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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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壬申の乱戦場遺跡はない 初代天皇は持統 合言葉は金だった

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●壬申の乱までのあらまし

乙巳の変で蘇我氏本宗家を滅ぼした中大兄皇子はすぐには即位していない。即位したのは伯父の軽皇子(孝徳大王)であった。孝徳は、蘇我馬子らが形を作ったそれまでの倭国にはなかったグローバルな対外交易を簒奪するかっこうでこれを継承し、河内湖に突き出した上町台地に難波宮を構える(守屋を祭った荒墓の四天王寺もこの台地上にある。NHK敷地そば。谷町、平野区など懐かしい台地)。

しかし中大兄はその方針に反発し、叔母の元皇極女帝とともに近江に逼塞し大津に近江宮を建てて引きこもる。中大兄としては白村江(はくすきのえ)での大敗北という前代未聞の大失策を犯した経験上、大王として認められるには相当なリスクをしょっていた。それを援助するのは中臣鎌足ら中臣氏と、中大兄自身が援助してきた亡命百済王家しかない状態。つまり鎌足とは=余豊璋であったと考えられる。いずれにせよ近江逼塞のこの段階では、中大兄はまだ天皇でも大王でもなかったはずである。畿内での彼の評価は最悪だっただろう。

しかし孝徳をほったらかしたショックで、伯父大王が死ぬと、すぐに天智天皇として即位。

そして倭京=飛鳥にあった今の法隆寺阿弥陀三尊像伽藍にあった救世観音像を台座から夢殿へ隠し、にわかに聖徳太子という人物を国家作りの聖人としはじめる作業に入った。聖徳太子(実は物部守屋のこと?)によってかつて中国と台頭に渡り合えた先人がいて(つまりそれは蘇我馬子と厩戸のことだが) 、自分は実際にはその直系であって、白村江でも勝った勝ったと「大本営発表」し始めた(いやそれはもちろん『日本書記』成立の時代の藤原不比等がそう記事を改変していったのだ)。

勝った勝った、自分こそは天孫の直系である。天孫の親だった正勝吾勝天忍穂耳とはおれのことだと大発表。自分は天命を受けて大王になる人間であると言い出す。これによって過去の失策をなかったことにしてしまおうというのである。

それをバックアップするのが中臣金と鎌足(豊璋)である。金はその手柄もあってやがて天智の息子の大臣となれた。唐が攻めてくるぞと豪族たちに吹聴したのだろう。おかげでばらばらだった国は聖徳太子のご威光を徐々に信じ始め、大和はひとつになってゆく。しかし不満分子はそれを信じず、別途、天智とはまったく縁のない皇族である大海人皇子を担ぎ上げようとしていた。大海人は美濃の多品治によって軍人として育て上げられていた。多氏湯沐(ゆえ)邑とこれをいうが、この湯沐という言葉は『後漢書』にある後漢高祖・劉邦が出身地沛県を湯沐邑と呼んだ、という古事の受け売りである。大海人は名のとおり、海人族尾張海部=多氏によって養育された海人の子孫であったのである。


660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(『日本書紀』には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、

天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。いわゆる「虎を野に放った」のである。

12月3日(672年1月7日)近江宮において狩りに出たまま遭難し行方知れず(暗殺死)されていた天智天皇が、46歳で崩御と公表された。大友皇子は弘文天皇に即位。
天武天皇元年6月24日(7月24日)に大海人ついに吉野宮滝宮を東国へ向けて出立。美濃・尾張国境の不破を目指す。ここで多品治ら海人族勢力と合流するためである。
弘文天皇はこれに対して援助を筑紫にいた栗隈王に要請。しかし王は筑紫の国は外敵に備えることが任務であり兵の動員はできないと,近江朝廷方の出兵命令に応じなかった。

この栗隈王とは橘氏の祖で、美濃王=三野王の親ともされる人物で美濃国の由来氏族でもある、天武に協力するわけだが、のちに橘氏は藤原仲麻呂に対抗する諸兄を生み出す氏族である。そのあたりの関係がここの記事にはかなり影響しているだろう。三野は継体母方の三尾氏ともよく似た名前である。応神・継体にしろ天武にしろ、いずれも東国・北陸・百済・高句麗などの氏族からの援助を受けて大王となれたのであり、天智とはまた別の王家であったのだろう。西国中心の天皇家に対抗するもうひとつの大王家だと言える。もちろん壬申の乱や乙巳の変の挿入は、中国の天命を受けて即位した天子を持ち込んだということなのであり、ドラマチックに仕立て上げて、日本もそうした天命や革命によって立国したのだと海外に言うためのひとつの創作軍記に過ぎまい。

まず吉野から名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。この状況を不利と見た大海人皇子は、伊勢国に滞在し占いを行った後、皇后高天原廣野姫とともにはるかなる伊勢の神を遥仰したとされた。伊勢の神とはもともとは伊勢・鳥羽海人族の太陽神であったが、のちにこれを国家神アマテラスと変えて持統女帝を暗に示すことになる。これにより大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族(すべて海人族族長)の信を得ることに成功した。それは引いては広く全国の海人・海部集団ネットワークの援助を得たことになる。それで大分君などが乱で活躍したことにできる。このやりかたはそのまま、『日本書記』継体大王と尾張目子媛の婚姻として応用された。

続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で嫡男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある。)更に伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。

671年7月2日天武、美濃国不破(ふわ)にて挙兵。総数二万。隊を二手にわけ琵琶湖の東岸・西岸の双方向から近江京(現「錦織にしこうり遺跡」)を目指す。








●壬申の乱古戦場の舞台となった地域
6月25日伊賀積殖山口(つむえやまぐち)


7月2日飛鳥古宮高安城(たかやすき)  大伴吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍がいる高安城(たかやすのき)に。すると朝廷軍は米倉に火をつけて逃げた。

7月3日 衛我河(えががわ=現在の大和川支流石川)  坂本臣財ら、衛我河の西で壱岐史韓国と戦って敗走

7月4日飛鳥乃楽山(ならやま)   大伴吹負軍は現在平城京跡がある場所を北に上った乃楽山で朝廷軍と戦う。簡単には勝利できず,大海人皇子軍が敗走。

7月4・5日 奈良当麻(たぎま)  大伴吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍と二上山のふもとで戦って勝利。

7月5日 倉歴(くらふ)  夜の戦いで敵味方がわからないので,朝廷軍は「金(かね)」という合い言葉を使って敵味方を区別。これは大海人皇子軍を混乱。「誰が裏切り者だ?」「金」とでも使ったのだろうか?

7月7日箸墓 朝廷軍と大伴吹負(おおとものふけい),置始菟(おきそめのうさぎ)らの軍が戦って勝利

7月7日近江息長横河  村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破る。

7月9日近江鳥籠山(とこやま)

7月13日安河(やすのかわ)・栗太(くるもと)  大海人皇子軍13日安河の戦い,17日栗太)の戦いで朝廷軍を破って迫撃。

7月22日三尾城の戦い、瀬田橋の決戦
羽田公矢国(はたのきみ・やくに)が率いる大海人軍は、琵琶湖西岸を南下していた。この日、三尾城(みおのき 滋賀県高島郡高島町西にある山城)で近江朝廷軍と遭遇して、これを破っている。そして、さらに大津を目指して行軍を続けた。三尾城の場所はわかっていないが、岳山(だけさん)には古代の寺院跡も見つかっており有力候補地となっている。戦場はおそらくこの山の中だったと思われる。
 
瀬田唐橋(せたからはし)決戦
  瀬田橋東側に村国男依の軍、大友皇子率いる朝廷軍は橋の西。弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち,それらが雨のように落ちてくる。橋の中程の板をはずして敵を落とすという朝廷郡の仕掛けたわなは,一人の勇者,大分君稚臣(おおきだのきみわかみ神八井耳子孫)によって破られ、稚臣はわなを見破り,弓矢の中に突撃。その結果,朝廷軍は総崩れ。



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壬申の乱の痕跡(戦争遺跡)はあるのか?
●1飛鳥
 壬申紀(『日本書記』は天武天皇だけ例外的に二巻(壬申紀(天武即位前紀)・天武紀)に渡って記述する。その一巻目が「壬申紀」である。ひとりの王者について二巻を割いた前例は中国にあり、それを模してのことであろう。)
あらすじ
「病に倒れた天智天皇は天智10年(671年)10月17日,蘇我安麻呂に命じて大海人皇子に宮に来るように伝えた。それは天智天皇の後の皇位について相談するためだった。病床にあって天智天皇は大海人皇子に対して「皇位を継いでほしい」と頼んだ。これは本心ではなく,大海人皇子の反応を見たかったのであろう。これに対して大海人皇子は,皇位を自分に譲る気はないと天智天皇の本心を悟っていた。そのため,大海人皇子は自分の体調が悪いことを理由に断り,皇位は皇后(倭姫王:やまとひめのおおきみ)に,大友皇子を皇太子にと願った。そして,自分は出家したいと申し出た。天皇はこれを許したので,大海人皇子はすぐに退室し,宮中の仏殿の南で髪を切り,僧の姿となった。
  このことを伝え聞いた天皇は大海人皇子に僧の衣装である袈裟(けさ)を送った。
  実は大海人皇子が宮に入る前,迎えに来た蘇我安麻侶から天皇の言葉には「用心して返事するように」と聞かされていた。また天智天皇はすでに息子の大友皇子を太政大臣にしているから,皇位を弟の大海人皇子に譲る気はないと考えていた。皇位継承を断るということは天智天皇の意を悟った上での返事だった。
 
  2日後の19日,大海人皇子は天皇の前で吉野に行って仏道の修行をしたいと願い出た。天皇はこれを許したので,すぐに都を出てこの日のうちに吉野に向かうこととなった・・・。」http://www.asuka-tobira.com/jinshin/keika.htm

1吉野宮滝遺跡=宮跡が吉野にあったことだけは間違いない。

2飛鳥寺西方遺跡:飛鳥時代の建物跡 壬申の乱の陣営か
 「大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」と考えられている飛鳥寺西方遺跡(奈良県明日香村)で、飛鳥時代の建物跡が初めて見つかり、明日香村教委が5日発表した。簡易な構造から仮設の建物だったとみられ、日本書紀に記述がある「壬申の乱」(672年)の陣営だった可能性もあるという。
 村教委によると、国内最古の本格的寺院・飛鳥寺の約80メートル西側で建物跡2棟分の柱穴が見つかった。南北の幅は2棟とも4.8メートル、東西に延びる長辺は16.7メートルと17.5メートル。2棟は約6メートル離れて、東西に並んで配置されていた。2013年の調査で2棟の南側長辺の柱穴だけが見つかっていたが、一列だったため塀の跡とも考えられていた。

 穴の形や間隔にはばらつきがあり、村教委は「一時的に造られた仮設の建物と考えられる」と推測する。柱穴は焼けた赤っぽい土で埋まっていた。

 槻の木の広場は日本書紀に度々登場。古代の内乱・壬申の乱の際、大友皇子側の陣営が置かれたと記され、天皇が蝦夷(えみし)や隼人(はやと)ら当時の辺境の人々を招いた際に供宴を催したという記述などもある。

 木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「天皇の儀礼のために仮設建物を建てるのは理解しにくい。壬申の乱の陣営の一部と考えられ、乱の様子が目に浮かぶような遺構だ」と話している。」
http://mainichi.jp/feature/news/20150206k0000m040131000c.html


※さしたる確証もないのに、偽書である『日本書記』記事を持ち出してきて勝手な推量を行っている文献史学に強く影響された、考古学者にあるまじき意見に過ぎない。「あったことにしたい」という恣意的捏造。




●2伊賀国
「天武元年(六七二)六月二十四日、東に入らん」
大海人皇子一行は吉野を脱出し、大和の莵田の郡衙(榛原)・大野を通って伊賀国入りする。
「夜半に及びて隠の郡に至りて、隠の駅家を焼く──横河に至らんとするに黒雲あり」
隠(名張)郡衙跡=名張川(横川)を渡る手前(南側)に所在。
名張市中村観音寺遺跡=古代の大型掘立柱建物跡
これみな平安時代の郡衙の痕跡で、飛鳥・奈良時代の痕跡は一切なし。

「即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀の駅家を焼く。伊賀中山に至る」痕跡なし
上野市上神戸高賀遺跡=街道筋を見下ろす立地の良さと古代の優秀な掘立柱建物跡や円面硯が発掘。乱との関連性不明。

「会明に蕀萩野に至る。暫く駕を停めて進食す。積殖の山口に至り──大山を越えて伊勢の鈴鹿に至る」=遺跡なし
中貞夫『名張市史』 名張市役所 昭和四十九年
『伊賀町史』 昭和五十四年
『日本の古代遺跡 三重』保育社 平成八年
伊賀地内の7世紀後半以降の発掘主要遺跡
伊賀地内の7世紀後半以降の発掘主要遺跡




●3伊勢
  「(四日市)本市北部にある大矢知町の伊勢湾を望む丘陵の東先端部には、久留倍(くるべ)遺跡という弥生時代か ら室町時代にかけての遺跡があります。久留倍官衙遺跡は、この久留倍遺跡に含まれる遺跡です。
  一般国道1号北勢バイパスの建設にともない、その事前調査によって確認 された奈良時代の役所跡の範囲が国指定史跡久留倍官衙遺跡となりました。
  丘陵上部の平坦面では正殿(せいでん)・脇殿(わきでん)・八脚門(はっきゃくもん)などを備える 東を向く政庁(せいちょう:役所の中心的な建物群)や、南を向き東西に長い大型の掘立柱建物群の遺 構が確認されました。また、丘陵東斜面には稲もみが貯えられていたと考えられる倉庫群も建てられて おり、区画溝で囲まれていることから、正倉院として築かれたものと考えられます。さらに、丘陵の北 東側の裾部には官衙関連施設と考えられる多くの建物も見つかるなど、次々と役所の建物が建てられて いたことがわかりました。
  このような久留倍官衙遺跡は、壬申の乱や聖武天皇の東国行幸などの史実との関連も注目されており、 考古学のみならず古代史や万葉集研究にも一石を投じる重要な遺跡となりました。」=壬申の乱との関連不詳
http://www5.city.yokkaichi.mie.jp/menu73646.html

智積廃寺ちしゃくはいじの遺構 四日市市智積町字土丹どうたん
「1968年に発行された『智積廃寺発掘調査報告書』に、智積廃寺は飛鳥時代後半から奈良時代初頭に創建され、約100年間存続して廃絶したと記されています。一連の調査で、平安時代から鎌倉時代後半頃までこの地域で集落が営まれたことを示す住居跡や、多数の尾張の猿投窯や知多古窯の製品や宋磁も2点出土したことから、鎌倉時代の文献にみられる「智積御厨みくりや(伊勢神宮領荘園)」の成立と、その「流通機構の形成」が考古学的に裏付けられました。」







こうして考古学的に見てくると、いくつかのそれらしい遺跡が見て取れはする。しかし、それが確かに戦争があった遺跡かといえば、そういう戦場遺跡は皆無である。あとになって協力したから立派な国衙や寺院が建設されているようだが、それをすべて8世紀の「あとづけ」「裏づけ作業」だったとしてもおかしくはない。

壬申の乱が、本当にあったのかどうか、証明できる遺跡はいまだにひとつとして出ていない。





いえることは、壬申の乱は天武を正統な大王として認めさせるためのドラマチックな軍記に仕立てているということである。わざわざ一巻を割いて、中国の正史『後漢書』に似せるために。それは劉邦が項羽とは違い大儀のある人物で、天命によって定められた運命の王であったことを、まさに天武に当てはめたい編者たちの策謀である。もし実際にあったとしたら、この戦いは言うならば古い純粋倭人海人族たちが、垂涎の政権奪取に成功した歴史的大事件となったはずである。それは継体時代の尾張氏や物部、大伴ら縄文的旧勢力の台頭にまったくよく似ているのである。

天武が天命王であるならば、同じく天命王で太極とされた天智とも兄弟としておけばさらに説得力がある。しかも、天武の后もまた天智の娘であるとしてしまえば、それはさらに格があがる。しかし結果的には、『日本書記』は持統即位までで終わっており、持統が孫の文武に(ちょうどアマテラスが孫のニニギを天孫としたように)つなぐあいだ宰相として登場してくるのが藤原不比等なのだった。


不比等死後、藤原四家は菅原道真左遷によって不遇時代を迎えることになる。そのとき対抗馬として権力を奪うのが栗隈王の子孫である橘諸兄なのである。諸兄の母は犬養橘三千代である。犬養氏もまた天武と深い関係を持つ吉備の海人族である。天武政権がもしまことに存在したのなら、それは埒外の海部氏族たちが樹立した新政権であったと言える。多氏、犬養氏、安曇氏、息長氏、宗像氏、尾張氏、隼人らの、それは宿願の復権でもあっただろう。

しかしながら天武政権は簡単に終焉し、再び天智の子孫桓武が登場する。おそらくここに息長氏の血は実は流れていない。つまり天智は葛城王であり、これらの蘇我氏から続いたよくできた転覆記事のすべては、かつての古い複数王統の近畿内部での狭い王権簒奪合戦だったことが見えてくるわけである。

いずれにせよ、天皇家は高天原廣野姫天皇から始まったと考えられる。







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