最初は小難しい・・・しかし、だんだんわかりやすくなる。
少々がまんを。
●年輪年代測定法 絶対年代数値への希求
「年輪年代法とは樹木の年輪幅の広狭などの変動を手がかりに、その木材の伐採年や枯死年代を誤差なく暦年でもって、正確に求めることの出来る年代測定法である。すでに、世界40ヶ国以上で考古学、建築学、美術学、地理学などの分野で広く使われている。わが国でも、試行的研究が行われてきた。
「年輪年代法とは樹木の年輪幅の広狭などの変動を手がかりに、その木材の伐採年や枯死年代を誤差なく暦年でもって、正確に求めることの出来る年代測定法である。すでに、世界40ヶ国以上で考古学、建築学、美術学、地理学などの分野で広く使われている。わが国でも、試行的研究が行われてきた。
日本列島は気候が多様で地形の変化に富んでおり、樹木の年輪は、各地域の環境差を年輪形成に反映する。そのため共通した変化変動を見ることは出来ないという考えが支配的であり、わが国での年輪年代法の実用化は難しいとされてきた。
奈良文化財研究所は1980年から、この実用化を目指し、約三年間の試行の結果、ヒノキ、スギ、コウヤマキなどの年輪は、年輪年代法に適していることを明らかにし、年代を割り出す際に基準となる暦年標準パターンの作成を順調に進めた。」
(*きっかけは考古学の坪井清足・上田正明らと民俗学の田中琢の強い望みで1996年4月、日本の奈良文化財研究所の光谷拓実が大阪府池上曽根遺跡の大型建物1の柱材(ヒノキ)の年輪年代を調べ始めたときから開始 Kawa)
以下、難しいので読み飛ばしても結構。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

「 本法の原理は樹木の年輪幅を10ミクロン単位で計測し、その変化を経年的に調べていくと、生育環境が似かよった一定の地域のなかでは、樹種ごとに固有の年輪変動パターンを描くことに基づいている。こうした性質を持った樹木の年輪パターンを手がかりにすれば、同年代に形成された年輪かどうかの判別が、指紋の照合のごとく可能となる。年輪がほぼ同じ様に変動変化しているかどうかの検討がこの方法研究の第一段階であった。
第二段階は年代を一年単位で割り出す為の暦年標準パターンを前もって作成することである。暦年標準パターンの作成は、最初に伐採年の判明している多数の現生木試料から、年輪幅の計測値(年輪データ)を収集し、これを総平均する。これにより個体差が消去される結果暦年標準パターンを作成することができる。
つぎに、古建築部材や遺跡出土材を多数収集し、それから計測、収集した年輪データを用いて作成した年輪パターンと、すでに作成済みの暦年標準パターンを順次照合していく。その重複位置で連鎖すると長期に遡る暦年標準パターンが作成できる。年輪パターンの照合は、年輪パターンそのものを肉眼で観察する場合と、年輪データを統計的に処理する場合とがある。肉眼で観察するためには、横軸に等間隔で年代をとり、縦軸には各年の年輪幅を片対数グラフにプロットし、鋸歯状の折れ線グラフを作成する、これが年輪パターングラフである。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

図をいっぱい入れて読んでもらおうと必死に努力Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

Clik here to view.

Clik here to view.

一方、統計的処理はコンピュータを用いて時系列解析の相関分析手法によりおこなっている。」
詳しく知りたい人はこちらから
http://www.honnet.jp/metro/kodaishi/k212/kodaishi02.html
http://www.honnet.jp/metro/kodaishi/k212/kodaishi02.html
●暦年標準パターン
現在、日本の年輪年代法の完璧な資料としてはスギ、コウヤマキ、ヒノキの三種(光谷1987)である。これを日本の「暦年標準パターン」と言う。
スギは建築材として、コウヤマキは棺やもがり舟材として、ヒノキは建築材などとして多用されるためであるが、縄文時代建築用材の主流であったクリについては、「現生から過去にわたる長期的な年輪のものさしである標準パターンと出土木材の年輪パターンを合わせることにより暦年代を決定することも可能」という程度の段階。欧米では多くの遺跡においてこうした年輪年代学的解析が行われているが、日本では遺跡出土木材を用いた年輪解析はほとんど行われていない。そのため、長期にわたる標準変動パターンのためのデータが不足している。しかし、標準パターンが無い場合、放射性炭素(C14)年代と年輪年代を併用したC14ウイグルマッチングによって高精度での暦年代決定を行うことが可能である。
●ウイグルマッチングによる暦年代決定
二つ以上の科学的分析数値が一致すればその数値は○であるという方法
「年輪年代では出土材の相対的な年代関係は求められるが、暦年代決定にはものさしとなる標準パターンが必要である。しかし、この標準パターンが無いため年輪年代学で暦年代決定を行うことが出来ない。そこでC14年代測定とC14年代較正曲線(Intcal04)を利用したC14ウイグルマッチング法によって暦年代決定を行った。
測定されたC14年代は較正曲線を用いて暦年代に変換される。較正曲線の変動はその凸凹した形状からwiggleと呼ばれる(図2)。このwiggleのため、C14 年代の年代較正を行った時、得られる暦年代が複数候補あったり、誤差がC14年代のものと比べ非常に大きくなったりする場合がある。しかし、1試料内で年代間隔の分かった複数の試料を得ることが可能な樹木の場合、逆にこのwiggleを利用することによって高精度・高正度の年代較正を行うことができる。」(中村 2003)
ここからが大事!
これ以下がKawakatu独自の行動民族考古学の真骨頂。
●樹木の乾燥(天乾 AD=AirDry)
樹木の伐採年代が数値で出たとしても、伐採と建設の間には長い乾燥期間が必要である。
樹木の伐採年代が数値で出たとしても、伐採と建設の間には長い乾燥期間が必要である。
その工程はほぼ2年以上かかる。
まず伐採された樹木は種類によって半年からまる一年、天日乾燥され、角材にしてさらにADさせたあと、現代では機械乾燥させるため、ほぼ2年もあれば実用木材になる。
これが古代などでは天日乾燥であり、しかも生木一本まるごと乾燥させるわけだから、それほど短期間で使えたわけではない。また、乾燥すれば当然、樹木は反り、割れが生じ、使えなくなることもある。出雲大社で出土した大木を三本、縄で縛った状態での使用は、強度のためもさることながら、そうした材木の事故を防ぐ意味合いもあったのではないか。一本ごとにもきつく縄で絞めておいて、乾燥させたのだろう。
大阪府の池上曽根遺跡で、1996年(平成8)にヒノキ材が出土。年輪年代法で分析したところ、なんと紀元前52年という数値が出て、論議が紛糾したことがある。池上曽根遺跡は土器編年から1世紀半ば(弥生時代中期後葉)と推定されており、これではあまりに時期が早すぎる。土器編年組から当然、大反対意見が続出した。学者も人間、縄張り意識が、冷徹な数字を認めたくない傾向は確かにある。穴掘り屋の多くは職人気質になりやすく、文系考古学にとって年利年代法や放射性炭素年代法といった科学的数値の判断に反発してしまう本能があるらしい。もちろん数値も確かに間違いがあることがる。
いかに数字が冷徹に科学的に導いた年代でも、その遺物には必ず古代の人間の手が入るのであり、特に材木などは乾燥期間や樹木霊魂への作法など、その他あれこれで、古代人がどれほど一本の伐採樹木に時間をかけていたかなど、なかなかわかるものではない。この池上曽根のヒノキが、もし数値どおりの紀元前に伐採された木材であっても、そこから何年かの天日乾燥、皮むき、加工後の乾燥などのどれくらい時間をかけたか、またいよいよ建造物を作るときに、現代人が考えも及ばない祭祀による「鎮魂」「安全祈願」「永遠」などの願い事をしたか、これもその時間は推定しようがないのである。さらに、木材が湯水のようにあったわけではない時代にそれがどれだけ貴重品で、何度もの転用をされているかも、これまた数値には表れないのである。これらつまり文章で言うなら「言外(数値外)にある」準備期間、モノ忌みの時間の長さ、白鳥の水の中の足のような隠された時間の経過は、まったく予測がつかないのだ。
紀元前52年にこのヒノキが伐採され、池上曽根で建材として使われるまでに、100年の隔たりがある。その100年間、さてこのヒノキの越し方は、まさに古代史の「謎の四世紀」にも匹敵するほどの謎の100年だったわけである。
2005年(平成17)、櫻井市の纏向勝山古墳の周濠(しゅうごう)からほぼ一本木をカットしたヒノキ角材が出土。サイズは縦26cm、横41cm。推定伐採年代は3世紀初頭と発表された。しかしこの木片には樹皮残存がなく、実際の大きさが不明であったため、当初の数値は西暦199年と出ていた。そこに人的考慮による補正がなされて3世紀初頭となった。この「人的推測」が実は怪しいとも言える。いわゆる纏向勝山を卑弥呼の直前時代にマッチさせたいという近畿学者の意向はそこにはなかったか。そこが見えないから疑わしいことになる。勝山の土器群は土器編年からは3世紀後半だったからである。
もし3世紀初頭伐採の材木の、それが建材の端切れだったとするならば、この古墳は、纏向古墳群で最古、言い換えれば日本最古の古墳であることになるのである。しかし199年にすでに伐採され、ADを経たのち、土器編年どおりの3世紀後半になって使われたのならば、勝山古墳こそが卑弥呼の死んだ時間帯の古墳?ということになるわけだ。纏向勝山こそが卑弥呼の墓と言ってもわれわれは別にいいのである。しかし、発表は3世紀初頭になった。ならばそこから数十年後の3世紀後半の古墳に使われたのでは早すぎる・・・と考えたのだろうか?池上曽根の材木の、あまりに早い伐採数値が、古代の天乾や転用の100年間を分析者に考慮させる結果にならなかったかは気になる。
こういうことなので、数値といえども人の手にかかれば、本当に厳正なものかどうかも判断ができなくされてしまう。これが人間である。こんなことだから考古学がいつまでも信用されないのではないのか?
こうした流れから再燃しはじめた大きな謎のひとつが、法隆寺再建・非再建論争だった。法隆寺「心柱」の年輪年代測定値が、594年(推古2年)と出た。そして屋根材の数値が624(推古32)~663年(天智2)と出る。古い木材と天智時代の木材が混ざっていたわけである。つまり結果的に、法隆寺は間違いなく再建、あるいは修復があったのだということに落ち着いた。現代でも、歴史的建造物の大修復では、極力古い材料を、使えるものなら再利用する手法が取られており、当時もそうだったはずである。ただ気にかかるのは、白村江敗北で、唐が攻め込むかも知れない機運の中での再建である。ここを疑うものも当然いる。筆者は逆に考える。天智時代に、実はそういう機運などなかったと。それは創作された『日本書紀』のうそであったと考えるのである。
中国ではその頃、新羅にそれ以上の助力もしていない。なぜならそのときの唐の高宗皇帝は高句麗さえ滅ぼせば、それ以上のいくさはしたくなかったのである。高宗という人は、欲のない性格で、ほとんど政治にも興味をしめさない人であった。だから高句麗を滅ぼして絶頂期を迎えると、もう趣味の人に落ちており、だからこそ則天武后の台頭を許してしまうのである。日本はつくづく運のいい国である。
天智はそれを知っていた。だから国内での海外出兵敗北によった自分の人気度を、いかに高めるかに腐心してよく、そのための空騒ぎ演出だった。防人九州出兵も、水城や山城建設も、そして法隆寺再建による聖徳太子を国家統一スローガンにした。それは同時に、「白村江敗北は滅ぼした蘇我氏の祟りだ」「だめ大王だ」と言われないがための「逆手」にとる作戦であった。蘇我氏出身の過去の聖人の噂が宮内に存在したのを、それまで以上に燃え上がらせる。それは自分が殺した蘇我氏の祟り封じと鎮魂にもなる。そして厩戸こそは聖人君主の誉れであったとし、自分の反対勢力・・・つまりかつての蘇我氏残存氏族の援助を画策したのである。この空騒ぎによって日本は唐に対して一丸となって立ち向かうことにならざるを得ない。何しろ外敵相手に内乱している場合ではないと思い込ませればよかった。こうしてどさくさの中で天皇となっているのが天智である。
旧石器ねつ造問題以後、旧石器考古学では光ルミネッセンス年代測定法を使うようになった。これは石英や長石などの鉱物に光を照射して発光するルミネッセンスが被爆した放射線量に比例する性質を用いている。最初は長崎県の入口遺跡の石器で使用され、それが発表された。これはあの上高森遺跡での石器ねつ造によって、土壌はすでにC14測定法で旧石器時代のもので間違いない数値(約52万年前)が出ていたのに、石器の大嘘がおきたために、その土壌数値まで疑われたことへの反省からである。
上高森遺跡の名誉のために言うならば、あの場所は石器など出なくても、すでに間違いなく旧石器時代の遺跡だったのである。それは知っていてねつ造を行ったのが彼である。まさに計画的犯行と言える。そしてその遺跡に彼が置いた石器は縄文時代のものだった。学者たちはそこが旧石器時代の遺跡であることに核心があったから、なおさらそれを疑わなかったのである。石器の時代の相違などすぐにはわかるものではない。そもそも石器が出る出ないは、問題ではなかった。ただ彼の置いた石器は穴掘り屋には欲しい物的証拠だった。それが一番大きかった。これもあまりに人間的な欲望による錯綜である。
科学は数値。数値は正しい。しかしそれを扱い、理解する人間には常に問題がある。そして数値はその奇妙な人間の行動を推測することは決してできない。
Image may be NSFW.
Clik here to view.![イメージ 1]()
Clik here to view.
ロボットは今後もあらゆる世界に入り込んでくるだろう。ロボット科学者がラジオで語っていた。しかし、家事、台所仕事、掃除・洗濯という主婦たちの仕事まで肩代わりするロボットの登場は最後の最後になるだろう、あるいは不可能かも知れないとも語った。
人間の手作業、行動には、機械や数値では手の届かない、素晴らしい動きが存在する。主婦の仕事は多種多様でありすぎて、ロボットには困難だと言うのである。それは科学の限界が、外へ向かう宇宙ではなく、インナー世界、人間の生物としての構造にあることを言っているわけでもある。
高い棚の上にある鍋を動かして、ふき掃除し、鍋はコンロで湯を沸かし、出汁をとり、味噌汁を作る。ロボットには、おそらくそれすらできないだろう。確かに人間は不可解だ。うそもつく。ねつ造もする。しかし、同時にすべての人間はロボットよりもスムーズに、一度に多くの作業をやりこなす。同時にいろんなことを考える。
Image may be NSFW.
Clik here to view.![イメージ 2]()
これくらいならできます。Clik here to view.
ロボットは主婦には勝てない。つまり卑弥呼や持統天皇に、学者は勝てないってことだね。永遠に。
Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U