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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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神武天皇はアレクサンダー大王から作られた/日本神話の虚構と構造

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神武天皇

諡号 神倭伊波礼琵古命 かんやまと・いわれひこ・の・みこと
始馭天下之天皇 はつくにしらす・すめらみこと

生前名 若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さの(ぬ)のみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)

出身地 不明

渡来地 北西九州

中継地
1肥後人吉市→椎葉村→高千穂町→日之影町→美々津浜→豊後水道→福岡県遠賀港→愛媛県道後→広島県福山市→岡山県吉備国→播磨国→摂津国→河内国→紀伊熊野灘→大和国磐余
   
2人吉→水上→西米良→椎葉→高千穂町→美々津浜→

3人吉→五ヶ瀬→西米良→日向峠→西都原→持田→日向たかなめ(現高鍋町)=鷹の目→美々津浜→
 
4人吉→鹿児島県高千穂峰吾平(あいら)周辺→都城→高千穂町→美々津浜→



磐余とは?
地名磐余は「岩が割れた土地」天の香具山東麓地域
磐余彦は=岩から生まれた男=岩生説話=孫悟空。
話の骨格 アレクサンダー大王東征伝説の流用
モデル  九州の北西部から南下してやってきた中国系江南民族=倭族と在地縄文海人とのハイブリッド倭人。いったん遠賀川の岡田宮に寄港した理由は遠賀川の半島系倭人と合体するため。そこから宇佐を経て同族のいる吉備を目指す。吉備で王となって大和へ向かう。

このルートは考古学では貝輪→貝釧→弧帯文→弧文のいわゆる「貝の道」に合致する


ルート
従ってこの伝承のモデルとしては武内宿禰の葛城氏、あるいは紀氏、あるいは阿多隼人、熊襲。紫金山古墳、宮山古墳、淡輪古墳群、紀州の紀国古墳群、京都の物集女古墳群などの被葬者が最もふさわしい。

あくまでも始祖王伝説を作っておく必要性から、『日本書紀』β群記事として文武朝以降にひねりだされた空想小説でしかない。


系図 

イメージ 1


 すべては初代持統天皇から遡って『日本書紀』は作られいる。持統=アマテラス、藤原氏の整合性が大前提であるので、あとから付け足された神話と神武~応神までは虚構である。仁徳からは古今伝授の口伝によってかろうじて記憶された残骸をコラージュしてある。そして雄略前半はほぼ真実。後半~継体は虚構、蘇我氏真実、乙巳の変~聖徳太子~壬申の乱~天武即位までは政治的虚像である。

合議制内閣が復活した持統朝以後において、無視できなかった連合氏族たちの伝説の断片を借りて、そこに中国の史書プロットをそのまま転用し、外見だけはあらましに史書の体裁を整えてはあるが、所詮、妄想の書物が『古事記』『日本書紀』である。大和のための歴史書に過ぎず、失笑ものである。

真実と思えるものはわずかで、大半は虚妄の背伸び記事で満ちている。神武紀は特にSFファンタジー小説の傑作。神話は体裁は神話に見えるが、8世紀の政治性が満ち溢れており、アマテラスを持統とし、渡来人をスサノヲ、敗者をオオクニヌシ、帰順者を天照国照彦天火明櫛玉饒速日として代表させ、伊勢信仰によって国家を統一しようとした懇請はありあり。しかもその政治性はすべて藤原正統のために書き上げられている。天孫から続く永遠性の死生観を中心にして、神武~天武までが切れ目なく続いたかに見せてはあるが、神武から崇神へのつながり、崇神から応神、応神と仁徳の間、武烈と継体の間、継体から蘇我王家の間、天智と天武の間に、それぞれ血統の破綻、矛盾、強引さが満ち満ちてしまい過ぎた。

崇神から仲哀までは完全に虚構である。応神と仁徳の間に断裂。これはひとりの伝説を二人にふりわけたためである。神功皇后記事は応神のためにあり、崇神から応神をつなぐための中継ぎで、さらにあとの継体以降の息長系譜正当性のための強引な挿入である。天武壬申の乱が滋賀県坂田郡を基点として開始されているのも、息長氏懐柔策である。

天武の多氏・尾張氏寵愛は、ひとえに海人政権をとりこむための作為であり、特に多氏などはこのときにはじめてできあがる氏族であろう。九州や東国とは血縁すらなく、これ以降の祭祀者派遣によって在地像族を取り込んで行ったことで多数の氏族を抱えた謎の氏族に仕立て上げてある。『古事記』もまた成立はかなりあとの時代で、文武朝であろう。すべては持統の女帝傀儡天皇を認めさせるための茶番劇である。

さらに持統即位もまた、中国の則天武后即位の前とされているが、後だった可能性が高い。武后が初めて中国の女性天子となったことこそが、持統持ち上げの最大の契機である。儒教国家では女帝は認められなかったからだ。だから卑弥呼・臺與時代にあたり崇神の時代に女帝がかけなかった。そこでしかたなく、三輪王家から河内王家へ切り替わるところに神功皇后を入れざるを得なかったのである。女帝ではなく、天皇の母親というあいまいな女王として挿入したのは苦肉の策である。

中国の読者に耐えうる内容にするには
1 漢文編年体
2 女帝はいない
3 しかし中国とは違って易姓革命はなかった共立国家=万世一系
4 流血は皆無(乙巳の変だけは原爆投下観念と同じで必要だった)
などなどの諸条件を想定している。

以上が『日本書紀』の全貌である。
始祖王神武とは葛城氏の始祖だったと想定できる。

合議制という吉備王家独自の共立もちまわり王権は倭五王直前まで続き、倭五王たちにも実は血脈の断裂が見受けられるので、ここも輪番制だったのだろう。それを武が切り開き世襲制にむかおうとしたところでクーデターがあり継体らしき渡来王家が大和に侵入したと思われる。これをひっくり返したのは百済と深くかかわった蘇我氏である。蘇我氏は武の世襲制だけを残して大和を安定させたが、飛鳥時代中盤に野望を持った孝徳に暗殺されて終焉。孝徳は天智に裏切られて終焉。天智は天武に裏切られて終焉。最後に持統女帝を共立する。あたかも女王卑弥呼の共立のように。そして政治的実権は中宮宮子を聖武に嫁がせた藤原氏が専横した。これに反発したのが宮子と同じ海人族氏族の県犬養氏から出る橘氏である。









以下はおまけ記事でミステリー小説です。

おまけ1
倭人とラピタ人
縄文の海人族は海洋民族である。
これはケルトなどの基層を作り出すラピタ人の血脈と、オセアニアで発見された小人族(ホモ・フローレンシス) の痕跡がまじっている。

こうした伝説や石造物の持つ話の類型からアレクサンダーの南洋や南米遠征伝説は生まれ出るが、すべては海の民たちの想像力であろうし、倭国の神武東征にもまたそれは影響している。逆に神武東征神話が逆輸入されてアレクサンダーのおひれになっていった可能性さえ考えられる。
いずれにせよ南米最南端に倭人種の痕跡は確かにあったようである。




イメージ 2
    



おまけ2
日本神話の構造

水平思考と垂直思考の渾然一体が記紀神話の特徴である。
神のいる天上世界から天つ神が降りてきるさまが天下りである。
巨大な神が降りてくることを「あもる」と言う。
「天降」である。ウルトラマンのでかい足が空からにょきっと出たと思いねえ。


そこから大王の名前も「あめの」「あまの」「足 たらし」などとなった。
「たらし」は空から雨が垂れることと同じ意味である。それを同じくだらりとたれる「帯」とも表記した。

「あまたらし・なかつひこ」などである。


「おきなが・たらし・ひめ」には息長氏の系譜から降りてきた天孫女性という意味がある。


その神の大半が太古的な災害神・自然神・宇宙神で、現代まで一歩も変わってはいない。これを道教で宇宙原理とした=摂理。

すなわちあらゆる事象と事物がこの摂理の天命によって動かされ、再生を繰り返すという死生観が神道である。

この永遠に繰り返すメビウスの倭のような思想を表現するのに、古代人は蛇とか渦巻きを用いた。それはケルトなどの概念にそっくりで、世界的なデザインになった。


これはご理解いただけるはずだ。




また、蛇やセミやカニのような生き物は脱皮して大きくなる性質があるが、それを見た古代人はこれは蘇ったと感じた。蘇りがあるのなら、われわれも再生できる。生まれ変われるとなった。そこで人が死んだ跡も、霊魂が戻るのだから肉体を腐らせてはならなくなった。ミイラが生まれた。水銀や弁柄で死体を腐らせないようにした。でも蘇らなかった。

※古代エジプトのミイラに習って、ソヴィエトではレーニンの死体をミイラにした。ついこのあいだの時代である。北朝鮮でも金日成がミイラにされた。人間の考えなどはさして進化していないところがあるといういい冷笑・・・いや例証である。苦笑
しかし社会主義者たちっていったい・・・?



祖霊が戻らない。ではどうするのか?考え方を改める。
祖霊は子供の姿で戻るのだ。その子供は特に夭折した幼児に戻ってくる、となった。
だから幼児の遺体を甕棺に入れ始める。やがて大人も。最後はこれを家の入り口埋める。家の事は祖霊は覚えていて戻りやすい・・・。これはそのままお盆の送り火と同じ発想だ。要するにそういう儀礼は古代人から変わっていないのだ。もちろん迷信である。


祖霊は山の頂上に戻る。だから墓も山に似せよう。古墳時代である。
山には蛇のような神がいる。それが祖霊だ。とぐろを巻くから三輪の神と呼ぼう。これがまたつい最近まで続いたのであるから驚く。奈良では今でもそうである。


弥生時代の貝輪のデザインには琉球のゴホウラ貝やイモガイの断面が使われてきた。それを北部九州人たちは装身具、魔よけとした。渦巻きがあるからだ。その渦巻きこそが永遠の形をしていた。それが摂津までいって銅製釧になった。紫金山古墳。

大和に入ってこのアクセサリーの渦巻きはやがて象徴的デザインとしての弧文を生み出した。それより先に吉備では弧帯文となる。それが纏向に入る。神殿の魔よけとなり、祭祀用土器にも取り入れられる。同じ物が吉備と出雲から出る。これが連合体の印である。

このデザインはやがて王族の石棺に張り巡らされて魔よけになった。肉体を食い荒らす魔物をよけるために。九州にこれが入ってなぜかそこに×がつけられた。それが直弧文である。こんどは大和に殺された在地王が蘇らぬように。あるいは在地が大和から来た支配者が蘇らぬように。封印した。



この直弧文は、つまり大和王権をいかに地方が嫌がったかの証になるだろう。



こうして「祟り神」の観念が生まれた。





以上、目から鱗は落ちましたか?
面白かったですか?
楽しんでいただけたら、筆者にとって、こんなうれしいことはありません。
『日本書紀』のうそに納得されましたか?


ではクリックお願いします↓

次回から、またまったく違う記事を考えてまいります。お楽しみに。ぼくが一番楽しんでいますがね。



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