これは記紀神話を巡る陰謀を発見する壮大なオデッセイである。
にも関わらず、実に簡明に、実に手短に、くろうとうけするように、たった一ページにおさまるように書き上げてしまった。これは正しい歴史なのではなく、『日本書紀』が作り出した大和のための歴史書の分析でしかない。
事実は誰にもわからず、どこにも記録がない。しかしこれが正しい『日本書紀』神話の読み取り方である。
Kawakatu
まず名も知られぬような、四国の神社からこの叙事詩は開始される。
手引きするのは奈良女子大教授である小路田泰直『神々の革命』である。
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大川上美良布神社(おおかわかみ・びらふ・じんじゃ)
http://www.city.kami.kochi.jp/kanko/ookawakami_jinja.html
http://www.city.kami.kochi.jp/kanko/ookawakami_jinja.html
高知県香美市香北町韮生野243-イ
主祭神・大田々祢(根)古(おおたたねこ)命・大物主命
活玉依比賣命、陶津耳命、櫛御方命、飯肩巣見命、美良比賣命、健甕槌命を合祀
延喜式内小社
創建・社伝では雄略天皇時代(5世紀後半~6前半。継体よりも前)
主祭神・大田々祢(根)古(おおたたねこ)命・大物主命
活玉依比賣命、陶津耳命、櫛御方命、飯肩巣見命、美良比賣命、健甕槌命を合祀
延喜式内小社
創建・社伝では雄略天皇時代(5世紀後半~6前半。継体よりも前)
位置
「大川上美良布神社. 香美市香北町韮生野字大宮243番1(平成19年4月1日). この神社 は高知市方面から国道195号線を物部川(ものべ・がわ)の流れに沿って遡ると、右手に「道の駅・美良布」があり、そのすぐ先の大宮前信号を左折するとすぐ右側に鎮座」
「大川上美良布神社. 香美市香北町韮生野字大宮243番1(平成19年4月1日). この神社 は高知市方面から国道195号線を物部川(ものべ・がわ)の流れに沿って遡ると、右手に「道の駅・美良布」があり、そのすぐ先の大宮前信号を左折するとすぐ右側に鎮座」
社名由来
「神社の名になっている美良布(びらふ)の美良は「みら」とも読まれニラの古語である。当地の地名は韮生野(にろうの)であり韮生は「にらふ」とも読め美良布と同義である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%BE%8E%E8%89%AF%E5%B8%83%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「神社の名になっている美良布(びらふ)の美良は「みら」とも読まれニラの古語である。当地の地名は韮生野(にろうの)であり韮生は「にらふ」とも読め美良布と同義である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%BE%8E%E8%89%AF%E5%B8%83%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「美良布の川上さまとして知られる名社。祭神は大田田根子命。延喜式内社。本殿、幣殿は県の保護有形文化財になっています。社殿の規模は大きく木割も堂々として落ち着きを感じさせ、屋根は幕末の造りにしては美しく優美といわれています。
秋祭り(毎年11月3日)は特に盛大で、一に一宮の志那祢さま、二に韮生の川上さまと称され、大勢の人出でにぎわいます。古式にのっとった神輿のおなばれ行列で知られています。社宝には土佐の銅器時代を語る重要な資料である銅鐸2個があります。」http://www.city.kami.kochi.jp/kanko/ookawakami_jinja.html
異論
「地元では植物の韮から来た名だということになっているが――三輪氏の「三輪」からきた名だと思われる」
奈良女子大・小路田泰直『神々の革命 『古事記』を深層から読み直す』かもがわ出版 2012
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◆大田田根子
「おおたたねこ」は大物主を奉じる大和の三輪氏祖人。
大和では河内の陶邑(今の堺市泉北以南の地区)の土器製作集団だった三輪氏から出たとされ、大和大物主が崇神天皇に「大和の祟りを押し込めるためにはオオタタネコを探して祀らせるがよい」と命じて、大和にやってきたという。
しかし美良布神社の言い伝えではオオタタネコは大物主ではなく、スサノヲの八世孫だという「健飯賀田須(たけ・いい・かたす)命の子であると伝承(『香北町史』2006年358P)。これは物部氏の私的史書である『旧事紀(先代旧事本紀せんだい・くじ・ほんぎ)』の記録に合致する。
先代旧事紀→
先代旧事紀→
旧事紀にはこの神は「この命は鴨部の美良姫を娶り一男を生む」とあるので、この伝承から高知県の物部川一帯に入った、つまりなんらかの理由で大和か河内の物部氏の一部がここへ逃げ込んだ(おそらく守屋の敗北で)ということであるから、それは雄略時代では古すぎるので、聖徳太子の飛鳥時代のことである。
高知県では大川上美良布神社周辺にはほかに大物主を祭る社は見当たらず、この地域ではここがほぼ孤立したやしろになっている。しかしながら、ここよりやや西にある土佐神社に大国主神・スクナヒコナという出雲神話系神とともに賀茂大神が祭られており、この神こそが大物主の別名である。
大田田根子はあくまでも神である大物主を祭る三輪氏の巫覡でしかなく、あくまでも神は大物主である。大物主は大和三輪山の先住氏族であろう河内渋川を本拠とした物部氏(もののべ・うじ)の、あるいは物部氏が三輪山山麓で管理していた先住土豪の神である(筆者は後者を取る)。
神武東征で物部氏の祖であるニギハヤヒ(のちに尾張氏・海部氏の祖神アメノホアカリ命と習合)命には、配下・外戚として近畿土着の縄文系豪族らしきナガスネヒコ一族がおり、大物主の原型はここにあったかと思われる。
そう、大物主とはほかならぬ、大和に巣食っていた縄文系蝦夷たちの連合体の神である。
しかもそれが祟る神・・・つまり大和侵入者によって滅ぼされた出雲系、であったために崇神は大物主を鎮魂せねばならなかった。
◆大物主(おほものぬし)
奈良県桜井市大神(おおみわ)神社の祭神。
奈良県桜井市大神(おおみわ)神社の祭神。
姿は蛇。崇神朝時代に崇神天皇が宮中から既存の神・アマテラスと倭国魂神=大山積を「恐れ多い」からと放逐したかわりに、この神を大和の「真の国魂」として迎え入れたことから、「倭大国魂神(やまとの・おおくにたま)」神とはそれ以前の大倭氏(豊後水道から播磨灘一帯の縄文系海人族)という海人族(大海部の神であるナビゲーター椎根津彦一族)の神==(これを記紀神話は大山積神(おおやまづみのかみ)と言う)であり、崇神が大物主を選択しアマテラスと大山積を選ばずに、祟らぬ守護神として丁重に移住させても大丈夫だった。
その原因はそもそもが祟り神である大物主によって起きた頻繁な疫病や争乱にあったと見られ、その正体とはおそらくニギハヤヒ(物部氏)には押さえ込むことができなかったナガスネヒコ(出雲日本海系縄文人=蝦夷)一族の怨霊ではないかと考えられる。これを先住の「まつろわぬ者」集団のひとつと考えれば、話は見えやすくなる。
◆賀茂大神
出雲大国主の義弟にあたるアジスキタカヒコネの別名。葛城高鴨神とも。
賀茂一族と三輪一族の共通の祭神。
奈良県御所市の高鴨神社祭神。および同地区の上に位置する葛城一言主神社祭神・一言主神が合体して「たかおかみ神」あるいは「雷いかづち神」のこと。この構図は、高鴨が先住山の神一言主を監視するスタイルで、物部氏のニギハヤヒがナガスネヒコを監視するのと同じ構造。これを筆者は「神霊の監視」と名づけている(そうだじゅん『秦氏が祭る神の国、その謎』2005)。つまり先住民の祖霊が、あとからきた新しい支配者によって配下となることで、祖霊が習合することである。この両者の神がひとつとなったのが要するに高鴨・賀茂大神の神格である。
つまり葛城山の氏族は、神武~崇神の大王系譜よりも古くから葛城地区にいた、先住氏族であり、これを「出雲系」と呼ぶ。出雲のできごとはおそらく葛城での勢力争いを、ナガスネヒコら東北蝦夷などがやってきた日本海側の、それも大和の西=黄泉の方角に移動させた結果の神話である。
「(賀茂大神とは)雄略天皇によって「雷」(別雷神 わけ・いかづち)に改名させられたオホモノヌシの神の別名でもあった」と小路田は書いている。(先述著書)
つまり葛城=南九州氏族=縄文時代の先住海人族の大元=武内宿禰系が、大和縄文系の土豪=大物主を大和から追い出し、勝利した。これが魏志が言う、「邪馬台国と狗奴国」の争乱である。勝者は狗奴国。
ゆえにヤマトトトビモモソヒメを大物主の妻とし=監視する役目の巫女とし、自分たちが祀る中国系大地母であったアマテラスと先住海人族の大山積という、やはり大地の王を(祟らない神ゆえに)遠隔地へ出してまで、大物主という非現実的な、つまり古い原始信仰の自然神を鎮魂するのである。これこそがのちの怨霊信仰の最初の形である。ここでは区別して「祟り神」の移動とする。一種の「神名の交換」でもある。
◆「たかおかみ」
高龗神
「おかみ」は雷で「いかづち」である。
賀茂大神の別名。
全国三島信仰の神で、つまり瀬戸内海人族である水軍らの祭る神である大三島神=大山積神=鹿児島霧島神社の祭神。
高龗神
「おかみ」は雷で「いかづち」である。
賀茂大神の別名。
全国三島信仰の神で、つまり瀬戸内海人族である水軍らの祭る神である大三島神=大山積神=鹿児島霧島神社の祭神。
こうしたことから
味耜高彦根=高鴨=賀茂大神=たかおかみ=大三島神=大山積=天孫の妻・木花開耶姫(このはなさくや・びめ=浅間・富士山の地母神(じぼ・じん))=大物主=アメノホアカリ=ニギハヤヒ
であることがわかる。共通しているのは海の神と山の神の習合した大神。海人族と山の民の合体を表し、それが最初に南九州で縄文時代に起こり、弥生時代にそこに支配にやってきた北部九州大陸系天孫族によって集合させられた結果こういうややこしい構造になってしまったと見てよい。
こうした神話は、結局は大和が最後の勝者となったことで、8世紀に、日本は北部九州から来た天孫によって、南九州海人系倭人が懐柔され、ここから神武という想像上の天皇が、日向という南九州系の聖地(西都原)から海へ出た話にすり替わったのである。とりもなおさず、武内宿禰=住吉神の一族(隼人管理者・有智氏族・内臣)が葛城氏であり、そして鴨氏、三輪氏、物部氏、尾張氏、海部氏、息長氏、和邇氏らが、順次、大和の葛城地域に結集した結果、一族連合化して、天孫というものを作り出し、担ぎ上げたところから「大和での記紀神話」は形成されたのであろう。
しかしながらこれはあくまでも8世紀の為政者が、大和朝廷にとって都合のよい編集をした、豪族たち各自の神話のコラージュなのである。しかも対外的に中国が見たときに、体裁のよい内容に潤色もしただろう。というのは正史というものは、大国と交渉するさいの、自国の歴史をまとめたものだからである。例えばここには九州を長らく管理してきた大伴氏の神話があまり加味されていない。それは大伴氏が大連という、近畿の物部氏と同等の立場にあった、九州の王=伊都国王だったためではあるまいか。
それがなぜ記紀でないがしろになるか?それは磐井の乱と伽耶経営失敗という、大和が都合よく九州の王朝を消すための「いいがかり戦争」の結果、大伴氏を衰退させなければ、大和を独占できなかったからではないか?
だからこそ、継体という出所不明の王が大伴氏や尾張氏、物部氏らによって担ぎ上げられたとき、大和王権はこの一族を即刻消し去ったということではないか?それはつまり
欽明の飛鳥政権による、九州・葛城連合=邪馬台国の抹消である。
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