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法隆寺金堂釈迦三尊像銘文
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼
前太后崩。明年正月廿二日、上宮法
皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
住世間。若是定業、以背世者、往登浄
土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。
前太后崩。明年正月廿二日、上宮法
皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
住世間。若是定業、以背世者、往登浄
土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。
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(読み下し文) 池辺の大宮に天(あめ)の下、治(しら)しめしし天皇(すめらみこと=用明天皇)の大御身労(いたつ)き賜いし時、歳は丙午に次(やど)りし年に大王天皇(推古天皇)と太子(聖徳太子)を召して誓願し賜いて、「我が大御病太平(やすら)ならんと欲し坐(ま)すが故に、将に寺を造り薬師像作り仕え奉(まつ)らんとす」と詔(の)りたまいき、然れどもその時に崩じ賜いて、造り堪(た)えざれば小治田大宮に天の下治しめして大王天皇(推古天皇)及び東宮聖王(聖徳太子)は大命を受け賜いて、歳は丁卯に次(やどり)し年(推古15年)に仕え奉りき
(要約) 池辺大宮(池辺双槻宮)で国を治められていた天皇(用明)が病気になられた丙午(586)年に大王天皇(推古)と太子(聖徳)をよばれて、我が病気平癒を祈願して、寺(法隆寺)と薬師如来像を造るとおおせられた。しかし、天皇が急に崩御されたので造ることができなかった。そして、小治田宮で国を治められていた大王天皇(推古)と東宮聖王(聖徳太子)は、丁卯(推古15・607)年に造り大命を果たした。
「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」
この銘文が本当に7世紀の文体で書かれたかに、いくらかの学者が疑問を持っている。
もちろん仏像そのものの様式も、同じく、後世のものではないかという意見もある。
書体にも疑義が出ている。
詳しくはWikiを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98
つまり後世に、この仏像も銘文もねつ造された可能性である。
最大の理由は「天皇」である。天皇用語は天武を遡らないからである。
また用字法が古くない。
金堂屋根には推古時代の古い材木と天智時代の新しい材木が使われている部分がある。
つまり法隆寺は天智時代に一度修復されたことは間違いなく、そのとき、あるいはもっとあとの聖武時代の光明皇后による銘文だったのではないかと考えられる。
また用字法が古くない。
金堂屋根には推古時代の古い材木と天智時代の新しい材木が使われている部分がある。
つまり法隆寺は天智時代に一度修復されたことは間違いなく、そのとき、あるいはもっとあとの聖武時代の光明皇后による銘文だったのではないかと考えられる。
決定的なのは三尊像を除去したときに、台座に残された漆塗りの空白部分が、円形であったこと、その円にぴったりの仏像は、救世観音像だったこと。そしてその救世観音は明治になってフェノロサが発見するまで、夢殿の中に晒しを巻かれた姿で秘匿されていた。つまり釈迦三尊像はあとからそこに置かれたことがわかった。
過去記事より
3 ★3法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文後世刻印の根拠
●「法皇」という表記があるが、これは法王と天皇を組み合わせた言葉で(福山敏男1935)、天皇という言葉がまだなかった飛鳥時代のものとは思えない。
●「法興」という年号は『日本書紀』だけが記録したもので、法隆寺は法興寺と呼ばれていたからここだけに使われた年号だろうが、そもそも法隆寺が法興寺とも言われたのは『日本書紀』にしか記述はなく、しかもこういう漢風年号の使用は飛鳥時代にはまだあり得ない。法隆寺は飛鳥時代には「アスカデラ」、仏教が入ってから法隆寺、天武天皇の頃には「元興寺」である。法興という年号使用も法興寺という寺名も、実際には飛鳥時代にあるはずもない。
●「知識」「仏師」という語も見えるが、これらも飛鳥時代には存在しないはずの仏教専門用語であり、生まれたのは仏教がかなり浸透してからである。
●銘文は刻印であるから仏像鍍金後にいくらでも刻める。
●金堂改修工事のさいに三尊像が台座からおろされたさいに、そこには三尊像の四角い台座に合致しない、丸い漆の塗り残しが発見された。その後の分析でこの円形にぴったり合うのは救世観音であるとわかった(NHK)。この救世観音像を撤去して釈迦三尊像を置いたのは天智天皇であることもわかった。つまり釈迦三尊像そのものも、飛鳥時代の仏像ではなく天智天皇時代から持統時代のものとされた。
●ということは勿論飛鳥時代の仏師である止利の作品ではない。
つまり鍍金の上から刻印されたこの銘文は後世のものである。
参考文献大山誠一『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』NHKBooks 2009
このことをNHKBSは数年前に分析結果として一旦番組にしてある。にも関わらず、最近の放送では銘文を正しいものとして番組を作った。まったく一貫性がなく、新説をランダムに垂れ流しているだけに見える。
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公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
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