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豊田トンド山古墳巨大石室と物部太媛とそして道鏡事件 おまけは京都大内裏裏話と河勝登場の裏




 「天理市の石上(いそのかみ)・豊田(とよだ)古墳群の南西端で、直径約30メートル規模の7世紀前半ごろの円墳とみられる古墳と大型の横穴式石室が見つかり27日、同市教委が発表した。

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  同古墳群ではこれまで、古墳時代後期の前方後円墳2基や円墳200基を確認。今回、都市計画道路事業に伴う発掘調査を行ったところ、未調査だった丘陵の頂上部で全長約9・4メートル、高さ2・6メートルの石室が見つかった。墓室(玄室)は幅約2メートル、長さ約4・9メートルで、最大1辺約3メートルの巨石を積み上げた壁面でできていた。

  市教委はこの古墳を「豊田トンド山古墳(仮称)」と命名。地形などから直径約30メートルの円墳の可能性があり、同古墳群の同時期の古墳としては石室とともに、2番目の大きさになる。

  同古墳は物部氏の本拠地の1つと考えられる布留(ふる)遺跡(天理市)や、ヤマト政権の武器庫でもあった石上神宮(同市)を見下ろす高台にあることから、同市教委は「布留遺跡と関わりがあり、一定の勢力を保ち続けた有力者の墓と考えられる」としている。

  現地説明会は5月2日午後1時~午後3時半。雨天の場合は9日に順延する。問い合わせは、同市教委(電)0743・65・5720。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150428-00000003-san-l29










被葬者候補

物部太媛(ふとひめ、布都比売。生没年不詳))
飛鳥時代の人物。有力豪族・物部尾輿の娘で、物部守屋の妹。史料によっては布都姫夫人(ふつひめのぶにん)、御井夫人、石上夫人。6世紀後半から7世紀前の人。

「『旧事本紀』「天孫本紀」によると、崇峻天皇の時代に神職の重職について国政にも参画したといわれている。のちに異母弟にあたる物部石上贄古と結婚して、物部鎌足姫大刀自(蘇我馬子の妻)を産んだとされている。
他方、蘇我馬子の妻が彼女であるとする史料もある。『日本書紀』では名前こそ明らかにされないが、蘇我馬子の妻は物部守屋の妹とされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AA%9B


朴井雄君 えのいの・おきみ
生年不詳 - 天武天皇5年(676年)6月)
「日本の飛鳥時代(7世紀前~)の人物である。榎井小君とも書く。朴井氏は物部氏の同族であり物部雄君ともいう。姓は連。物部尾輿の孫にあたる朴井真古、または物部守屋の子で、子に忍勝・金弓・有利媛がいたとする系図がある。冠位は贈大紫。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E4%BA%95%E9%9B%84%E5%90%9B
※時代は合うが守屋の子ではあるまい。氏姓が合致する真古の子ではないか?

「美濃に住まう物部氏の一族といわれる。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に従って活躍した。

「壬申の乱が始まったとき、朴井雄君は大海人皇子に舎人として仕えていた。天武天皇元年(672年)5月に大海人皇子に対して大友皇子を戴く朝廷の害意を告げた。「臣は私事があって一人で美濃にいきました。そのとき朝庭(朝廷)は美濃と尾張の両国司に対して山陵を造るための人夫を選定しておけと指示しました。そうして集めた人に武器をとらせています。臣が思うに、山陵をつくるのではなく、必ず事があるでしょう。もし早く避けなければ、きっと危ういことになります」というのがその内容である。さらに別の人が、「近江京から倭京までのところどころに斥候を置いています。また莬道の橋(宇治橋)を守る者が皇太弟(大海人皇子のこと)の舎人用の食糧運送を遮断しています」と告げた。大海人皇子はこれを調べて事実であることを知り、挙兵を決意した。

天武天皇は6月24日に吉野を発って東に向かった。付き従うものは妻子と臣下二十数人と女官十数人で、朴井雄君もその中にいた。その後の内戦での雄君の役割については記載がない。

壬申の功により榎井小君が100戸を封じられたことが『続日本紀』大宝元年7月21日条(701年8月29日)から知られる。

天武天皇5年(676年)6月に、急病で死んだ。天皇は大いに驚き、壬申の乱での大功によって、内大紫の位を贈り、あわせて氏上にした。」
Wiki物部氏より


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物部守屋は記録が正しいのなら、587年に丁未の乱(ていびのらん)によって殺害され、その後本家は衰亡している。この古墳の年代で、石室の巨大さにみあう有力男性は大和や河内渋川にはいなかったはずである。にも関わらず天皇に匹敵する石室(奥行き 第1位30m)を持てた人物となると、考え付くのは大和では蘇我馬子の妻とも、妻の母とも言われる物部太媛くらいのものではないか?



あるいは物部宇麻乃もののべの-うまの (宇麻呂・石上宇麻呂)
?-? 飛鳥(あすか)時代の官吏。
「石上麻呂(いそのかみの-まろ)の父。孝徳天皇(在位645-654)のとき朝廷の護衛を任務とする衛部に所属し,大華上の位にあった。氏印大刀(たち)と食封(じきふ)1000戸をあたえられ,石上神宮につかえた。名は宇麻呂,宇麻子,馬古とも。」時代は7世紀後半で合わない。


その父は大連・目(め)。雄略朝~7前半?くらいの人で、これも大連なので有力。円墳は雄略と同じなので、大和ではこの頃の古墳形態だという点でも合致する。
 
あとは守屋とは別系統の、継体天皇時代に九州磐井を攻めそのまま国造を引き継いだであろう麁鹿火(あらかい)であるが、筑紫で536年頃に死んでおり、年代が合わない。



すると「奈良の石上・豊田古墳群で横穴式石室が新たに発見」の記事に合致しそうなのは大連目あるいは太媛ではないかとなるだろう。



しかし豊田トンド山古墳の石室はNo1に大きい。長さでは
見瀬の丸山古墳(舒明?あるいは蘇我堅塩媛 きたしひめ?)がこれまで28メートル以上で一位、

宮地嶽神社古墳(天武外戚、胸方君徳善?)が22メートルで二位、

三位石舞台古墳(蘇我馬子?)19・4mだったのが、

一気に豊田トンド山が一位に躍り出たことになる。30メートルとなると天皇をしのぐ大きさである。円墳であるなら雄略朝関係者でもあろう。となると歴史上は地味な大連目とは考えにくく、権力者馬子を動かせる立場にあった太媛でいいのではないだろうか?

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記紀は「太い」と書くが、意味は「大」である。また実際は「布都比売」で「ふつ」だった可能性を言う説もある。「ふつ」は「ふつのみたま」つまり物部氏・石上氏共通の神剣の神霊である。その「ふつ」とは「ふっ」で、刀が空を切る音からだと言われている。





■蘇我馬子の妃説
1 『紀氏家牒』・・・物部守屋の妹・太媛(ふとひめ)
2 『日本書紀』・・・同  上
3 『石上振神宮略抄』「神主布留宿禰系譜」・・・蘇我蝦夷の母親は守屋の妹「太媛」
4 『先代旧事本紀』・・・物部贄古の娘の鎌姫大刀自=守屋の姪(うそ)
 物部守屋公の妹は物部連公(贄古の)布都姫夫人。字は御井夫人。亦は石上夫人。(実の妹を弟が夫人にするわけがない)守屋の弟の物部石上贄古連公は異母妹の御井夫人を妻と為し、四児を生む(実の妹を妻にする?明らかに馬子妻の事実を隠匿)
物部贄古の娘の鎌姫大刀自(うそ)

※『旧事紀』の記述には同様のありえない近親結婚の記載が瑞所に見られるので、このケースでは信用するに足りない。

守屋妹と守屋弟の近親結婚記述は、蘇我氏によって守屋が滅ぼされたことから考えれば、物部氏側からの勝手な主張だと考えていい。氏族間の史書以外の三つの史書の記述が合致しているから、太媛が守屋の妹で馬子の妻が正しい。

鎌媛大刀自連公と太媛は同一人物で、贄古の娘というのはうそ。馬子と太媛の娘に聖徳太子夫人の刀自古がいるのだから、大刀自の文字をもらった名前であるのだから、太媛=大刀自=鎌媛と筆者は考える。



■従って『日本書紀』の蘇我馬子の妻計とは
太媛(布都媛)が兄の財産・所領・石神神祇権・大和物部相続権を狙って夫・馬子をそそのかしてやらせたと結論する。

それで乱の直後に推古は突然神祇祭祀を復活させ、守屋、竹田、崇峻らの御魂を鎮める必要が生じた。

つまり守屋の反乱は仏教対神祇の戦いでもなく、また守屋が反乱したわけでもなかったと結論できる」当ブログ2010/7/17(土) 午前 11:59記事
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52481759.html



『日本書紀』崇峻紀
「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、みだりに妻の計を用いて大連を殺せし」

同じく皇極紀
「蘇我大臣蝦夷、病に拠りて、朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。復其の弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は、物部弓削大連の妹なり。」



弓削大連とは守屋のことである。その妹が太媛であることは記事が複数あって間違いがない。ただ馬子の妻だったことは諸説ある。しかし『日本書紀』はこのように二箇所で馬子の妻を揶揄する記事を載せている。つまり兄守屋が謀反し、蘇我馬子に殺される背景には、妻、太媛の「妻計」=陰謀があったのだとするのである。『日本書紀』はここでむしろ馬子を擁護していることになる。考えようによっては、『日本書紀』は物部本宗家氏内部の、離反があったのだと言っているわけである。

そしてそれを証明するように、守屋が死ぬと彼女は実質の大連の立場となってもいる。そして各地にあった守屋の所領や財宝などを、馬子を通じて手中にしたわけである。

考え方は二通りあろう。馬子には義兄である守屋を殺す気も、物部本家を滅亡させる気も、最初はなかったという考え方。もうひとつは蝦夷以下は悪者にしたいけれど、馬子までそうする気は『日本書紀』にはなかった、という両面である。馬子が死亡すると、名目上の大連は守屋の弟・御狩(おかり)に転がり込み、その息子・目につながることになったのだが、どうも姉に当たる太媛がかなり彼らを牛耳った気配がある。

だから事件の陰で、一番得をしたのは馬子よりも妻であろう。なぜなら馬子の蘇我氏は、それによって守屋の財産を独占したように見えてしまう。だからその後子孫もやられていいのだ、という理由付けにすらなりかねない。慎重な馬子がそれを望むはずはない。しかし侠気の姉御肌である妻には頭が上がらず?仕方なく守屋らを滅ぼした?だから実質上、やはり太媛はひとり得したわけである。

それほどの財力を独占して、しかも権力者蘇我氏の妻だったのだから、これは当然、天皇の皇太后のような立場になれたのである。ちょうど藤原光明子と似たような立場。事件の陰に女ありである。

しかし彼女の名前は歴史ではほとんど知られず死んでゆく。だから乙巳の変の首謀者は、結果的に物部氏の財産・所領も、蘇我氏のそれも、一挙に手にできてしまったことになるわけだ。で、登場してくるのが?鎌足の息子の不比等だったというわけである。藤原宮はもと、地名は葛井(ふじい)、それを藤の文字に変えさせたのはほかならぬ不比等しかありえない。葛井とは井戸で、水が湧いていたからの地名で、決してよい場所でもない。湿地である。だから「くずい」なのである。そこを埋めて宮を建てるほどの財力が不比等にはあったということだろう。








では藤原氏はいったいどこからやってきたのだろう?
いや、正確には中臣鎌足の出自である。

藤原氏が祭る春日神社は、常陸の鹿島神宮から勘定されている。つまり中臣氏はどうであれ、藤原氏の本貫は茨城県の鹿島にあったことにしてあるのだ。これはなぜだろうか?なぜ東国の鹿島だったのだろう?また春日大社よりも鹿島神宮のほうが古かったのは本当だろうか?

本拠地の奈良で春日大社を神宮にはしていないところにヒントはあるかも知れない。不比等は死ぬまで決して朝廷No1の左大臣や一位にはあがらなかった。フィクサーとしてNo2が最適であることを熟知していたのだろう。すると春日をNo1にしないのも当然だ。蘇我氏のようになんでも一番にしてしまうと、必ず反対勢力からのやっかみと陰謀が降りかかる。そこで、いったん縁えもゆかりもなさそうな遠隔地の鹿島に神宮社格の神社を建て、そこは東北への鬼門、蝦夷へにらみを聞かせる魔よけであると認めさせ、そこからタケミカヅチを改めて春日へ・・・。巧妙である。しかもその春日はそもそも春日氏の處領地である。これは摂津の阿武山古墳周辺がやはり春日氏の土地であることとリンクする。おそらく春日氏を抱き込むことで、大和で地位を固められたのだろう。なにしろそれまでの中臣氏はただの祭祀者集団だったに過ぎない。王家に嫁も出さないし、これといった実績もない。神話に国譲りの立役者と書いたのは、鎌足・不比等が実力を持てたからということしかなく、そのような出雲での神話は、まずもって物部氏の実績であって、彼らがやってくる前のことであろう。

特に文武~聖武、孝謙・称徳時代の皇位継承での抗争が起きた時代が、『日本書紀』を大幅に藤原氏や橘氏に都合よく改竄するには最適な時間である。なにしろ朝廷内はごたごたしている。書庫でなにが行われたかなど知れたものではないのだ。光明皇后から称徳の間が最も怪しい。

特に称徳時代の道鏡事件である。なぜ一介の僧侶を天皇にしようとしたか?その理由は聖武の長男が即位を拒絶され、彼女がピンチヒッターになってから始まる。藤原氏はどうしても天武の長男安積を継がせようとはしない。理由は彼の母親が、橘氏の媛・広刀自だったからに他ならなかった。宰相としての権利が橘氏に傾こうとしていたから、強引に、子供が死んで権利のないはずの光明子を「皇后」にしてしまい、その力で天智以来の持統・元明の女系血統をつづけんとしたのである。

ところが孝謙女帝はこともあろうに祖父草壁と天武の血脈の父方のほうをつなごうとしたのである。ここが女の面白さと言いましょうか?さらに、子供ができず、それもあきらめなければならなくなった結果、とうとう僧侶を即位させたいと言い出してしまう。わけがわからんので、朝廷は和気清麻呂を呼んでくる。宇佐神宮まで託宣うかがいに。すると最初は「それでええがな」となり、あわててもう一度させたらやっと「そらやっぱあかんわ」と出て、持ち帰ると、今度は女帝が怒り狂い、和気清麻呂は「穢麻呂 きたなまろ」に、姉の広虫はひどいめに。

この女帝、別に男狂いだったわけではないだろう。もう誰でもいいので、誰か言うことを聞くものにつがせてしまいたかったのだ。

それほど藤橘(とうきつ)の氏族争いに嫌気が差したのである。それはちょうど聖武が、やはり嫌気が差して大仏建立に命をかけてしまったのと同じ理屈である。

まあ、飛鳥時代には皇極、足利時代には足利義満の例もある。政治がいやになると建造物に夢を託す。皇極はペルシア人にうつつをぬかし、あの「たぶれ心の溝」に、義満は妻の日野富子を放り出して金閣寺に、それぞれ大金をつぎ込んだ。現実逃避である。日野富子などは仕方なく代わりに政治を行って、とうとう応仁の乱まで起こすことになった。奈良も京都も、もう権力者には大迷惑してきた。

孝謙死後、継嗣がいなくなって、とうとう仕方なく、のんだくれ親王だった天智の息子光仁が、もうじいさまだったのに歴史の表玄関へ。その子供が桓武だったが、せっかく大仏を作った南都を捨ててすたこらさっさと山背京都へ引っ越してしまう。なぜ?金メッキで金はなくなり、環境は破壊され、大和川は鉱毒汚染されたからである。いやそれよりも守旧派と新興勢力の政権争いから逃げ出すためである。南都仏教は捨てられた。おきざりにされた。あの孝徳天皇のように。やっぱり天智の血は争えない。平気で逃げ出す。










豪華おまけ


京都大内裏・・・秦河勝の屋敷跡。
そこは現在の御所(堀川御池)から少しはなれた油小路通りあたりにあったとされる。今、そこへ言ってみるとその痕跡はある。油小路通りや千本通りは下立売では狭いが、そこから急に、堀川通りへ無理につながっており、北野白梅町の東側あたりでばと広がって、二条城までが特に広い。西京極球場があったあたり。今の朱雀高校のあたりが朱雀門があったところ。

千本大宮の映画館の東あたり。そこがおそらく河勝の住まいであろう。そして元の大内裏の北端もこのあたりにあったのではなかろうか?(こういうことは住んだ人にしかちょっと感じがわからんでしょうね。一説では狭い千本か油小路商店街の中ほどに痕跡があるとかないとか・・・)。嵐電に乗るときによく注意してみておいてね。

「中京区油小路二条下二条油小路町 280 他 .... 拾芥抄』所収の『天暦御記』逸文には、内裏の場所がかつて秦川勝の邸宅があっ ......

当該地は江戸時代には松平氏の武家 屋敷、大正時代には施薬院があり、その後中央市民病院・ ...... 間は 4 丈幅の道路と 考えたが、内裏北と縫殿寮間がそのまま 4 丈であったかという点である。」

南端が今の朱雀と二条城になっている。


北野はいわゆる紫野が近い。あの「あかねさす」の天武がいったところだ。かつては鳥辺野、愛宕おたぎ郡である。ここから北は縄文時代からの墓地で、鳥葬していたから「とりへの」である。そういう辺鄙で君の悪い場所に秦氏頭領は住まったのである。

なぜなら京都盆地も奈良盆地同様、弥生末期まで湿地、かつての盆地湖だったからであろう。真ん中に住むところなどなかったのである。植物園が岩倉にあるが、あそこはみぞろが池(緑泥が池)が残っており、環境が悪かった。紫野には薬典の薬草苑があったので、植物園にはこのあたりはふのでふさわしい。湿地帯だったから。地下水もね。


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京都は渡来人が切り開いた。北も南もだ。秦河勝は京都開闢の祖である。
それを秀吉が応仁の乱のあと再開発した。秀吉は京都中興の祖である。

しかし・・・、山背秦氏が実際に歴史に登場したのは、実は平安遷都のときが初めてであろう。

『日本書紀』はそれを前倒しして、応神紀や仁徳紀そして推古紀に、前もって登場させたと考えてよかろう。それまでの秦氏は、まったく無名。これはあきらかな平安遷都の正当性のための前置きである。


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大宮通は広いでしょう?堀川も広い。堀川は秀吉が整備拡張した油小路なのだ。
京都と言えば幕末と安部清明だと思っているあなた?あなたは京都の素人ですよ。焼ける前を知らなくっちゃ。それがディープ京都ファンというものです。





京都を知るには京都に住め、なのである。





ぐるりから傍観しとってもわからしまへんえ。




しかし受験のときは西院やら大雪でしたんどすえ。えらいめえにあいましたわあ。
堂本の衣笠山までまあ、雪道でえ。おおけな風邪ひきましてなあ。最悪どしたわあ。
おかげさまでりっちゃん、どうやん、どっちも見事におっこちましてんわあ。










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