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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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ヤマトは山門、山の口・邪馬台国も狗奴国も縄文人国家

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大和という地名はそもそも山門である。
山の入り口。
そもそも近畿の奈良の一地名。
奈良盆地を人々が選んで集結した意味は、四周(よもめぐる)山々を燃料になる青き山林が囲んだ盆地だったから。
 
だから「ヤマト」という一地域の地名を、外国が日本を表す「倭」にあてたのは「当て字」になる。
やや強引な当て字であることは誰の目にもあきらかであろう。
その一地名が大和となって日本全体を表す文字になったのも、もちろん奈良が首都になれたからで、強引な当て字である。
 
そもそも日本は「わ」である。
中国がそう名づけた。その前には国名という概念すらなかったわけである。
事情が変わっていれば「竹志」と書いて「つくし」になっていたかも知れないし、「无耶志」と書いて「むさし」だったかも知れない。
「倭」を「大和」に変更した。
これは本来「やまと」に対して「おおやまと」が正しく、それまで黒塚古墳そばの大倭神社の読みは「やまとじんじゃ」であったが、渡来人王族がやってきて「倭氏やまと」と名乗ることを許されたため、それまでの瀬戸内系「倭氏」が「おおやまと」と改名したのである。
 
奈良を代表する大和神社は「やまと・じんじゃ」である。
この「やまと」は本来の「山門」の意味であるというのが小路田泰直である。
大和神社はかつて奈良盆地内に数ヶ所(延喜式に14社ある)あり、一ヶ所ではなかった。
もしこの神社が「山門」神社だとすれば、それは「山口」神社と同じ意味の社名を持っていることになる。
 
山口とは「やまのくち」で、つまり登山口である。
全国に山口神社はかなりあるが、その多くは祭神が変わっていたりするが、当然本来は山の神である大山祇=大山積神だったはずである。
 
大和神社の祭神は現在(この現在は、という観念が神社の祭神分析にはつねに気をまわさねばならないところだ)、
中殿:日本大国魂大神
左殿:八千戈大神
右殿:御年大神
となっている。
中心は「やまとのおおくにたまのおおかみ」ということになる。
だがなぜか境内摂社として高龗神社(たかおかみ=雷)が隣接している。
高龗神は実は大三島信仰の大山祇神社三神の中で一番重要な神である。
そして双方の生まれ方は記紀では別々に描かれる。
オオヤマツミは神話冒頭の神産みでイザナギ・イザナミから生まれ、高龗はカグツチの血から誕生する。
水の神として貴船などでも高龗は祀られているが、京都の下鴨神社では賀茂別雷神=賀茂大神の摂社であり、そもそも丹生川上神社の神でもある。
 
オオヤマツミから生まれたコノハナサクヤは、天孫ニニギとの間に男神の火照命(ほてり(ほあかり)のみこと)・火須勢理命(ほすせりのみこと )・火遠理命(ほをりのみこと,天津日高日子穂穂手見命)を生む。この三神の名前は一般に稲穂であるとされるが、文字は「火」であるので、燃料=炭でもある。
名前から見て、火が次第にもえさかりゆく順番が名前になっており、それぞれが炭・金属精錬・土器燃焼を示す。ちょうど火照命ほあかりが土器・陶器を焼く火に当たることとなる。
陶器がさかんな尾張の神が「アメノホアカリ」であるのは偶然ではない。
 
つまり彼らの祖父であるオオヤマツミとは火=燃料の元となる森林を持つ山であることになる。
それが大和には周囲一面にあった。
だから最初の大和の王は太陽という生命の根源とともに、本来の土地の神でもある森林の神・オオヤマツミを祀っていたはずである。それがつまりオオヤマツミ=倭大国魂だという理由である。
 
そして高龗は賀茂別大神そのものであるので下鴨の摂社となって、いかづち=雷神=龍神=水の神となった。
貴船神社には今、高龗が祭られるが、本来はミツハメノ女神が祀られていたのである。それが鴨氏が祭祀者となって賀茂大神としての高龗を水神とすることとなる。つまり鴨氏は水と火の管理者であったからだ。
それを雷で代表した。
 
山の神=炭の神=水の神という重層構造である。
だから賀茂神社は山にも海にも存在する。そもそも鴨氏が海人族だからである。
 
鴨氏、葛城氏、大伴氏、物部氏、尾張氏、そして隼人たちはこのようにすべて海人族から派生する南方系縄文人である。これが魏志が言う倭人の正体である。
 
したがって狗奴国人も邪馬台国人も海人系縄文人と東北系縄文人だと言える。
魏志はなぜ北部九州西部にいたはずの渡来した弥生人子孫のことを倭人と書かなかったか?
よく知っている人種だったからだ。もともとが長江の文明人であり、それは漢民族が長江流域から追いやった人々の子孫なのである。その人々が、そもそも中国北朝に朝貢などするはずがないし、中国側も倭人として再確認するはずもない。まったく別種の縄文系の人々だったからこそ「倭」と呼んだのだ。
 
そもそも誰が魏志の倭人を弥生人だと言い出したのか?それは歴史学者の勝手な思い込みである。
 
奈良盆地には縄文人がいた。それがナガスネヒコたちである。
そこに倭氏と名乗った海人族が瀬戸内経由で豊後・日向方面からやってきた。
それが先住していたのが大和である。
そしてそれらが銅鐸を持っていた。
しかし、大和には彼らを追い出した戦いの痕跡は皆無である。
つまりあとからきた弥生人は彼らと協調したのだ。
葛城一族や鴨氏たちは結局は最初の大和の王者だった。
 
その海人縄文系王者血脈と、もうひとつの系譜が継体時代に揉めるのである。
それが黄河から来た弥生人だったか、あるいは滅びたはずの邪馬台国系縄文人だったかである。
河内王朝が宰相にした葛城氏や大伴氏。そしてあとから出てくる息長系譜。
継体大王は存在したか?欽明はどっちの血脈かによって、今の天皇家の正体も明白になるだろうと思う。
 
 
 
 
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