても不思議ではないのだ。

スイカズラは宇津木の仲間で、茎は中が空洞なので「うつろな木」という意味のウツギという。蔓やツル植物というよりも、開花前にすいっと花枝を伸ばし、特に木々にからむわけでもない。花色は白、赤、緑、黄、あるいはそれらが混じったものがつく。今でも野山には普通に自生している。香りがやや甘いのと、花の少ない真夏の山で咲くのですぐに気づく。日本の仏像に多く描かれるのは、しかし西アジア経由でやってきた定型的絵柄のパルメットであり、自生種の花が描かれたわけではないだろう。だが御影のスイカズラはどうみても実物を頭に指している。

ウツギはいわゆる春に咲く五弁の卯の花で、非常に花が小さく、かたまって花をつける。春から初夏の花で、「夏は来ぬ」の歌詞に出てくる。うつろという言葉には、古代には「うつろ船」すなわち死者の喪船のことを言う言葉が多く関係している。朝鮮の卵生神話にも、虚ろの卵、瓢箪から天子が生まれてくる話が多い。聖人がうつろなところから生まれ出る、つまりこれは祖先の精霊が瓢箪のような中空から顕現して、生命を与え、それが聖者となって王となるという意味を持った花だということになる。そこに西からもたらされたパルメットのスイカズラが混ざりこむ。ちょうどうつろな軸を持っていた。

パルメットそのものが唐草で表現されたのは、エジプト古代人も同じように唐草のからまるさまに永遠の生命の輪を感じ取ったからであろう。実際にはヤシの葉もスイカズラも唐草のようにはからまったりはしないのだから、これは意匠の組み合わせ=テキスタイルでしかなく、神仙思想のような観念から作り出された絵柄である。というのはロータス=蓮も当然、つる草にはならないのに、唐草がからんでいるから当然である。

唐本御影の二王子と中央の人物がはいている太刀にも花飾りがある。その四弁花はでは、いったいなんという花だろうか?いろいろ調べたがわからない。最初は沙羅双樹かと思い探したが、そっくりの花はあったが五弁だった。

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沙羅双樹=シャラノキ



カランコエは四弁だが花が小さく、当時あったはずもない。ハナミズキもアメリカ産だからありえない。テッセンやクレマチスも渡来は新しい。たどり着いたのはフタバガキだった。


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残念ながら五弁で白い。しかし果額となると今度はパルメットそっくりにもなる。


ではヒナゲシはどうだろうか?

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確かに四弁だが・・・アジア自生種であるが・・・さて?


これはKawakatuらしくないがお手上げ。







■カササギ

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太子に関してはもうひとつ気になっているのがカササギである。
日本書紀(推古6年夏4月の条)には、それよりずっと以前、推古天皇の御代に難波の吉士磐金(きしいわかね・聖徳太子の命により新羅へ使者として渡った。鉄鋼業の祖)が新羅国(朝鮮)から帰ってきて、カササギ(俗に朝鮮鳥)2羽を献上したとある。


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聖徳太子の父用明天皇と、母穴穂部間人皇后を神として祀った1400年の歴史をもつ由緒ある古社である鵲森宮神社が大阪市森之宮駅前にある。大阪城のお膝元で、そもそもここは物部守屋の荒墓があったとされる。それを上町台地のやはり荒墓という場所にあった小さな祠のある土地を開いて建てたのが四天王寺である。「あらはか」という地名であるのは、おそらく守屋にちなんだか、もともとそこが古墳時代あたりかの墓場だったからだろう。

ここに守屋廟がある。

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「守屋祠は、今では参詣者が足を踏み入れない寺域の片隅にあり、物部守屋と弓削小連、中臣勝海(なかとみのかつみ)の三座を祀っている。つまり、この祠(ほこら)では蘇我氏や聖徳太子の怨敵であり、しかも恨みをのんで死んでいった物部守屋とその一味を祀っているのだ。

『摂津名所図絵』の四天王寺の項にも守屋祠のことが記されていて、参詣に来た人たちが守屋の名を憎んで礫を投げて祠を破壊したので、寺僧がこれを傷(いた)んで熊野権現の立て札を立てたという。祠のそばには、元禄7年の銘がある石灯籠が寄進されている。これらのことから、四天王寺が守屋祠を決しておろそかに扱ってこなかったことがわかる。」

「面白いことに、聖徳太子に関する多くの古書は、587年に四天王寺が造営された場所として、現在の大阪城付近の玉造辺りを指している。玉造は大阪市中央区の東南部から天王寺区の東北部にかけての地名であり、付近は上町台地の東縁部に相当する。かっては河内湖の入り江に面した小さな港などがあった交通の要衝だった。

玉造と聞いて、ハタと思い当たる記述が『日本書紀』の中にあった。丁未の変が勃発する直前に、物部守屋は資人(つかいびと、近侍者)の一人である捕鳥万(ととりべのよろず)という武将に百人の兵を与えて、難波の邸宅の防衛に赴かせている。当時の守屋は大和川の水利権を掌握していて、大和川が流れ込む河内湖の湖岸にも邸宅を構えていた。その場所は玉造付近がもっともふさわしい。
 
『日本書紀』や聖徳太子の最も古い伝記とされる『上宮聖徳法王帝説』には、玉造の記事は出てこない。しかしその後に作られた『上宮聖徳太子伝補闕記』や『聖徳太子伝暦』、『荒陵寺御手印縁起』、『古今目録抄』などでは、四天王寺は玉造あたりにあったと記している。

『荒陵寺御手印縁起』は平安時代後期(寛弘4年、1007年)に作成されたとされる四天王寺の縁起資財帳だが、その中に、「丁未歳をもって初めて玉造岸上に建て・・・癸丑歳壊して荒陵の東に移す」とある。丁未(ひのとひつじ)は587年、癸丑(みずのとうし)は593年にあたる。

『古今目録抄』は鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が法隆寺の記録や聖徳太子伝の秘伝を集大成したもので、『聖徳太子伝私記』とも『太子伝暦』とも呼ばれている。その中で、顕真は、「守屋を誅殺した直後の用明2年7月3日、玉造の地に柱を立てた。そして、守屋の死から49日目にあたる8月20日に、四天王像を安置し供養した。これが太子発願の四天王寺である」と記している。

顕真の甥で法隆寺の僧・俊厳は、弘長2年(1262)ごろ『顕真得業口決抄』を著している。その中には、「守屋の頸(くび)ならびに頸切太刀、着せし所の衣服とを悉く玉造の寺の仏壇の下に埋めて堂を造り、供養せしめ給ひ畢んぬ」とある。49日にあたる8月20日にこれらの品を仏壇の底に埋め供養したものと推察されている。
 
つまり、これらの諸書が伝えるところによれば、丁未の変の直後に、敗死した物部の守屋の霊の成仏を祈るために、彼の邸宅があった玉造に簡単な草葺きか茅葺きの草堂を造り、6年後に荒陵の地に移されて本格的な伽藍建築が造営されたとみるのが自然なようである。」
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_04_29.htm



ここに記載のある「玉造」の元の四天王寺というのがつまり鵲森之宮神社なのである。要するに四天王寺はそもそもから守屋の廟のために建てられた。

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鵲森之宮神社




さらに・・・
「昭和10年(1935)頃、現在のJR大和路線の八尾駅から約400m西北西の場所に、操車場が建設された。そのとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦や塔の心礎が建設現場から出土した。守屋の別業からは目と鼻の距離にあり、排仏派とされる物部氏も邸宅の近くに氏寺を建立していたことが判明した。その寺址は現在「渋川廃寺」と呼ばれている。

仏教の受け入れに反対していたのは、おそらく天皇家の祭祀を一手につかさどっていた中臣氏であろう。物部氏も石上神宮の祭祀を司っていたが、石上神宮は祭神として「布都御魂(ふつのみたま)」と呼ばれる剣を祀る神社である。崇仏/排仏には関係ない。おそらく守屋は一族の権威の象徴として氏寺を建立したにちがいない。しかも、彼の生前に造営を開始していたと思われ、その時期は蘇我氏の飛鳥寺よりも早い」



さらに・・・
「谷川健一氏の著書『四天王寺の鷹』は、冒頭の部分で面白い話を伝えている。四天王寺の金堂東側の緑色の欄間の上に、やはり緑色の冂の形をしたものが置かれている。谷川氏が寺僧に聞いたところでは、鷹の止まり木だそうだ。

その鷹の止まり木に関連して、四天王寺には奇怪な伝承が伝えられているとのことだ。四天王寺の堂塔は、合戦で敗死した物部守屋の怨魂が悪禽となって来襲し、そのため多大な損傷を受けるという被害に悩まされた。悪禽とは実は啄木鳥(きつつき)であり、聖徳太子が白い鷹になってこの悪鳥を追い払うことになったという。その白い鷹の止まり木が金堂の二階に現在も取り付けられているというわけだ。

江戸中期の1712年ごろ出版された絵入りの百科事典『和漢三才図絵』(わかんさんさいずえ)には、「天王寺は初め玉造の岸の上に建つ。海波岸を壊し、悪禽来たり集まりて仏閣をつつき損ふ。これすなわち守屋の大臣の怨念か。その禽は啄木鳥なり。五年後推古元年にいたりて荒陵山(あらはかやま)の東に移す」とある。守屋の執念がすでに四天王寺が玉造にあったときから問題であったことを伝えている。
 
『源平盛衰記』の中にも、守屋が啄木鳥になったことを記した一文がり、「太子仏法最初の天王寺を建立し給ひけるに、守屋が怨霊、彼の伽藍を滅ぼさんがために、数千万羽の啄木鳥となりて、堂舎をつつき滅ぼさんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給ひけり」と記されているとのことだ。

だが、鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が表した『古今目録抄』では、「太子と守屋とは、生々世々の怨敵、生々世々の恩者なり。影の形に随うごとく、すでに五百年を過ぐ。太子守屋ともに大権の菩薩なり」とも言っている。つまり、守屋が啄木鳥になって仏法を妨げ、太子が鷹となって啄木鳥を追い払うという伝承は、聖徳太子と物部守屋が敵対しているようでありながら、むしろ一体となって仏法を弘通しようとした現れであるという。
 
四天王寺の縁起資財帳である『荒陵寺御手印縁起』にも、「伝に曰ふ。守屋臣も仮には法敵となるといえども、却って太子の興隆を成ぜんが為の方便なり」と記されている。そこで、谷川氏はこうした伝承には守屋の怨霊を慰撫しようとする動機が含まれていると推察されている。
 
太子信仰の高まりとともに、聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりとしてみなされるようになった。そして、いつしか聖徳太子を「救世観音」と称するようになった。天王寺の本尊は救世観音であって四天王ではない。末法思想の時代に入ると、四天王寺を中心に霊場化が進み、救世観音信仰は次第に浄土念仏信仰へと変容していった。鎌倉時代、親鸞らによって救世観音が和讃や講式に取り込まれ、救世観音信仰は西方浄土信仰と同一視されるようになった。その後は、この信仰が長い間引き継がれて行き現在に至っている。」
以上先出サイト




新羅王家には朴・昔・金氏があったが、とくに昔氏は鵲(かささぎ)、金氏は金鶏を始祖伝説の象徴にしているのである。

九州に鵲が住み着いたのは「秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島直茂が持ち帰り、佐賀付近に放ったことから」だといわれているが定かではない。半島から九州北岸なら充分に往来できる。しかし魏志倭人伝には鵲なしとなっている・・・。



<中国の七夕伝説 牛郎と織女の物語>
牛郎は織女に形見の「首木」を投げ、
 織女は牛郎に「杼」を投げました。
二人の悲しむ姿を見かねた「喜鵲(かささぎ)」は
毎年七夕の日には群れとなって自らの体で「喜鵲橋(シーチェチャオ)」を作り、
 牛郎と織女をこの橋の上で再会させることになりました。

「この「喜鵲(かささぎ)」は、牽牛と織女を再開させる橋を掛ける役割を果たしています。」
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_227.html


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枚方市を流れる天野川にかささぎ橋がある。
これは筆者も知っている、近くに機織神社がある。牽牛織女を祭ってある。そもそも天照国照彦天火明櫛玉饒速日が遡上した川で、星田妙見もあり、かささぎと小椋氏、佐々木氏には深いかかわりがあるようで、星姓名の多いのも木地師氏族である。交野市には百済王神社・寺があり、樟葉には樟葉宮跡比定地がある。筆者もここで数年を過ごしている。ここは肩野物部の本拠地だったところだ。その拠点は天野川が淀川と分岐する枚方市渚~伊加賀であり、ここにも筆者は住んでいる。「いかが」は物部氏の「いかがしこおのみこと」由来の地名で、このあたり一帯が「白肩の津」である。枚方市の地名はこれが由来である。

つまりどうやら鵲は物部氏の本来のステータスだったらしい。

そのゆえんは、どうも九州にあるのではないか。鵲は日本では北部九州にしか生息しない。筆者も何度か九重山周辺で見かけているが、秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島直茂が持ち帰り、佐賀付近に放った?





守屋の霊魂が鵲として名前になり、それが四天王寺となり、やがて今の場所に移転され、守屋の霊廟も移転した。当初はそれが第一の理由だった。だがやがて四天王寺はあらゆる仏教宗派の自由に訪れる空間へとなっていった。次第に守屋廟は片隅に追いやられ、今では禁則地となって立ち入りができない場所に・・・。



その鵲を衣装の中に取り込んだ聖徳太子の像について、かつてどこかで間違いなく読んでいる。そこには画像もあった。いくら探してもそれが今は見つからない・・・。

そもそもなぜ鵲なのか?守屋は史書ではきつつき、太子は白い鷹となって登場する。そこに鵲のかの字もない。





聖徳太子の作られたイメージは、明白に天智・持統親子、そして藤原光明子の時代にクローズアップされた合成されたものであろう。するとそれはいったい実在の誰と誰を組み合わせ、そしてしかも彼らを鎮魂し、聖なるものとしなければならない理由とはなんだったのか?



次回、まずは秦河勝と聖徳太子をひとつの人物像にモンタージュする作業をやってみたい。さらにそこに蘇我氏がかぶさる。そして最後には?





かささぎの 渡せる橋に
おく霜の 白きを見れば 夜も更けにける
                      (大伴家持)






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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 
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画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
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装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U





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