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[転載]藤原宮子

●藤原宮子から見た、文武天皇との関係

697(文武1)年8月20日 文武天皇の夫人となる。(文武天皇15才のときです)
701(大宝1)年、首皇子(後の聖武天皇)を出産。出産後首皇子と面会することは無し。
723(養老7)年、従二位。
724(神亀1)年2月4日、子の首が即位(聖武天皇)。
2月6日、 天皇は正一位藤原夫人(宮子)を大夫人と称する勅を発す。
3月22日、長屋王らがその称号の令に違反することを指摘し、公式には令通り「皇太夫人」とし、口頭では「大御祖(おおみおや)」とする詔を発する。
737(天平9)年12月27日、皇后宮で玄の看病を受け、正常な精神状態に戻り、偶然行幸した聖武天皇に初めて相まみえる。
754(天平勝宝6)年7月19日、崩ず。
760(天平宝字4)年12月12月 太皇太后(宮子)・皇太后(光明子)の墓を山陵と称し、忌日
(7月19日・6月7日)を国忌とする。

文武天皇は即位と同時に藤原宮子と結婚しています。子供が生まれたのは、4年後ですから、本当の夫婦関係が暫くは無かったのかもしれません。となりますと、本人の意思は無視されたことになります。
文武天皇は707年7月15日に崩御しています。首皇子が生まれて後、6年で亡くなっています。流石に、次の天皇は、文武天皇の子供である首皇子(7歳)というわけにはいきませんでした。しかし、その後の歴史の流れからしますと、藤原氏としては、首皇子が成長するまで、元明天皇ということになったと思われます。
707年7月 元明天皇 即位 (47歳)元明天皇は文武天皇の母親です。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page940.html

●略伝 697(文武1)年8.20、文武天皇の夫人となる。701(大宝1)年、首皇子(後の聖武天皇)を出産。これ以前から「人事を廃し」(続紀天平9年12月条)ていたため、出産後首皇子と面会することは無かったという。723(養老7)年、従二位。724(神亀1)年2.4、子の首が即位(聖武天皇)。その直後の2.6、天皇は正一位藤原夫人(宮子)を大夫人と称する勅を発するが、同年3.22、長屋王らがその称号の令に違反することを指摘し、天皇は先勅を撤回、公式には令通り「皇太夫人」とし、口頭では「大御祖(おおみおや)」とする詔を発する。737(天平9)年12.27、皇后宮で玄(げんぼう)の看病を受け、正常な精神状態に戻り、偶然行幸した聖武天皇に初めて相まみえる(続紀の記事によれば、聖武天皇はこの時まで生母の顔を見たことがなかったという)。754(天平勝宝6)年7.19、崩ず。火葬される。760(天平宝字4)年12.12、太皇太后(宮子)・皇太后(光明子)の墓を山陵と称し、忌日(7月19日・6月7日)を国忌とする。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/miyako.html

● 西暦700年頃、九海士の浦という小さな漁村で生まれた宮子という女児は大きくなっても髪の毛が生えませんでした。ある日、母親が海の底から小さな観音さまを拾い上げ、お祭りし、願をかけると不思議にも娘に髪が生え出し、日に日に長くなりそれはもうすばらしい黒髪の持ち主となりました。
ある日、この黒髪を燕がくわえて奈良の都に飛んで行き、藤原不比人の屋敷に髪で巣をつくりました。当時は髪が長い程美人であるとされていましたので、この髪の毛を持つ娘を探すこととなりました。そして、探し出された宮子姫は不比人の養女となり文武天皇の妃となりました。
宮子姫は自分を幸せにしてくれた観音様をお祭りしたいと天皇にお願いし、立派なお寺を建立しました。これが、道成寺です。
http://www.aikis.or.jp/~okada/si/menu_si.html

●大宝元年(701)、文武天皇はその夫人の藤原宮子の願いを受け、道成寺を
お建てになりました。宮子は、道成寺の言い伝えでは「髪長姫」とよばれる
村長の娘であったとされます。この言い伝えには賛否両論があり、色々な研
究もなされましたが、宮子の人生には今も多くの謎が残されています。
ここでは道成寺に残る『宮子姫伝記』という絵巻に従って紹介しましょう。
今から1300年前、九海士(現在の和歌山県御坊市湯
川町下富安)の村長に娘が生まれましたが、髪の毛が
全く生えませんでした。時を同じくして、九海士の入
り海に光るものが現れ不漁が続きました。髪の無い娘
の母が海底に探りに行くと、小さい観音様が光り輝い
ていました。
命がけで海底から引き揚げ、毎日拝んでいると、
娘にも髪が生え始め、村人から「かみなが姫」と
呼ばれる美少女に成長しました。
その姿が都人の眼にとまり…
かみなが姫は藤原不比等の養女として奈良に召し出
され、宮子姫という名を貰い、宮中に仕えることと
なりました。
宮子姫は、その美貌と才能を見込まれ、持統天皇
十一年(697)に文武天皇の夫人に選ばれました。
宮子姫は、黒髪を授けてくれた観音様と両親を
粗末な所に残してきた事を悩んでいました。
文武天皇は宮子姫がご恩返しをするための寺を
建てることを命じ、大宝元年(701)道成寺が
建てられました。
http://www.dojoji.com/kaminaga/kaminaga.html

●かぐや姫の物語、すなわち、竹取物語において、かぐや姫に求婚して失敗する五人の貴公子については、モデルにされた人物が歴史上に存在し、それらが、多治比嶋(たじひのしま)、藤原不比等、阿倍御主人(あべのみうし)、大伴御行(おおとものみゆき)、石上麻呂(いそのかみのまろ)であることは、江戸時代に加納諸平が指摘して以来もはや、ゆるがぬものとなっている。しかし、主役の「かぐや姫」や「竹取翁」については、歴史上にモデルと思われる人物が見受けられないので、この物語は、五人の貴公子、中でも藤原氏を揶揄するために、藤原氏を憎む氏族の人によって書かれたものと考えるのが一般である。
 しかし、私は、かぐや姫のモデルを文武天皇の夫人藤原宮子、竹取翁のモデルを大納言紀麻呂(きのまろ)と考える。宮子は藤原不比等(ふひと)と賀茂比売(かもひめ)の子とされているが、梅原猛氏は、宮子は実は紀伊国日高郡の海人(あま)の娘であったとする。このように、宮子の出自を海女(あま)とし、その流れの中で彼女の生涯を追ってゆく時、それが、物語の中のかぐや姫の持つ属性やイメージと一致することを論証する。その上で、彼女を紀伊の辺里から発掘した紀麻呂(きのまろ)こそ、かぐや姫を竹の節の間から発見した竹取翁であることを見る。
 そして最後に、竹取物語の作者としては、僧玄(げんぼう)しか考えられないことを論ずる。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/kaguyahime.htm

●道成寺という寺と、説話が結びついて、道成寺説話として登場したのは、文字に残されている点では法華験記(『大日本国法華経験記』)をはじめとするが、『古事記』にも、その道成寺説話的な物語を見ることが出来る。
南方熊楠は、「谷本博士は『古事記』に品地別命、肥長比売と婚し…中略……とあるを、この話の遠祖と言われた…中略…この肥長比売は大物主神の子か孫で、この一件すなわち品地別命が彼の神の告げにより、出雲にかの神を斎いだ宮へ詣でた時のことたり、この神の一族は蛇をトーテムとしたから、この時も品地別命が肥長比売の肌に彫りつけた蛇のトーテムの標か何かを見つけて、その部族を忌み逃げ出したことと思う。」(南方熊楠著『十一二支考』「蛇に関する民俗と伝説」の内、〈十・蛇の変化〉所収)。
この異種である部族は、印度におけるドラヴィダ人のナーガ族のように賤民や不可触階層になったものとは、全く違う存在であると考える。
この一文より推察されることは、『古事記』に仏典からの影響があったかどうかは別にしても、日本に蛇をトーテムとした部族が存在し、その女との婚姻も行なわれることがあったということである。
従って、大和朝廷によって征服(融合?)された部族国家も、その自治権や信仰まではうばわれずに、それぞれが独立して存在し、大和朝廷は、それら部族国家群を、少しづつ思想的にも自治権においても、侵して行ったということを考えることが出来る。
またこの話は、大和朝廷の一族に属する若者が、成人のための修行に出て、異部族の女と目交い、その信仰を恐れて逃げ出した話ともとれよう。
『古事記』に載せられた話は、ホムチワケノ王の物語として、「一皇子の奇蹟の回生譚という性格だけではなしに、神秘的な出生を持つ皇子の変身と聖婚への過程が語られている。」と記紀研究者の吉井巌は論じる(「天皇の系譜と神話 ニ」)。
更に吉井巌は、ホムチワケノ王とホムタワケノ王(応神)、ホムツワケノ王が同一で、始祖伝説にちかいものと論述する(「天皇の系譜と神話 ニ」)。
そうであるならば、挿話としての『肥長比売譚 』も始祖伝説につながる、すなわち大国主の国譲りに結びつく伝承とみなす事が出来ないだろうか。
品地別命ホムチワケノ王の奇蹟の回生譚には、『肥長比売譚 』が必要だとは思えない。
話のつながり方が唐突で、出雲が出てきたから、ココにでも入れておくかという感じで挿入されている。
そこでの展開は、ホムチワケノ王がヒナガ比売から逃げ出し、ヒナガ比売は悲しんで、海上を光で照らしてホムチワケを追い掛ける。
ホムチワケノ王はヒナガ比売を恐れて、舟もろとも山越して大和へ逃げ帰った。
出雲からどうやって舟を引き上げて、大和へ帰れたのだろう。
それまでのホムチワケノ王の唖を直すために旅たった国巡りなど丁寧な記述から、ここでは全てが省かれている。
道成寺の建立譚にカミナガ比売が登場し、ホムチワケノ王の流離譚にヒナガ比売が登場する。
また、カミナガ比売の名は応神・仁徳の逸話に登場する。
ニニギノミコトに嫌われた醜女が、大山津見神の長女のイワナガ比売
此の相似形には、なにかつながりが深く考えられる。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok3.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok4.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok5.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok6.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok7.html

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典


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