書き忘れ。
欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)
- 綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
- 安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
- 懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
- 孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
- 孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
- 孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
- 孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
- 開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)
大和朝廷以前の大和の王の伝承から作られた九州由来王である神武天皇のあと八人を欠史八代と文献史学ではいい、それらはみな時間調整のための空想の人物で不在王というのが大方の定説である。
もちろん神武同様になんらかのモデルや伝承もあったかも知れぬ人物像であろうが、記事がどれも即位と死去と諡号解説だけで、流した書き方になっている。
そもそも、東アジアに対して国として打って出るための史書が記紀であるから、特に、八世紀の成立時には、唐との独立性を謳いあげ、くるなら来て見ろという国家アイデンティティを表明する必要があって、中国の歴史のような営々とした太古からの独自性や、天命国家たるゆえんを書く必要性があった。これはどことなく今の阿部内閣の右より強硬姿勢による中国やらとの並び立つ国家像の創出にかなり似ている。いや、そっくりだといってもよかろう。
聖徳太子などはその最たるものである。
太子の時代、中国の皇帝は悪名高いとよく勘違いされる煬帝であった。しかし彼は実は名君である。ただ史書が其の直後に皇帝が入れ替わることを正当化するために、極悪非道に書いただけである。これは雄略・武烈紀に取り入れられた手法・パターンである。
煬帝が日本に使者を送って国書を持たせた人である。彼には倭国に求めるものがあった。それはおのれのあやうい立場を救う、諸外国からの朝貢である。これは歴代の王がみなそういうことをしており、魏志や隋書や宋書でも構成はみな同じである。蛮族国家が国書を贈ってきた、朝貢にはるばるやってきた。とまあとりあえず書くのである。しかし本当に来たかどうかなど、知れたものではないわけだ。ちょっとびっくりしましたか?
あなたは記紀は信用できないが、中国史書なら客観的に諸外国を俯瞰して書いていて信用できると考えてきたはずです。けれどそうでもないのだ。
大陸の政治状況は、常に外敵にさらされており、わらをもつかむ思いで、実のところ中国皇帝はいつも冷や冷やしていた。と考え付くと、なるほど、じゃあ、史書も怪しいなあ?とうすうす感じはじめるのではないでしょうか?
所詮、記録は記録である。文献は人が書く。史記のよに個人がものした(しかも幽閉されて)史書はまあまあだが、これが国が国の威信をかけて書き上げた国史などに、まあ真実が書き込まれたはずはない。
聖徳太子の実在は記紀・持統政権には必要だった。だから聖人とされたわけで、これは言うならば始祖王伝説であり、周王みたいなものである。当然かっこいい、慈悲深く、神秘的で、超能力があり、仏陀のようだ・・・となる。
しかし神武もそれでいいけれど、そのあとのつなぎ王たちにはただ、長生きして数百年間をうめておいてもらえれば格好はつく。つまり国家がいかに古くからあったか、それが中国とそん色ない長い時間続くこと、これだけの存在である。
和風諡号はそういう仕上がりになっている。
数種類の系統(ねこ・みまつ・いり・・・)の天皇が入れ替わりながら天皇を相続する。それらはみな「おおやまと」の王で、「神」つまり天孫の直系ばかりだったよ。となっている。
なぜ神武を九州からやってくることにするのか?
それは言い換えれば、なぜ天孫降臨は筑紫の日向でなければならなかったか?という答えになる。
飛鳥・大和王権にとって筑紫はいったいどんな存在だったか?特に記紀が作られた8世紀になってもまだ?ということである。
なぜ筑紫に気を使うのかといえば、当然、筑紫が大和よりも古い王権だったからにほかなるまい。大和はそこの弥生時代を起源としながらも、立地から、独自に日本海を通じて北魏や朝鮮との交流を持ち、独自の外交路線を作り上げていかざるを得なかった。瀬戸内海航路の末端に穴門という関門があったからだ。その狭い通路をふさがれると、8世紀の大和朝廷でさえ容易に半島への最短コースである玄界灘へは出られない。6世紀に磐井が敗れても、代わりにそこには筑紫物部氏が入っている。物部氏は当然、大和で滅ぼされた守屋の子孫である。うらみがある。
大和は気を使わざるを得ない。いうならば母屋、親元、実家が筑紫である。これはなかなかいつまでもやっかいな目の上のたんこぶ。筑紫には迎賓館である大宰府鴻臚館があり、これを独占されたらお手上げである。だから都でかなりの重要な人物をあえておくしかない。菅原道真や藤原広嗣の左遷を、一元的に祟りだけで観ていたらだめなのだ。彼らはもちろん都では有能な人材だったのである。あえて彼らを送り込んだのは、それだけ期待されていたからだと、なぜ考えないのか筆者には不思議である。
そんな有能な人材を左遷したら、在地ととみに反旗をひるがえすかも知れない?そこが浅いというのだ。そういうのは史書のかきっぷりが彼らを悪人や祟り神に仕立てていることの、右から左の受け売りでしかない。それが政権にとって都合がいいからそう書いてあるだけなのだ。実は有能な人材で、朝廷を裏切らない人だから信頼して大宰府に送ったのである。
だが彼らにとってはそれは迷惑なことだったに過ぎない。だから落ち込んで死んでしまったり、乱を起こしたことにするには非常に都合がいいのである。どちらにでも表現できた。ちゃんとやればよく書かれた。そうではなかったから祟り神や乱の首謀者になったのだ。政治とは取捨選択である。すべては結果と都合によって書き方が変えられる。
大和は中世になってもまだ筑紫大宰府に気を使っている。それをやっつけたのは武家初代清盛である。
古い筑紫の影に公家たちはおびえていたのである。なぜ?弥生時代の実力を知っているからだ。
神武の古墳や神社は、実は明治時代の軍部皇国史観によって、ばたばた橿原あたりに決めたり、造られている。京都の平安神宮などと同じ維新直後の造営である。え?知ってましたよね?当然。まさか大昔から神武の橿原神宮があったんだなんて迷信してませんよね?調べてください。
さて、欠史八代の和風諡号をながめて、なにか気づきませぬか?
いり、ねこはあるが?
「わけ」がないでしょう?
はい、わけは応神(ほむたわけ)からになってますね。ほら、切れているでしょう?
あのね、「ほんまにたわけ」じゃあないですよ。ほむたわけ。
誉田別ですね。応神さん。
往古、神武から応神までの古い伝承が存在したのであろう。そして仁徳から武烈の記紀造作がここにひっつけられた。無理やりに。
そういうのは遠山さんである。そうかも知れない。しかし違うかもしれない。
むしろ、神武~応神は『日本書紀』のあとからばたばた考え付かれたものかも知れない。ま、それにしても「みまつ」なんてあきらかに百済王家の名前でできている。
「おおびび」って・・・。みたいないい加減な名前ばかりである。おまけに第二代綏靖さんなどは『古事記』を書いた多氏の出身ですからね。神武さんの子供が神八井耳とこの人です。それが南九州現地妻の子供を暗殺する。葛城系統のカットである。
そういう前振りばっかりが繰り返されできあがったから、あれ?また同じことを書いてあるぞ・・・と感じるのだ。
耳が遠くなったじいさまが、何べんも同じことを言いますが、ああいう繰言でできている。何度も何度も同じことをしつこく書く。そう、これは刷り込みの常套手段ではないですか?
耳にたこができる・・・。
そうです九州の王たちの耳にたこをつくるほど繰り返す。
だって彼らは「耳」の氏族ですから。耳にわっかをつけている王族。つまりそれは欠場耳飾=海人族しかありえませぬ。
じゃあ、鼻にわっかをつけてた氏族も?ウシ。
みみたり、はなたり、目はやんめ、あたまのよこちょうにはげがある~~~
それが大和朝廷。ジョークです。
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