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天武紀の「大納言」


恥ずかしながらこの数日間、辞書にいれている「にほんしょき」表記が『日本書記』に、何者かによって「改変されていた」ことに気がつかずにいた。『日本書紀』である。申し訳ない。恥ずかしい。







大納言(だいなごん)は、
「太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。
天智天皇の下で設置された「御史大夫」や天武天皇の下で設置された「納言」がその前身とも言われるが、つながりははっきりしない。「大納言」の名称がはじめて現れるのは、飛鳥浄御原令の下であるが、これが大宝令・養老令の下での大納言と同じものであるかどうかは断言できない。
養老令職員令では、その職掌を「庶事を参議し、敷奏・宣旨・侍従・献替を掌る」と定めている。大臣とともに政務を議し、宣下と奏上に当たることである。『令義解』では、大臣が欠員・休暇の際にはその代行をするものと説明している。君主の言葉を臣下に伝え、臣下の言葉を君主に伝える役割であることから、『令集解』では、中国の古典を引いて「喉舌の官」と呼んでいる。」Wiki大納言

わかりやすく言えば内閣官房の官房長官である。広報長官。





『日本書紀』壬申紀に「大納言」という言葉が出てくる。
大友皇子の大臣として
「左大臣蘇賀 赤兄臣、右大臣中臣金連、大納言蘇賀果安臣」

とある。

この大納言が、のちに制定された大納言と同じであるか、諸説があるが、おそらく天武の時代にはまだありえない役職名だろうと思う。


蘇我 果安(そが の はたやす、生年不明 - 天武天皇元年7月2日?(672年7月31日))は、日本の飛鳥時代の豪族。姓は臣歴
蘇我果安は蘇我倉麻呂の子で、蘇我馬子の孫にあたる。石川麻呂、日向、赤兄、連子の兄弟とされる。倉麻呂の系統は645年に蘇我蝦夷と入鹿が滅んでから蘇我氏の本流になった。
天智天皇10年(671年)1月5日に、巨勢人、紀大人とともに御史大夫になった。同日に大友皇子(後の弘文天皇)が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣に任命されており、御史大夫はこれに次ぐ重職であった。
Wiki蘇我果安

『日本書紀』はこう書いている。
以蘇我赤中臣為左大臣。以中臣金連為 右大臣。以蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣為御史大夫。〈御史。蓋今之大納言乎。〉

御史大夫という役職は今で言う大納言のことである。
ということになる。


また、八月庚申に処罰が下るさいに
「右大臣中臣連金斬浅井乃田根、左大臣蘇我赤兄、大納言巨勢臣比等」とある。


この場合、大納言の読みは?
「おほきものまうすつかさ」と読ませている。
つまりやはり官房長官のことである。



『日本書紀』の中で役職名がこういう新しいものに置き換えられている箇所はかなり多く、編者たちがさほど過去の時代考証に頓着のなかったことは知っておくほうがいい。言うならば、『日本書紀』は非常にいい加減な書物なのである。






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