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秀吉の職能民優遇の裏側の歴史


昨夜はBS・TBSで「秀吉の巨石切り出し実験」番組があって、それから寝ようとしたら面白いのが続き(ブラタモリ金沢など)、最後は延々と大英博物館のエジプトミイラの話が始まってしまい、朝五時半から起きて、もう眠くてしょうがないのに、観てしまった。で、今朝は6時に目覚めて昨夜読んだ本が気になってもう・・・




秀吉が城を築くために近江の穴太(あのう)衆とか黒鍬(くろくわ)組とかをいくさに常時連れていったことは、よく知られているが、あの有名な墨俣一夜城とか大阪城の石組みの巨石が、小豆島から切り出されていたのは知らずにいた。そういえば讃岐は花崗岩の産地だったなと思い出し、物部氏の集団が阿波・讃岐から最終的に播磨の揖保郡に凝灰岩を見つけて石棺に使ったこと、そのために揖保郡・龍山には秦氏や物部氏の居住地ができることは、古代史ではよく知られている。

そういう古墳時代からの職能民たちは、やがて中世の山城や、戦国時代の築城でまた活躍する。それを秀吉はよく知っていて、平穏なときから囲い込み、手なづけていたわけだ。しかも重たい石を海や川で運び、荷揚げ・荷おろしの最適な浅瀬の良港を知り尽くしていた水軍をも手なづけていることの、計画性と低い視線にも驚かされる。秀吉は百姓の身分だが、父親はアミで、各地を放浪していたし、おそらく渡来系氏族出身だろうから、職能にも詳しく、自分でもいろいろ転々とアルバイト人生を送ったことだろう。それがそれまでの武家には考え付かなかったさまざまな画期的人材使用法と、度量衡による製品の規格統一などの近代的経営術を考え出させたのだろう。


非常に示唆に富み、古代史にも応用可能な内容だった。なんとなれば小豆島と大阪は目の前だが、古墳時代に有明海の宇土からはるばる摂津や近江まで馬門石を運んだ阿蘇の氏族など、比べ物にならないほど古く、技術的にも劣っていたはずなのだが、なんと6トンもあるようなピンク石石棺をちゃんと運んでいるので、さほどは驚かずに見たのも確かである。


継体大王の今城塚古墳へは、近年、熊本と高槻の協力でその実験が再現され、筆者も宇土の阿蘇ピンク石切り出し露頭へも何度か見に行った。紀行にしてあるのでまた読んでいただきたい。

物部氏が小豆島近辺の石をあきらめて竜山へ向かった理由は、それが花崗岩だったからだろう。当時では硬くて加工しずらかったので、よりやわらかい凝灰岩を探したのではないだろうか?

もっとも瀬戸内両岸地域は六甲花崗岩層の山々が地盤を作っていて、その上に火山から噴出した溶岩がかぶさっており、そのために大地震には弱い地層になっている。このあいだの広島の大崩壊などはそのよい例である。

阪神・淡路大地震のときには六甲御影の花崗岩がごろごろと転がって家と人をぺしゃんこにした。ずいぶん前だが岡山でも、台風で巨石が転がってあやうく真下の人家を全壊させかかっている。花崗岩は非常に硬いが、ときに簡単にぱかっと割れてしまうので危険である。


地層や石材については以前からかなり興味があり、もうここを始めた時分から、いくつか記事を書いてきた。そういう視点で歴史を見るという風習がなかった頃から、いろいろ研究してきた。

秀吉が築城した琵琶湖東岸の長浜は、古代には息長氏の拠点であり、伊吹山を越えてヤマトタケルが尾張~筑波へゆく理由のひとつに花崗岩探索をあげている。花崗岩は砂鉄を生み出す石なのである。それは東北なら阿武隈山地(岩手の南部鉄器)、関東なら筑波山、西日本なら吉備(鉄鉱石)・出雲(たたら)・播磨(姫路鋳物師)・讃岐小豆島(サヌカイト)、徳島・広島・山口・愛媛と西日本各地の砂鉄、関西なら紀州熊野灘(真砂)と相場が決まっていた。

石と鉄は大きな関係を持つ。石工は道具のために、鍛冶屋は鋼のために、互いに持ちつ持たれつの組合関係=講を持っていた。黒鍬のような土木山師たちも、鍛冶のための墨を調達する。彼らは秀吉以前からいくさといえば調達に手を貸したが、秀吉ほど彼らを武士と同等に扱い、また記録にまで残した人はそれまでいなかった。職能民はいわば被差別であり、歴史に表立って出てくることはなかったのだ。つまり縁の下の力持ちでしかなかった。海人族を元とする水軍もそうである。源平まで彼らには歴史にでばるチャンスはなかった。だから平安時代にはあの純友の乱を引き起こして反駁してきた。

瀬戸内海の複雑な水流についても、番組ではちゃんと言及していた。つねにここで書いてきたことである。また瀬戸内や河川が高速道路であることもゲストの口を借りてしゃべっていた。すべからく筆者の昔からの持論である。

穴太衆などは平常は石工や棚田の石垣作りなどをしているわけだが、その身分は低いままだった。彼らの前身が、木地師などと同様、近江に集中したのは、天智天皇がここに逃亡避難民としての半島工人=部を多く入れたからであるが、ほかに南河内にも彼らは古くから置かれていた。現代、そうした往古からの技術者がいた場所が、今もなお家内制手工業で有名である。これは伝統というものである。

反面、彼らがいなくなった半島では、そういう技術を伝える伝統が消えてしまい、飲食店や自前の伝統文化を売る店に、職人文化を引き継ぐ老舗が消えたのである。韓国人観光客が日本に来て「全部韓国のまね」だと言ってしまう背景は、そういう悲しい半島の歴史の裏側が垣間見える。なくしたものへの回顧のほうが、彼らには、日本の技術への礼賛以上に心を占めてしまっているのである。ここのところはわかってやらねばなるまい。

こうした民俗学的な歴史は、記紀や六国史には当然出てこない(たまにヒントは火の神として登場はするが)ので、裏側の歴史だと言える。

秋葉神社や愛宕神社は「火伏せ」の神として有名だが、そもそも鍛冶屋の神である。こういう関係は江戸期、平和な時代に仕事が減ったために民衆の間で、勝手に置き換えられ行くものである。だいたいカグ土を祭る。イザナミの「ほと」を焼いて生まれてきた火の神である。「ほと」は女性性器であるが、同時にたたらなども指す。だから継体大王の「オホド」、その父の「オオホド」などはたたらを意味する名前である。また「ひめたたらいすずひめ」などの「たたら」も「ほと」のことになる。「涙流れてほとびにける」などの動詞としての「ほとぶ」は乾く意味で、火力を示す。

「ほと」の語源は「ほてる」であろう。あるいは逆かも知れぬ。神武は「ひこ・ほほ・でみ」であるが、これも穂を稲穂と素直に受け取らないほうが実像が見えてくる。火火である。天照国照彦天火明櫛玉饒速日の「てる」も太陽だけではなくたたらの火だとしてよかろう。武力とはそもそも武器である。それらのひとびとを「もののふ」と呼び、古代には物部と書いたことも忘れてはならぬ。物部氏のステータスは剣である。石上神宮には王家の武器庫があり、彼らが武器管理者だったことがわかるし、播磨の兵庫という地名も、物部氏が武器庫を持ったからである。その播磨の国名は往古は針間で、ここには姫路鋳物師の針工業が発達している。出雲や島根全体には鋼とかみそり産業があり、あのドイツのゾーリンゲンと今も肩を並べる世界最大の鋼産地である(そういえば山葵もそうだ)。輸出量世界一。


吉備といえば備前長船、刀鍛冶だ。日本唯一の鉄鉱石産地だった時代がある。これはほか東北日本海側・北陸越後などもそうだ。金や石油や製鉄産業があり、弥彦神社・唐松神社などは物部氏や縄文製鉄の神であろう。


豊前秦氏は銅氏族だった。田川郡香春岳が石灰と竜骨と銅を産した。山口県の周防などの地名も「あか」から来ている。聖武の大仏の青銅を産出した美弥鉱山がある。

有名氏族は常に鉱床とともにある。



古墳時代の多くの鉄器は、そのほとんどが輸入製品だったが、やがて輸入インゴットから作られる。それを牛耳ったのが葛城氏である。葛城襲津彦(かづらきの・そつびこ)は伽耶の鉄をひとりじめすることで中央の外交官として意見を持った。そして新羅の伽耶簒奪のさいに大いに活躍している。しかし力足りず伽耶が滅びると、大和は鉄インゴットの入手にことかくようになった。それで各地から「刀狩」をやったはずである。ちょうど秀吉や戦時中の軍部のように。それが「ご神宝を見たい」とか「ヤマトタケルの熊襲征伐」に反映している。雄略あたりからの鉄器は、だから百済経由になり、大和と百済の関係は深まるようになる。一方九州では新羅との交渉を開始し、結果的に継体の時代に、筑紫磐井は滅ぼされた。鉄をめぐってさまざまの人間模様が繰り広げられるのが『日本書紀』のひとつの読み方でもある。

出雲荒神谷の大量銅器の埋葬は、想像するに銅から鉄の時代の「神」の変容に起因したと考えられる。銅器では出雲が古代ナンバーワンの産出国。しかし大和の介入で鉄器に目覚めると、銅器は祭器としてしか使われなくなる。しかし銅はかつての神。捨てることも叶わず、結局、土地を鎮魂する祭器として埋められたのかも知れない。あるいは青銅器時代に、大和から簒奪されるのを防ぐためだろうか。それにしては掘り出してはいない。銅器などは地中に埋めたほうが錆びないので、あれは遺棄ではないことは確かだろう。一時的な隠匿か?荒神谷や神庭という地名にヒントがあるのだろう。


石工や鍛冶屋や宮大工などの職能民がみな工人であり、荒神が近江の新羅明神では黒尾神であることが鉄を示している。荒神とはつまり彼ら渡来系工人が祭った神である。それが習合して十一面観音などを作って仏教でも祭るようになった。八面六臂のヒンドゥの神々は、インドで、仏教のあとから生まれてくるが、中国ではそれが密教に変化する。それが日本にくると修験道や真言・天台を生み出した。ゆえに空海が天皇から熊野の入り口に土地をきりひらいたときに、まず最初に地主神としての狩場明神や丹生津媛に詣でるのである。鉱物資源は実は、仏教・密教の貴重な収入源でもあった。空海は私度僧でありながら唐まで行けた。その財力は鉱物氏族たちの後押しのおかげだったのである。密教では水銀や砒素や鉄や金銀などは薬品である。ミネラルである。


石を扱う職能民は分業制である。切るもの、ひくもの、海ではこぶもの、にあげするもの、その切り出す道を開拓するもの・・・。その分業制こそは古代の科学であった。分業する、分化すとは、つまり西洋科学・哲学の基層である。つまり半島工人たちは誰に教えられる出なく科学者だったのだ。しかし残念なことに孔子の儒教はそれらすべてを下に見て差別した。だから医者も科学者もつい最近まで差別され、こきつかわれるままであった。ナチスドイツのV2号ミサイル作製などはまさにそうである。
科学者は戦争にこきつかわれつづけた。それが経済を発展させ、便利な現代社会の基盤になった。女性に便利な道具のほとんどは、いいたくないが戦争から生まれたのである。戦争に反対しながら、あなたがたはその道具を疑いもなく使っている。かつての科学者のようにこきつかって生活している。同じことである。


分業が生んだ氏族がある。石を引く氏族は「ひき 日置・比企・匹 通称蛙」氏、
石垣は穴太氏、穴井氏、鍛冶屋は甲斐氏・寒川氏などなど。船は船木氏・天野氏・木屋氏など。石切は石切、劔矢、青井など。宮大工の聖人が聖徳太子である。鍛冶屋はかぐ土。酒屋は大山ツミ。


苗字はかつて職能を現していた。奈良時代である。区別・差別するために苗字があった。韓国などは今でもそうである。苗字を聞けば先祖がすべてわかった。出身地も。それは渡来を区別するための重要な戸籍製作だったのだ。つまり被差別とは苗字から生まれる。だから天皇には苗字がない。平民も苗字がないのは、この平民等は良民のことで、農家のことである。蝦夷にも氏がつけられた。しかも本人たちが喜んでつけた名前が君侯(きみこ)部などである。「君=天皇の持ち物」という意味なのに。

「きみしま」などは天皇の島、土地である。


「きさい」は天皇の荘園。

だから明治時代に初めて苗字を持ったという家柄は、かつての水のみ百姓ばかりである。まじめに税金を払っていたから差別対象にはならなかったかわりに、一生、子々孫々まで赤貧洗うが如しだった、よく生きてきた。すばらしきたくましさ。尊敬する。


租税を払えないものは肉体労働か海産物か資源を出すのである。海民、海女、漁師、山師、鉱山師、鍛冶屋などなど。これを徴収する氏族が調(つき)氏、木菟(つく)臣氏などだ。

仁徳紀に武内宿禰の家にはミソサザイ(さざき)が、仁徳(おおさざき)の家にはふくろう(木菟)が飛び込んだ、吉兆であるとして武内宿禰の子供に「木菟宿禰」を賜るという記事がある。つまりこれは税調官吏になったということだ。

似たような話が応神紀にあり、武内宿禰とともに応神が気比の大神に参拝したら、気比神は名前を交換しようと言い出し、応神に自分の名(ほむたわけ)を与え、自分は応神の「いささわけ」を名乗ったと。

どちらも「神名の交換」記事である。
帰順と奉公を表している。


この記事はこれまで。

以降、聖武と光明皇后の企みへ。
さらに孝謙女帝の天武・草壁血脈の奪還計画へと続く。
こう、ご期待。
最終的に桓武以後の平安の天皇の皇位継承までいこうと思っている。


同時に、考古学(最近まったく新発掘がないが)的な解釈まで挿入する。よ・て・い。



書くべきことはまだ山ほどある。寝る暇がないわい。

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