天智天皇紀の虚構
あきらかな重複記事の事例
あきらかな重複記事の事例
●四年二月是月 「百済の国の官位の階級をかんがむ。なお、佐平(役職)の福信の功をもって鬼室集斯に小錦下を授けた。」
●十年正月「小錦下を以て鬼室集斯(学職頭)に授けた。」
●四年八月「城を長門国に築かしむ」
●九年二月「又、長門城一つ、筑紫城を二つを築く」
重複の上に杜撰な天智の任命
●七年七月「栗前王を以て筑紫率に拝す」
●八年一月九日「蘇我赤兄臣、筑紫率に任じられる」
●十年六月是月「栗隈王を以て筑紫率とす」
こんなに目まぐるしく率が入れ替わるはずがない。
●七年七月「栗前王を以て筑紫率に拝す」
●八年一月九日「蘇我赤兄臣、筑紫率に任じられる」
●十年六月是月「栗隈王を以て筑紫率とす」
こんなに目まぐるしく率が入れ替わるはずがない。
●三年二月丁亥「天皇、大皇弟(大海人)に命じて冠位の階名を増し換ふる・・・」
●十年正月「東宮太皇弟奉宣して冠位・法度のことを施行ひたまふ。
●十年正月「東宮太皇弟奉宣して冠位・法度のことを施行ひたまふ。
●八年是歳「大唐郭務悰ら二千余人来朝」
●十年十一月癸卯「「郭務悰ら六百余人の云々と合計2000人で対馬にやってきた」と筑紫率が伝えてきた。」
●十年十一月癸卯「「郭務悰ら六百余人の云々と合計2000人で対馬にやってきた」と筑紫率が伝えてきた。」
これらはすでに存在した過去記事の単なる重複挿入とは言うには、あまりに箇所が多すぎる。
では複数編集者による手違いか?それもありえない。そもそ『日本書記』は元明天皇あたりの時期に完成するわけだが、わずか100年ほど前の記憶が、まさか消えていたはずもないのだから、機械的に既存記事を貼り付けていってこうなったなどいくら編集者がまぬけでも、また官庁的な張り合わせでも、起こるはずがない。つまり天智紀は推敲もなされていないような杜撰な記事でつぎはぎされているのである。
『日本書記』天智天皇紀鎌足の死去
●霹靂於藤原内大臣家(六六九)十月乙卯 冬十月丙午朔乙卯
鎌足宅に落雷あり
●天皇幸内大臣家 親問所患
=天智天皇鎌足を親しく見舞った。
●而憂悴極甚 詔曰 天道輔仁 何乃虚説 積善余慶 猶是無徴 若有所須 便可以聞 対曰、臣既不敏 当復何言 但其葬事 宜用軽易
=鎌足がこれに答えて「臣は全く不敏でいまさら何を言えようか。生きて軍国に何のつとめもしなかった。死んでさらに何を重ねてなやませましょうや」といった。
●生則無務於軍国 死則何敢重難 云 時賢聞而歎曰 此之一言 窃比於往哲之善言矣 大樹将軍之辞賞 詎可]可同年而語哉 《天智天皇八年(六六九)十月庚申 天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家 授大織冠与大臣位 仍賜姓為藤原氏 自此以後 通曰藤原内大臣 (六六九)十月辛酉 藤原内大臣 〈日本世記曰内大臣春秋五十薨于私第廼殯於山南〉「列伝」【金庾信傳原文】是文武大王十三年
=十六日、藤原内大臣が薨じた。天皇は大織冠を与え大臣位を授け藤原姓を許可した。
(「日本世記」曰く、「内大臣は、年50歳で「私第に薨じた。」」)
山に埋葬した。遷して山(科)の南で一殯した。
(「日本世記」曰く、「内大臣は、年50歳で「私第に薨じた。」」)
山に埋葬した。遷して山(科)の南で一殯した。
いっぽう「列伝」はこうなっている
『列伝』金庾信傳 金庾信死去
●春妖星見地震 大王憂之 庾信進曰 今之變異
=春先に妖星が見えて地震があった。
●春妖星見地震 大王憂之 庾信進曰 今之變異
=春先に妖星が見えて地震があった。
●厄在老臣 非國家之災也 王請勿憂 大王曰 若此則寡人所甚憂也 命有司祈禳之 夏六月人或見戎服持兵器數十人 自庾信宅泣而去 俄而不見 庾信聞之曰 此必陰兵護我者見我福盡 是以去 吾其死矣 後旬有餘日
=守護兵が去った。福が尽きたと言った。
●寢疾大王親臨慰問 庾信曰 臣願竭股肱之力 以奉元首 而犬馬之疾至此 今日之後 不復再見龍顔矣 大王泣曰 寡人之有卿 如魚有水 若有不可諱 其如人民何 其如社稷何 庾信對曰
=庾信が病の床に伏したので大王が親しく慰問した。
●臣愚不肖 豈能有益於國家 所幸者 明上用之不疑 任之勿貳 故得攀附王明 成尺寸功 三韓爲一家 百姓無二心 雖未至太平 亦可謂小康 臣觀自古繼體之君 靡不有初 鮮克有終累世功績 一朝隳廢 甚可痛也 伏願殿下知成功之不易 念守成之亦難 疏遠小人 親近君子使朝廷和於上 民物安於下 禍亂不作 基業無窮 則臣死且無憾 王泣而受之
王の慰問に答えて「わたしは愚かで不肖なものです。どうして国家に利益をもたらすことができましょう。」と言った。
王の慰問に答えて「わたしは愚かで不肖なものです。どうして国家に利益をもたらすことができましょう。」と言った。
●至秋七月一日 薨于私第之正寢 享年七十有九〈略〉●出葬于金山原
=秋七月一日になって、「私第の表御殿で薨去した。」(私第=私邸)
享年は、七九歳であった。金山原に埋葬した。
=秋七月一日になって、「私第の表御殿で薨去した。」(私第=私邸)
享年は、七九歳であった。金山原に埋葬した。
ここはあきらかに文脈、記事内容のすべてが「列伝」金死亡記事をそっくりそのまま名前だけ置き換えて作文してある。
以上のことから言えることは、天智紀の編集者には正史を書こうという情熱がまったく感じられず、すべてが捏造だったと判断できる。またこのあと、天智自身も死去するわけであるが、そこへ至る「前兆」部分の書き方は、そのまま中国史書の前例をそのまま使っており、たとえば「八つの鼎が鳴動した」「天皇、天命をはりなむとすか」「瑞兆があらわれた」「逆に貴兄動物があらわれた」などが目立つ。これらも明白にこの文章が全部、コラージュであり、事実ではないからこその熱意のなさしか見えてこない。
そしてついに、まさに中国易姓革命の用語「下克上」が登場し、劉邦にそっくりの弟王・天武が登場する。あきらかに「天智とは異質の王」が革命を起こそうとしてこれもまた中国の「天命」を謳いあげるのである。
つまり・・・
これは中国や朝鮮の天命王の即位や死去にそって、いもしなかった人物たちを描いた虚構の記事であると言ってもなんらさしつかえはない。
実際には、天智が白村江で敗北があったとするならばだが、その時点ですでに天智は消されていたのだとも考えうるだろう。もちろん鎌足(鎌子)などという人物も作り出された人物ということすら可能である。とにかく『日本書記』のほかの記事から考えても、『日本書記』は偽書であると言える。すべての記事が八世紀になって捏造されたことばかりである。『古事記』と合致する部分をのぞいて、それは全編にわたっていると考えていたほうがよい。
前提となる「帝紀」「国紀」なども『日本書記』があった、火事を逃れたと書いてあるだけで、現物はなく、信用できない。そうなってくるとそもそも『古事記』序文における太安万侶が稗田阿礼から云々もまたとても信用しがたくなってくる。
天武の勅命であやまった歴史を正すべき史書であるはずの記紀には、まったくそれに従って編纂されたような痕跡すら垣間見えない。
少なくとも、このような杜撰で推敲すらされていない「小説」を筆者は正史・国史として認めることはできない。たとえ、若干の事実が含まれているとしても、あきらかな改変・捏造が多すぎる書物であることに間違いはない。こんなものを利用されて起きた先の大戦など、今後、絶対に起きてはならない。日本人はもと自分たちの過去について知識を持たされるべきである。そのためにさらに今後、記紀は子供たちに正しく伝えられねばならず、真偽を問われねばならない。こんあいい加減な史書を正史などとされていては、日本人として非常に迷惑である。
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