弥生人は大陸からやってきた。
1 大陸には大地震や台風などの災害が少なく、当然、弥生人は気象、地殻変動に敏感である。つまり先住者よりも怖がる。天候が安定し、地震や火山のない場所に住みたい。(3・11大地震のとき中国人が日本から逃げ出したことを思い出せ)
2 海を越えてやってくる外敵からも離れたい。
3 水耕栽培のために河川があり広い平野や低湿地が欲しい
4 周囲を城壁状の山々で囲まれていて欲しい
こうした当然の欲望を換算すると、彼らが一番好む地形は見えてくる。
1、3をまず満たしていたのは筑後川流域だが、大陸に近すぎることと、台風が多い
それで次に吉備を選んだが、1.2.3は満たしていたが、湿地が少なく次に河内、しかし海に面しており貿易には最適だが外周を山がとりかこむ盆地ではない。最後に大和の盆地を選択した。中心部に縄文海進のなごりの古奈良湖が残存し、周囲を山の辺に囲まれ、大和川があり、水が湧く。地震も少なく、台風もさほどこない。南に向かいよく日が差す。周囲は天然の要害の山地ばかり。未開発で耕地が多い。条件にあっていた。やがてこの条件に見合う新天地を山背に移転した。
好条件であることはそこに長く滞在できたことになる。反対に悪条件があれば長期滞在はしていない。神武東征記事はそれを証明している。
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もちろん九州を基点とする以外に、山口、安芸、出雲、吉備、但馬、丹後、若狭、越各地を基点とした南下高句麗由来の渡来もあり、一時期吉備・山背・近江などを中継地として大和や東国へ侵入している。
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こうした移動は数世代ですみやかに行われ3世紀中盤には大和が首都としてふさわしい場所であることに落ち着いたのだ。2世紀後半から増える方形周溝墓の多出が、2世紀頃の大移動を物語り、それが安定して周溝墓が巨大化した。このことはほかの弥生墳丘墓の日本海側、太平洋側での東への移動でも、九州北部で同時に起こっており、瀬戸内航路を選択したものが最速で大和に入ることになる。
やがて遅れて日本海、太平洋航路を選択したものが順次入ってくる。
この動きの最も契機になったのはもちろん中国での三国紛争と東北部に独立した燕や北魏の影響が大きかっただろう。
1世紀から3世紀の300年間は、諸外国の事情と災害経験による一大選択、大移動の時間帯だった。激動の時代である。弥生時代は古代の、いや日本史を凝縮した時代といえるだろう。
のちの風林火山。機を見るに敏。九州も吉備も短期政権だったことになる。
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