<古墳出土>小さなガラス玉…ササン朝ペルシャからはるばる
香川県まんのう町教委は30日、町内の古墳から出土したモザイク模様のガラス玉(直径1.45センチ)が奈良文化財研究所の調査で、西アジアのササン朝ペルシャ(226~651年)産と判明したと発表した。当時から盛んに交易が行われてきたことを示す史料とみている。
町教委によると、ガラス玉は同町羽間の「安造田(あそだ)東三号墳」(7世紀初頭)から1990年に出土した。古墳は直径約12メートル、高さ約3.5メートルの円墳で、香川県内では中規模クラス。被埋葬者は当時、この地域を支配していた上層階級の人物とされる。西アジア産のガラス玉は国内では他に宮城県で出土例があるのみで珍しいという。
モザイク玉の分析は、同研究所が昨年8~9月に実施。金太郎あめのように棒状の赤や白、紺色のガラスを複数重ね合わせ、束ねたものを切断して丸める高度な技術が使われていたことが判明。ガラスの種類や着色方法の分析からササン朝ペルシャが生産地とみられるという。
分析にあたった同研究所埋蔵文化財センター保存修復科学研究室の田村朋美研究員は「ユーラシア大陸の東西を結んで繰り広げられていた、古代の交易の一端を実証的に示すことができた」と説明している。【山中尚登】
町教委によると、ガラス玉は同町羽間の「安造田(あそだ)東三号墳」(7世紀初頭)から1990年に出土した。古墳は直径約12メートル、高さ約3.5メートルの円墳で、香川県内では中規模クラス。被埋葬者は当時、この地域を支配していた上層階級の人物とされる。西アジア産のガラス玉は国内では他に宮城県で出土例があるのみで珍しいという。
モザイク玉の分析は、同研究所が昨年8~9月に実施。金太郎あめのように棒状の赤や白、紺色のガラスを複数重ね合わせ、束ねたものを切断して丸める高度な技術が使われていたことが判明。ガラスの種類や着色方法の分析からササン朝ペルシャが生産地とみられるという。
分析にあたった同研究所埋蔵文化財センター保存修復科学研究室の田村朋美研究員は「ユーラシア大陸の東西を結んで繰り広げられていた、古代の交易の一端を実証的に示すことができた」と説明している。【山中尚登】
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かねてから、飛鳥時代にペルシア建築士らの来訪があったことを主張してきたが、今回は地方の終末期古墳からガラス玉が出土した。畿内に近い四国の香川(讃岐)のこの古墳の築造時期は7世紀初頭(600年代のはじめ)で、やはり飛鳥時代に持ち込まれたものである。
592年に推古女帝が即位し、時代は蘇我氏の摂政時代である。600年には遣隋使が中国へ向かっている。おそらくこのペルシア玉は中国隋を経由して、讃岐にえにしのある誰かが手に入れてきたものか?
「インドよりも西のペルシャやローマの文物の到来は古墳時代はおろか、弥生時代後期にまでさかのぼります。京都府長岡京市の宇津久志1号墳(5世紀前半)で出土した重層ガラス玉は、1~4世紀の帝政ローマ領内で製造されたものと同成分だったとされます。また、広島県三次市東酒屋町の松ヶ迫矢谷遺跡(3世紀前半)から出土したガラス玉3点(直径約1センチ)も、古代ローマ帝国で作られたガラス素材であることが判明しました。
6世紀にはペルシャのガラス椀(大阪府羽曳野市安閑陵古墳出土、正倉院宝物のそれと酷似)ももたらされております。
日本書紀には「(孝徳白雉五年=654年)夏四月に、※吐火羅国(とくわら・とから)の男二人・女二人、舎衛(しやゑ)の女一人、風に被ひて日向(ひむか)に流れ来たれり。」と、ペルシャ人の漂着記事があります。
シルクロードよりも海路での、奈良時代以前の文物情報流入が考えられます。」
(※吐火羅国についてはバクトリア支配下の遊牧国家トハリスタン(アフガニスタンあたり)、日本南海のトカラ島説意外に、インドシナ半島タイにあったドヴァラヴァティ王国説がある。)
「奈良時代、聖武天皇の時代まで下ったとき、鎮護国家仏教というのは、疫病や飢饉に実際的効用があるとかではなく、中国への対抗原理としての国防上の実質的な「遠交近攻」策として、インド的なものへの接近が国を守るという発想ではなかったのでしょうか?実際に相互に政治的に交流してはいないので、あくまでの「気分」としてでしかありませんが。しかしながら、気分や思いの底流には現実の理解や状況把握が横たわっていると思われます。日本は仏教によって中国の彼方と繋がり、中国一辺倒や丸っと中国に吸収されてもおかしくない地政学的条件に風穴を開けようとしたのだと無理やり考えたいと思います。中国経由ではあっても中国のその先の遠くインド、中東、ペルシャにまで延びる世界の智慧、教えに概念上の遠交を期したところがあったと。それを主導したのは聖徳太子と蘇我氏です。もっぱら隋から学んでいるにもかかわらず、眼差しは中国のかなたを見据え、思いは三国世界観の形成に主眼があったという、斑鳩はカリンガ、飛鳥、明日香はアショーカ王に由来しているという以上の暴論です。
552年、百済の聖明王の使者が欽明天皇に仏像と経論数巻を献じました。仏教を取り入れるや否や( 西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不)という欽明天皇の問いかけに、稲目はこう答申しています「大陸の優れた文化であり、西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。」(西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也)
一般的には西蕃諸国は高句麗、百済、新羅を指します。ここで言う西蕃とは、仏像をもたらした西蕃(のうちの百済)をうけてのことですから、単に朝鮮半島のことだったのでしょう。
中国では西蕃と言えば中央アジア、インド、チベットを指します。東夷、西蕃、北狄といった中華的表現なのです。これは明代以降ではなく少なくとも唐代からです。これは日本を中心にしていないのでそう(西蕃=インド)なのでしょう。日本の西蕃が、言い回し表現が同じであれ、指示しているのが中国のそれであるはずがありません。「日本書紀」(720年)においては、天竺・震旦・本朝の世界観はなく、せいぜいが西蕃を従えた天皇支配の日本というアイデンティティしかないので、この表現だけで無理があります。東夷=日本では「なく」、西蕃=インドでは「ない」世界観が「日本書紀」の世界観です。ただ、日本書紀に記された文章ではなく、現実の歴史の事象のただ中で、仏教自体がもつ「三国世界観」が、似非中華表現である「日本書紀」の世界観とは異なるものなのであり、仏教が朝鮮半島の発祥ではない(中国ですらなくインド発祥である)ことは、その世界観とともに伝わっていたはずと推測することは、そんなに無理なこととは思えません。」
少なくとも、7世紀初頭に隋を通じてペルシアなどの文化を讃岐の豪族が知っていたということである。
※安造田(あそだ)東三号墳
安造田東三号墳はまんのう町羽間に所在する六世紀後半~七世紀前半の横穴石室を持つ古墳である。
古墳は平成二年に発掘調査が行われ、須恵器・鉄製馬具・鉄器・ガラス製品など多彩な副葬品が出土した。中でもモザイクガラス玉は国内では他に発見例が無い貴重な遺物である。
古墳は平成二年に発掘調査が行われ、須恵器・鉄製馬具・鉄器・ガラス製品など多彩な副葬品が出土した。中でもモザイクガラス玉は国内では他に発見例が無い貴重な遺物である。