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聖武と光明子・光明皇后の策謀 聖徳太子夢殿幽閉


参考文献 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』増訂版 吉川弘文館 2014
より



聖武天皇といえば大仏建立であるが、皇位継承の特筆すべき改革秘話の持ち主でもある。それまで、記紀の記事から想定できる皇位継承条件には、

1 天皇は死ぬまで皇位にある
2 禅定はしないで、死んだら交替
3 そのときまでに立太子させておくが、その年齢は成人乃至はそこそこの年齢
4 基本的に女帝は中継ぎで、結婚・出産はしない

もっとも、この規定も、たかだか雄略~持統までの前例であって、それ以前は持ち回り制である。そもそも「天皇」は天武が死後の贈呈であり、実際は持統からである。いや、天皇と言う氏族の始まりも持統女帝からで間違いがないのである。それまでの持ち回り制は、豪族からの共立と皇女の皇后という条件下で施行され、それもあくまでも『日本書紀』の言い分であり(筆者意見)、「皇后にしても実際は存在せず、すべて妃だった」というのが河内の説である。


文武天皇がまず15歳で立太子したことから3番はすでに例外を認めており、聖武の1歳にして皇太子となるというのはさらに掟破りとなっている。立皇后記事はどれも怪しい。子供を生んでしかも、そのあと何世代か天皇がつづかねば皇后とは呼ばれなかったのであるから、最初から皇后になる可能性は皆無に近い状況を作ってあるのだ。立太子はさらに厳しかったのが当前、なのに『日本書紀』が『続日本紀』になったらもう文武・聖武の例外記事である。いきなり記紀前例は破棄されたことになる。

こうした事例を『続日本紀』が許容している背景には、まずもって藤原四家と光明子の策謀があったか、あるいは『日本書紀』がでたらめであるかのどちらかしかない。どっちもであろう。

二位の地位、右大臣の官職からそれ以上上ろうとはしなかった藤原不比等の娘・光明子(こうみょうし)は。藤原氏からはじめて天皇聖武に嫁いだ女性で、一般には孤児院や療養所などを建設して「慈悲あふれた」人物だとされている。そして聖徳太子を史上最も敬愛し、それに見習って仏教にも帰依し、奇特の女性、ひかりあまねく自愛の母などとされてきた。仏像にまでなっている。


しかし彼女の目的は藤原氏正当性の上乗せ作業についやされもした。藤原四家は不比等の子供たちで構成されたが、中でも藤原武智麻呂との連携は、長屋王殺害までも実行させたとみられる。

そのコンセプトは「藤原氏の権力抗争からの安定」であった。藤原氏には獅子身中の虫県犬養橘家が立ちはだかったのである。この権力抗争から藤原氏を宰相として確立させる正当性が必要であった。

まず立皇后記事が、皇太子の死の直後におかれている。光明子が聖武妃として生んだ子が皇太子と認定されると、すぐに夭折。あきらかにこれは橘氏からの暗殺だろう。するといきなり彼女は皇后になったとある。こんな奇妙な例はない。子供がいなくなったら跡継ぎがないのだから、前例では皇后にはなれないのだ。藤原氏としては娘がまさか皇后になろうとは、最初は考えてはいなかった。しかし皇太子が殺されては、黙ってはいられない。四家全力を挙げて彼女を皇后にしてしまわねば、存亡の危機になる。しかもこのとき、妃・広刀自にすぐ皇子(安積親王)が生まれてしまう。もう大騒ぎである。

さらにあの有名な大事件が勃発する。大宰府の菅原道真が死んだ!そして天神となって藤原四兄弟が次ぎ次に死んでいった。すべて変死である。祟り神道真の、雷神となってのリベンジだと記録は書いた。しかし、もちろんそんな馬鹿なことはありえない。当然、殺されたのだ。橘氏によっての暗殺である。

光明子の藤原による政権独占の夢はとんでもない事態になってしまう。それどころではない。

彼女以前に、宮子が文武に嫁ぐ際 の伝説も、かなり奇妙にできていた。海人族の娘らしき髪の長い美人の宮子は氏の出身もあやしく、しかたなく不比等が養女として
まず家にいれ、そこから貴族に一度出てから箔をつけて文武に嫁ぐのだ。どこかで聞いたような?幕末の薩摩の天璋院篤姫みたいなお話。しかも海人族とは?これは思うに文武の、祖父天武系譜の地固め作戦であろうか。だから不比等が宮子を養女にしてまで嫁がせる話は眉唾物ではないか?その後、光明子も宮子に同情し、会うこともできなかったわが子聖武に会うことの手助けをした?それもおかしかろう?

敵対する天武の血脈が固まるために、なぜ天智こそ皇祖とした不比等らが手伝うのか?


一歳児聖武の立太子にせよ、その後の孝謙女帝の擁立など、どれもこれも奇妙で、おきて破りの行動ばかりだ。聖武天皇の立太子。即位、禅定も奇妙。そして最たるものは、聖武天皇即位の儀の二度の記事である。

九日に儀を執り行い、二十四日にまた儀式。なんかこう一ヶ月も飲めや歌えをやっていたかのような記事である。

往古の即位の儀は九日間である。それを光明子は二十四日間に無理やり延長し、聖武がいかに正当で、有力かを世間に示そうとしたようなのである。結婚式をして、新婚旅行は海外で、帰ってきたらまた披露宴みたいなことなのである。(ちなみに筆者も結婚式は住まいのあった京都と、妻の実家と、二度させられた。なんかはしらんが、静岡の田舎じゃあそういうことなんだとねじふせられて・・・???今でもよくわからない。おそらく向こうでは彼女はよほど可愛い娘だったということなんじゃないか?仲人もあっちとこっちの二組いたというまあ、前途多難な・・・質素にやろうとしたのが、振り回された気がする。)

そういう経験も踏まえて、どうも藤原氏にも、伊豆の人々のような自分たちの実力は衰えてはいないという演出がどうしても必要だったことはわかると思う。


藤原氏はその後、安積皇子の皇位継承権を執拗に否定し続けている。唯一の長男である。なぜか?ならば一思いにやってしまえばいいものを?そして代わりに即位させたかったのが孝謙(称徳)だったのである。ところが・・・






おまけ
聖徳太子をクローズアップしたのは、まず天智、次に持統、そして光明皇后である。天智は白村江敗北で地に落ちた名声と、唐が攻めてくるという「噂」によって、それを忘れさせ、一気に地位を取り戻そうとしたためであったが、光明皇后もまた藤原四兄弟の死で、藤原氏が一気に実力を失うことへの懸念から、地位を奪回する必要があった。持統は自分の正当性のために仏教をクローズアップしたのだ。そのための火葬や釈迦三尊への仏寄贈である。

そのための聖徳太子をだしに使う二度目のことになる。

仏教も太子も所詮、権力者抗争のだし、神輿であった。

厩戸もえらい大迷惑だったろう。自分は引っ張り出され、子孫は殺され、自分がモデルになった神仏には包帯を巻かれ、見ざる言わざる聞かざるの成人として、夢殿に幽閉されたわけである。夢想していたと書くが、それしかほかにさせてもらえない状態。幽閉したのは誰だ?蘇我氏ではない。


中臣氏にきまっとるじゃあないですか?鎌足さんの先祖じゃあないの??

いずれにせよ蘇我氏の反対勢力だ。孝徳だったかも知れない。息長氏かも知れない。



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