倉本一宏 『平安朝 皇位継承の闇』2014 角川選書よりさらに発展させて。
●暴虐王記事という『日本書紀』天皇交代パターンについて
これは『日本書紀』だけには限らず、中国やローマ帝国ではいくらでも存在する定型パターンであるが、雄略紀の後半や武烈全般で、この天皇はとにかくひどい大王で、人は殺すは、妊婦の腹は裂くわ、酒池肉林のぜいたくをして政務を振り返らなかった・・・だから天罰覿面、王統は滅びたのだと書いてある。要するにこういう部分は、8世紀の政治観だったのであろうし、それを縦横に使ってダメ王を言い募り、ここで政権が切り替わって当然じゃないかと史書編者は読者に同意を求めているのである。
小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈・おはつせの・わかさざき)という諡号には、雄略の「大泊瀬」の小型という意味と仁徳(おおさざき)の子孫という意味以外にはなんの意味もない。この天皇はいなかったと見られてもしかたがない。ただ、河内王朝の近い将来の交代のために作られた人物というのが大方の見方である。
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系図を見ればこうなっている。武烈は仁徳の孫のオケ・ヲケ王(仁賢・顕宗天皇)の子供である。しかし奇妙なことから播磨で発見されるオケ・ヲケ兄弟の存在もまた極めて疑わしい。彼らの姉の飯豊青皇女などは「あおばずく=ふくろう」という意味の名前で、ふくろうとはつまり夜うごめく生き物=いんばい女というネーミングで、ひどいものである(過去分析済み→飯豊青皇女)。
これらの一群はもちろんあとに継体大王が越前から登場してくるための前振りだけであり、倉本はしべて不在、創作の人物と書いている。まずもってそのとおりであろう。このことは随分前から筆者も書いたつもりである。読んですぐにオケ・ヲケの発見話はどこかで似たような話を読んだなと気づいた。
さてそれはさておき、倉本はまた、雄略大王は即位から23年で死去したことになっているが「六世紀初頭まで在世していた可能性がある」と書いている。その理由は倭王武が建元元年(479)に大陸の斉(さい)に遣使を送った可能性(氣賀澤保則「倭人が見た隋の風景」)、そうすると502年の梁(りょう)への遣使もまた事実だったと考えられるためである。武はどうやら6世紀初頭まで生きていたようなのである。
もちろん倭王武=雄略であるという前提の話である。
筆者はもっと過激なことを考えている。
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古代の天皇(実際には大王であるが)が、地方有力豪族の持ち回り制であったことは、倉本ならずとも歴史学者の多くが認めているところである。これははっきりと言うならば、「天皇氏」というものはまだなかったという意味である。それを現天皇家が独占できるようになったのは持統天皇以後(特に持統の孫である文武)からだと言えるのだ。ちょうどその持統の即位の直前から宗像氏が天武外戚となり、考古学的には福岡の海の中の沖ノ島で太陽神を祭る祭祀が始まる。そして伊勢にはアマテラスが祭られる伊勢神宮も成立した。そして伊勢神宮へ参拝した天皇が持統以外記録にない。明治天皇も大正天皇も昭和天皇も伊勢にも沖ノ島にも参詣していない。これは有名な話である。要するにアマテラスが国家の神とされた持統の時代だけで、伊勢神宮は今もなお国家の宗廟といわれているわけである。それは明治~昭和の軍閥の受け継いだイデオロギーが、敗戦後もなお日本人をそう思い込ませているのであって、戦後教育を受けたものでそれを信じている者の、今となってはすでにわれわれ現代人の責任である
。
天智天皇まで、記紀の記事には、中国的な天命天皇はひとりも存在せず、ただ天孫ニニギの子孫という一系構造を受け継いだものとされている。その思想を、さて、どこの大王家だったかもわからない『宋書』の倭五王に当てはめようと学舎は懸命になってきた。ところがどうにもうまくあてはめられない。記紀の天皇人数のほうが多いからだ。五人しかないなずなのに天皇は何人も居る。どれがどれだかわからない。当たり前である、まず倭五王が大和の倭国の王だったかどうか宋書には記載がない。一方『日本書紀』の大和の天皇は、応神から武烈まで架空の人物なのである。
いや、そればかりか継体、欽明、広媛、敏達、聖徳太子などなど、これが一切合財全部創作の人物だった。宋書とつきあわせるほうがおかしいのだが、唯一、『日本書紀』の最初の記事になった雄略大王だけは、どうにも倭王武に合致するようであり、少なくとも「ワカタケル」という名前の大王がいたらしいことは鉄剣銘文で動かせない。雄略は「ワカタケ」なのでこれもどうかとは思うが。
雄略が武だったとして、6世紀初頭まで生きていれば、継体になる前のオオド王と同時代に生きていたことになる。ところがこのオオドがまた想像の人物である。彼が登場するわけはもちろん息長氏と三尾氏から出てくるという前提のため。天武のために書かれた人である。広媛も、神功皇后もそうである。しかしここで隅田八幡鏡の銘文が邪魔してくる。百済の武寧王(島王)がオオドに送った鏡・・・。
継体はもしいたとすれば誰かは知らないが天武の先祖ではあろう。しかし天智の先祖かどうかわからない。二人に血縁はなかったはずである。これは年齢問題などがあるが、『日本書紀』の文献記事はみな捏造で、信用できない。天智がもしか蘇我王家の忘れ形見・・・あるいは逆もある。天武のほうが?
天智宰相には蘇我倉石川の子孫が多い。ま、これも信用できないが。
倭五王が大和の王権だったかどうかは問題だが、そのあとを継いだのは継体などではなくまず蘇我本家しかない。だから欽明などはいない。ならば敏達もいない。ならば広姫には嫁ぐ相手はいないのである。だからここはまったくの虚偽であろう。
息長の血脈であることが大事だった。それは天智の息子・大友を始皇帝の息子胡亥をモデルにしてあるからだ(遠山美都男)。
天智はだから天命王初代=始皇帝という役どころなのである。
それをひっくり返すのが劉邦=天武という構図なのである。
そういうことだからわれわれは、いくらでも解釈を広げていくことになる。そうしてもいいように『日本書紀』は書かれてあるのだから致し方ない。つまり応神~天武も限りなく虚構となる。
その前も当然嘘八百なのだから、全部がうそ。持統だけ確かと。
神話などは持統=アマテラスで作られているのだからもうファンタジー小説である。
ちなみに最初の武烈のような書かれ方をした例
暴君ネロ
暴君煬帝
妊婦の腹割き・・・『呂氏春秋』『太平御覧』
生爪はぎ・・・『延喜式』「国つ罪」、『古事記』スサノヲ
酒池肉林・・・『古列女伝』『芸文類従』殷の紂王
なお、倭五王も天皇も、飛鳥時代までは互いに血縁がなかった可能性が高い。倉本
それまでは、大和や地方の豪族から代々交代して大王が選出されていた時代だったのである。つまりそれまではというのは蘇我氏以前という意味であろう。蘇我氏は世襲した最初の王家だ。それほど強力な政権だったわけである。
それをひっくり返してもいいと書くために、『日本書紀』は神話から神武から2000年分もの大変な労作をひねり出したのである。
それはそれでそのクリエティビティ根性には脱帽するしかない。
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