「3 オオツタノハ製貝輪のなぞ 縄文時代や弥生時代に使われた貝輪素材のなかに、「オオツタノハ」というかわっ た貝があります。 この貝の腕輪は、貝輪全体の数からみると決して多くはありませんが、その見つ かり方などに特徴があります。 縄文時代のオオツタノハ製貝輪の特徴は、 ① 広域分布 ② 一箇所にまとまった見つかり方 にあります。 オオツタノハ製貝輪は、これまでに200点ほどがみつかっています。 その分布は愛知県から北海道まで東日本のほぼ全域におよびます(図3)。 | |||
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図3 縄文時代のオオツタノハ製貝輪分布図 | |||
この地域からみつかっている貝輪の総数は約5,000点あるので、この時期のオオツ タノハ製貝輪の比率は5パーセント程度ということになります。 2から3点ほどだったことになります。 つかる事例があります。 なかたちの二つの土器の中から、オオツタノハ製9点を含む計51点の貝輪が発見され ました。 オオツタノハ製貝輪の検出事例は縄文時代と比べるとかなり少なくなってしまいます が、それでも100点ほどが知られており、一遺跡からみつかる数は縄文時代よりむし ろ多くなる傾向があります(図4)。 | |||
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図4 弥生時代のオオツタノハ製貝輪分布図 | |||
発見場所は、 けての遺跡です。 れました。 残した人たちがどこから来たのか、日常的にどんな生活をしていたのかなどを知るた めの貴重な資料となりました。 されました。 などでした。 。
あったにもかかわらず、最小個体数にしておよそ40点のオオツタノハが発見されまし た。 ることを考えると、非常に膨大な量といえます。 であったことから(図5)、この遺跡が弥生時代にオオツタノハ製貝輪の材料の入手 と加工を手がけた人たちが残したものであることがわかったのです(三宅島ココマ遺 跡学術調査団2009、三宅村教育委員会・島の考古学研究会2010)。 | |||
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図5 三宅島ココマ遺跡出土のオオツタノハ | |||
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オオツタノハ貝輪製作復元(その1) | オオツタノハ貝輪製作復元(その2) | ||
ほど知られています。 理がなされていない「未製品」の状態であることがわかりました。 こを拠点にオオツタノハ製貝輪生産をおこなっていたのかもしれません。 とみられます。 ノハ製貝輪がみつかっています(写真3、市原市教育委員会2007)。 | |||
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写真3 西広貝塚出土のオオツタノハ製貝輪 | |||
この数は、これまで東日本でみつかっているものとしては一遺跡の出土数が最も多く 、西広貝塚が各地の貴重品の行き交う重要な位置を占める場所にあったことがわかり ます。 ています(財団法人市原市文化財センター1989)。 集落遺跡からの出土としては東日本では唯一のものです。 | |||
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写真4 東千草山遺跡のオオツタノハ製貝輪と出土遺構 | |||
前に述べたように、弥生時代以降になるとオオツタノハ製貝輪は土器棺や墓など 人 の埋葬にともなってみつかるものが主体となるため、人びとが暮らすムラでどのよ う に扱われていたのかを知ることができません。 半島の中心市原の地まで届けられ、またこの地を経由してさらに内陸部や北の地 (現在知られている縄文時代の最北遺跡は洞爺湖町入江貝塚)まで到達していたこ とには驚嘆せずにはいられません。
一つで、岩などに張りついて生息しています。 す。 は、南九州の大隅諸島・トカラ列島の島々、そして伊豆諸島南部の鳥島と書かれてい ます(佐々木ほか1994、図6)。 | |||
つまりそれ以外の場所での生息は確認されていないのです。 いことは、考古学者を悩ませる最も大きな要 因でした。
ハ製貝輪の分布は極端に東日本に片寄って おり、南九州からこれらの材料がやってき たと考えるには無理があります。 、この島が東京から600㎞ほども離れた孤 島であることから考えにくいからです。 示す証拠から考えると、伊豆諸島南部にオ オツタノハの生息地があることが最も理解 しやすいのです。 黒潮の影響を強く受けるため、高緯度地帯 でありながら魚類・貝類の様相は南九州や 紀伊半島南部に似た状況を示します。 伊豆諸島南部に、オオツタノハが現在でも 生息している可能性は十分あるといえます。 | ![]() | ||
図6 通説によるオオツタノハの分布域 | |||
「幻の貝」・オオツタノを追う本格的な調査を、八丈島・三宅島・御蔵島にておこないました。 成功し、東日本では従来からオオツタノハ生息の条件と言われていた北緯30°よりも 遥かに北の伊豆諸島南部海域にも分布する事実がつきとめられたのです(写真5・ 図7、忍澤2011)。 | |||
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写真5 伊豆諸島南部海域で生息を確認したオオツタノハ | |||
![]() 図7 調査で確認できたオオツタノハの生息域 | ![]() | ||
めて海をわたり、材料の貝や加工した製品が移動したルートのことを「貝の道」と呼 んでいます(木下1996)。 ウガイ・スイジガイ・オオツタノハなどのやりとりをした「西の貝の道」です。 に多量に入れられるようになります。 てやりとりされます。 ヤクシマダカラ、大型のイモガイであるカバミナシが主にペンダントなどの素材とし て利用されます。 く変わっていった可能性があります(図8)。 | |||
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図8 弥生・縄文の「貝の道」 | |||
ところで、東西の貝の道に共通して登場するのがオオツタノハで、いずれの地域で も貝輪の素材としていることが注目されます。 らず、東西の離れた地域で同様の目的でこの貝を求めていることは、人とこの貝の不 思議な関係を考えずにはいられません。 の島で長年暮らす人たちでさえ、ほとんどその存在を知らず、ひっそりと身を潜める ように生息している貝です。 に張りついているため、大潮の最干潮時間帯でなければ姿を現しません。 灰分などがびっしりと付着し、完全に周囲の環境に溶け込んでいて容易に発見でませ ん。 りしない滑りやすい岩礁地帯で、絶えず打ち寄せる荒波に向いながら、吸着力がすさまじい大型の平らな貝を剥がし取るのは決して容易なことではありません。 てい思えないのです。 ったのでしょう。 た「ベンケイガイ」にも劣りません(図2)。 ある淡いピンク色または濃い紫色ともいえる何とも言えない独特の色合いが出てきま す。 きと写ったのかもしれません(写真6)。 | |||
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写真6 オオツタノハ製の貝輪(復元) | |||
さらに、他の貝種にはない「稀少性」、このことがオオツタノハへの魅力を後押し したのではないでしょうか。 オオツタノハ製貝輪が東日本全域に広がるのは、まさにベンケイガイ製貝輪が大流 行するのとほぼ同時です。 ベンケイガイによって「一般化」した「貝輪装着の習慣」は、新たな素材への探求 心に火をつけ、海を渡った孤島でこの貝を発見するにいたったのかもしれません。」 以上長文引用 以上の引用文は、忍沢成視の著作『貝の考古学』に詳しい。 筆者は著作を転載するつもりだったが、本人のサイトに同様の文章があったので、 これをそのまま転載させていただいた。 貝の道は、これまで琉球諸島周辺のイモガイやゴホウラ、あるいは九州周辺のスイジ 貝などをメジャーなものとして記事にし、その縄文時代からのルートをクローズアッ プしてきたが、伊豆諸島を経由する東日本~北陸~北海道に及ぶ「もうひとつの貝の 道」「東の道」があることがわかった。 縄文人と弥生人は、やや違ったルートをそれぞれ切り開いたわけだが、東日本一帯で は、これ以外にマイナーな貝類までも貝輪にしており、それは西の貝の道とは異質な 、巻貝の渦巻きだけにはこだわらぬ、二枚貝さえ利用している。巻貝の渦巻きは、い つも言うように、彼らの死生観・・・再生のシンボルであったわけだが、二枚貝では そうした渦巻きは期待できない。ある意味代用品であったかと見えるが? 関東以北でも、巻貝の南海産イモガイによく似た貝類は使用され、そこに西の死生観 との違和感はない。まして東北周辺には、イモガイ断面を模式した土製渦巻き、Sラ インの勾玉状のペンダントやらが出る。 基本的に、貝輪や勾玉型製品は、やはり再生や永遠、胎児=魂の形状を身につけよう とする観念があふれている。 こうした東西共通観念、縄文・弥生とに通じる死生観の、西から東への伝播(あるい は単独での偶然の類似?)を考えると、どうもやはり北緯30度線で、奄美大島と小笠 原・伊豆諸島が横一線で、実は決して遠く離れている地域ではなかったことに思いが いたるのである。 日本人の海を渡る時期として、考古学では、これまでどおり、縄文時代早期あたりを 開始時期と考えており、忍沢もその説をとってはいるのだが、筆者は、縄文以前から 、人類は渡海能力を持っていたのではないか、それは日本列島にやってきた旧石器時 代人にもある のではないかと思えるのである。 今から五万年ほど前、人類はボルネオからオーストラリア大陸へと、確実に渡ってい る。 またもっと以前、人類出アフリカの30万年前の原人のころ、アフリカ東岸からアラ ビア半島へ渡り、また海を渡ってパキスタンあたりに上陸している。それが西欧の考 古学の定説となっている。 日本の旧石器人だけが、遅れて3万年前、凍ってつながっていた陸路でやってきたと いう日本での定説は、もしかすると近々、ひっくり返るかも知れないのだ。多くの世 界の遺跡は、10~5万年前に人が来た数値をはじきだしている。日本は大きく遅れ ているのだ。それは氷期での大陸との陸続きがあったことと、縄文海進後の海の高さ 、渡海を困難にしたという常識からである。 しかし、もっと古くは、やはりボルネオとオーストラリアの「決してつながらなかっ た海域」を越えたホモ・フローレンシスという小さな原人さえいたのである。 サルでさえ、木片一枚で海をわたる。いわんや人類をや。 少なくとも、奄美や琉球から、小笠原へ、人々は行き来できたいたと考える。 その証拠に、小笠原にははるかなポリネシア・ミクロネシアから島嶼伝いに到達した 子孫がちゃんと住んでいるではないか。南島とまったく同じ石棒も小笠原で出るでは ないか。 リングオブファイアの渦巻き型ルートは、ベーリング海から日本列島、台湾からフィ リピンを迂回して、マリアナ海溝、日本海溝沿いの火山地帯の島々を伝って最後は伊 豆の富士山へと、永遠の渦巻きを描いてつながっているのだ。 貝の道は、その形状もまた、永遠の渦巻きを描いていたのである。 |
以前も取り扱ったことのあるオオツタノハガイは、日本での生息地は北緯30度
線上にあって、奄美大島諸島界隈と、小笠原諸島の鳥島~三宅島が中心だった。
ところがよく調べると、北緯30度よりもずっと北の伊豆諸島にも分布している
ことがわかった。