氏族は交わる。
賀茂氏、鴨氏が、どういう移動をして山背に入り、そこで誰とまじわったかについて、中村修也は、従来史学で葛城鴨という氏族と、山背賀茂氏や加茂氏に、つながりがなかったという考え方に「疑念」を持っている。
筆者もそうである。
鴨氏の伝承は
「葛城磐余にニニギ子孫とともに入り、やがて山背の二つの川の合流する「石川の清流」に移り、そこは聖なる二股の地であったが、ごろた石の転がるところ」
などという記録になっている。
ただ、そこは古代とまったく同じ地形だったかは、秦氏の開発もあり、今となってはなかなか判断は難しい。しかし「石川」という石がごろごろしている三角地帯であることは、今も変わってはいない。
もともとの突端だっただろう場所は、今は画面中央奥の森の中の下鴨神社南端の河合神社がある場所かと思う。左加茂川、右高野川・川端通り 出町柳駅そばからの河合の出合い。瀬見の小川の取水口は御手洗池と呼ばれ、禊池になっている。おそらく往古はそこに三角地帯があり、石川の聖水を取り込んだ。今はこのように、かなり堤も姿を変えている。
「いしかわ」には聖なる清流である条件としての地名という共通性は全国的にあったかもしれない。奈良の大和川支流の石川や、県名の石川県などには、そういうごろた石のたまった聖地という意味もあると思われ、蘇我石川宿禰らがそこを選んだのであろう。同じように葛城のカモ氏も、移住し、山背でそれを見つけて住まい、そこへは秦氏もやってきて、婚姻が起きたと思える。それから上下カモ社に分かれた、でいいのではなかろうか?
それ以前は海から来たとしかわからない。カモ系の神社は全国の海岸部には山ほどあるので、どこが最初だったかは決められまい。それを言い出したら、各地で喧嘩が起こるだろう。それは水掛け論である。
カモ氏のように、氏族を分析するさいに、まずは新しい渡来系氏族である秦氏をどうとらまえるかは非常に大事である。新しい渡来だから、古い渡来よりもわかりやすい伝承を持つ。その理由は、古い渡来系氏族は新しい渡来がきたころには、すでに渡来から在地に変化してしまっているからだ。
秦氏は中村も筆者も、多数の複雑な氏族でできあがる、渡来した人々という意味の名前であろう。右代表が秦氏やアヤ氏である。それらがこれまでは新羅系か百済系かで主に区分されているというのが近畿の考え方であった。しかし、ここには伽耶の王族という視点がない。
カモ氏も秦氏も、記紀ではまず大和に来てすぐ葛城の山麓にあった磐余に入れられている。つまりそこは外来者がとりあえず置かれる場所だと記紀は言っているのであろう。そこにいた先住氏族は、伽耶に非常に深いかかわりのあった葛城襲津彦の子孫たちである。
鉄の氏族葛城氏は、武内宿禰の子孫で、紀氏とは親戚関係になる(と『日本書紀』は言う)。武内宿禰は高良玉垂=黒尾神のことであると、前回分析した。
このことは人によってさまざまの解釈もあろう。しかし筆者はそう考えている。筆者は、である。
紀氏が葛城と佐賀県あたりで合体したと思っているが、そこから紀州まで、豊後・豊前を経て、吉備を経て和歌山の紀伊半島北部に入り、そこから山背南部に入ったと。筆者は考える(これにはまず深草弥生遺跡と巨椋池北部の宇治市街地弥生遺跡などの検証が必要になるだろう。それが紀氏の遺跡であるから山背の紀伊郡となり、そこから彼らが移住したあとに秦氏らしい新参渡来氏族が入ったという痕跡があるのだ。稲荷山もそうである。あるいは葛野の物集女もそうかも知れない)
京都の桂川沿線に物集女があるが、古墳群には土師氏だけでなく、紀氏、秦氏、壱岐氏らの痕跡があると思う。
紀ノ川の淡輪古墳群の土器工法が物集女で出る。
そして紀ノ川の古墳群に、九州の双脚輪状文輪状文の帽子が出る。それは王の冠であろう。ならば彼らは紀氏の族長の移動を示す・・・。さらに棚がある紀州型の石室構造は、岐部という地名のある大分県国東半島にも存在する。彼らは木氏になる前の木部であろう。もちろん大和学説が言うような、逆のコースも考える必要もあるが。それは歴史的に大和から遠隔地へなんらかの必要(外敵の来襲を想定した「さきもり」など)で「里帰り」したとも考えうる。例えば的臣や日下部などの靫負氏族にはその可能性がある。人吉市などの古墳群を再度検証するべきだろう)
そう書いた。
地名がそれを後押しするとも書いた。
同時にスイジ貝などの貝の道でも合致すると。
物的証拠はそう語るのである。
犯罪でも、動機、心的証拠、物的証拠の三つがそろえばその人物は「黒」となる。
その紀氏は佐賀県の基肄郡で姫をめとり、生まれたのが武内宿禰であり、その名前が武雄という地名の元である・・・まったく論理に破綻はなさそうである。
カモ氏は海の氏族であろう。なぜなら全国の港、漁師町で祭られている・・・。
「はた」に関して武内宿禰子孫に「波多氏」「羽田八代氏」が出てくる。「はだ」である。これも秦氏のひとつと見るか、結婚で同族となったかの見方は適応可能であると中村は言う。筆者も賛同したい。
というよりも、秦氏はそうやって氏族を膨大にしていった。というよりも、「はた」とは海からやってきたあらゆる渡来人を代表した名前だろう。
ここで、いつも思い出すのは、朝鮮や韓国からの現在の亡命者が、拿捕されたりしたときにまず「新潟はどこだ」「大分はどこだ」などの決まり文句を言うことだ。
おそらく彼らには、往古から彼ら難民が集散する場所の地名が伝わっているということなのである。それが大阪の鶴橋とか、敦賀の気比とか、但馬の出石・豊岡とか、新潟の弥彦とか、秋田の唐松とか、大分の宇佐とか、豊前行橋のナカツ郡とか、筑豊の田川・香春なのではなかったかと。
今でも、彼らはそこを目指して出航している。のではなかろうか?
山背の葛野もまたそういう場所であろうと。
そこで彼らが「葛」という大きな渡来民でとらえられぬか?
「くず」「くす」「かづら」「かつら」がそうした渡来系や、海から来た人々の「やちまた」になってきた歴史があるはずだと。
つまり高速道路や飛行機ならインターチェンジ、ハブ空港だと。
それらの人々を一括して「はた「はだ」としてきたのだ、大和ではと。
記紀にはそういうやや乱暴な一括が見受けられるのである。半島や中国を「から」「くれ」というようなアバウトな意識である。それは海で隔絶した島人ならではのとらまえ方、言い換えれば地理感であるとしたい。
それはいい加減ではあるが、実は島人というものに国境がない、グローバルだったからこそのとらえ方ではないか?
世界は海でつながっており、彼らに国境はなかった。オーストロネシア膠着言語民族にとって、世界はひとつであると見えるのである。
海に面した地方に「2音」地名が多い、とは前の記事で書いたF氏の意見である。「いせ」「はま」などの、場合によっては「つ」なのの一文字もあるが、海上で端的に地名を伝えるのにそれが都合がよかったという考え方である。膠着言語の母音を明確にする言語もまた、同じであろう。
「かも」もまた二音であり、彼らが海上を住処としたものではないかと思わせる。「石川の瀬見」は、聖なる水の出ている土地だろう。三角地帯の突端は古墳の突端での祭祀を裏付けている。水と三角デルタの場所にまさに下賀茂神社も建っている。往古はおそらく合流点はもっと神社のそばにあっただろう。
世界遺産登録で、下賀茂神社はすでに筆者が遊んでいた頃とはかなり様子が変わっている。綺麗に整備された。取水口も昔は別の状態だった。
いま、合流点突端には別の名前で祠がある。
水に突き出す地形は、道教では男性自身を指す。河の合流点は女性自身となる。そこは「男女がまぐわい、子作りをしている」地形である。子作り、出産とはつまり「生産」を意味し、国家にとって人口を増やすことは大事な事業であった。なぜなら人口の増加は租税の口が増えることだからだ。
「産めよ増やせよ」と戦後の池田内閣は推し進めた。そのときの子供は今、団塊の世代となり、戦後経済を支えた。同じことではないか?
秦氏もカモ氏も、氏族を合体させ、増やすこと・・・殖産興業に帰依した氏族である。
それを「はた」「うづまさ」としたのだ。
「渦」とは命の再生と連続を表す形状である。そこにバツが加わると、世界の考古学的な記録では洪水が起こり、民族が滅びた印となるのである。そして異種が婚姻し、種族は復興し、祖人となるのである。
異種とは異族との婚姻にほかなるまい。犬が姫とまぐわい、民族は復活したという伝承は山ほどある。それはつまり異民族間の合体を指すのであろう。歴史的合体によって口はもとにもどり、国家が安泰したと言っているのだ。
秦氏とカモ氏、葛城氏、吉備氏、紀氏らも合体した。それを「武内宿禰」で代表させたのだろう。
つまりそれは国家を助ける行為であり、王家を補佐する役目=大臣のことになる。
だから氏族が「弓月君の」とか「カモたけつぬみ」とかの祖人を言うことにはさしたる根拠も意味もないのだ。それらは安定したあとの「跡付け」でしかあるまい。
だからそういうものを追えば追うほどに、研究者は迷路に迷い込むことになるわけである。
日向の峰に天孫とともに降り立って・・・などと賀茂氏は書くが、後付でしかあるまい。そこにはそれほど古くからとか、今の王家の存在はわれわれのおかげだとか、そうした意味しかあるまい。つまりそのためには、『日本書紀』の神々や神武東征記述は取り込まれ行っただけのものであろう。根拠などあろうはずもない。
また、大和氏族が入ったあとから、遠隔地にそうした伝説が入り込んだ場合だってありうる。紀氏のように、考古学的な証拠品が年代を西から東へ移動した氏族ならば、神武東征は正当性を持つ、しかし物部氏のような、継体時代に移住した氏族から、それが証明できるかは、神社の言い伝えやらでは判断できにくいものであろう。なぜなら人はうそをつく動物だからだ。
物的証拠がその言い分をちゃんと裏付けてこそ、それは証明できる。必ず氏族には独自の意匠や遺物がある。それを探すことが最短距離である。
考古学を信じるほうがいい、しかし考古学者の意見には左右されないほうがよい。恣意的だからだ。これも人の生み出すうそかも知れない。考古資料は信用できる。考古学は信用できないことが多い。ものはうそはついていない。ものから真実を読み取るのは、あなたがたの責任である。ものに罪はない。掘り出されたものはうそは言っていない。それを信用しないというのは、判断する自分自身が信用できないと言っていることにほかならない。それほど古代は難解である。
遺物や遺跡に罪をなすりつけてはなるまい。読み取るだけの知識を持つことで、それは解消できるはずである。それを惜しんで、はなから信用しないというのは暴言である。自分が判断不可能な人間だと宣言しているようなものである。それは考古学が信用できないのではなく、考古学者の「意見が」信用できないだけのことである。
あらゆる可能性を追求しない刑事に、犯人はつかまえられないのである。