●日本に来たペルシア人全記録(奈良朝以前。古い順)
①『日本書紀』欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)。王有陵陀はペルシア音では「ワイ・アヤーリード」、潘量豊丁有陀は「 ボリヤワーデン・アヤード」であるという。
②『日本書紀』崇峻元年(587?)春に「寺院の建築士であるダラミタ、モンケコシ。露盤(ろばん=露盤は塔の屋根頂部に置いて雨仕舞の役割を果たす建築部材)博士であるショウトクハクマイジュン。瓦博士のマナモンヌ、ヨウオキモン、リョウキモン、シャクマタイミ。画工のビャッカ」を百済王が贈ってきた。伊藤義教
③『日本書紀』孝徳白雉五年(654)夏四月に、※吐火羅国(とくわら・とから)の男二人・女二人、舎衛(しやゑ)の女一人、風に被ひて日向(ひむか)に流れ来たれり。」と、ペルシャ人の漂着。
④『日本書紀』斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着した。(③の記事を斉明朝に置き換えた同じ人々だと考えられる。『日本書紀』には、同じことを何度か流用してしまう癖がある。日本を国際的な国に見せたいのであろう。)
また、その後譚として、
・斉明五年(659)三月
「吐火羅人とその妻、舎衛女漂着し、甘樫の丘の東の河原(飛鳥川か?)で須弥山を造り、陸奥と越(こし)の蝦夷(えみし)に饗応」
・翌五年(660)五月
「石上の池のほとりに廟塔(びょうとう。仏教石塔)ほどの大きさの須弥山を造り百済が献じた異邦人四十七名を饗応した」
「石上の池のほとりに廟塔(びょうとう。仏教石塔)ほどの大きさの須弥山を造り百済が献じた異邦人四十七名を饗応した」
・斉明六年(661)七月十六日
「さきの都貨邏国の首領、乾豆波斯達阿(かんずの・はしの・だるあ、かんずはし・だるあ、サマルカンドのペルシャの王族のダルアという意味になるか?)が本国に帰りたい旨要求し、途中まで見送りの共の者を請求。妻を残して西海へ向けて帰っていった」ともある。
「さきの都貨邏国の首領、乾豆波斯達阿(かんずの・はしの・だるあ、かんずはし・だるあ、サマルカンドのペルシャの王族のダルアという意味になるか?)が本国に帰りたい旨要求し、途中まで見送りの共の者を請求。妻を残して西海へ向けて帰っていった」ともある。
⑤『続日本紀』天平8(736)年8月,遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人李密翳(り-みつえい)。同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師,楽人,幻術師,商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが,正倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して,官営工房などに属し,技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。(森公章)
⑥『続日本紀』天平勝宝6年(754)鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)
以上、2011年の当ブログ記事「飛鳥のペルシア人」シリーズ1~8で得た知識に、今回コメントにいただいた①記事を追加してまとめてみた。④に関して、過去筆者は飛鳥寺の建造には、ペルシア建築士と飛騨の蝦夷らが関わったと推定した。
飛鳥のペルシア人シリーズ1~8全ページリンク
2011年9月3日から五日間に渡って連載したもの
飛鳥を造ったペルシア人 新シリーズ まだまだやめられないhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094135.html
飛鳥のペルシア人 2 亀・飛鳥寺伽藍・エンタシスと飛騨匠http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094686.html
飛鳥のペルシア人 3 ひらいけん・日本海蝦夷・巨木建築・出雲大社・そして飛騨http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094988.html
飛鳥のペルシア人4 トカラ国から来た男女と盂蘭盆会http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54097207.html
飛鳥のペルシア人5 まだら(斑)
飛鳥のペルシア人6 司馬達等と鞍作氏と蘇我入鹿考http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54104131.html
飛鳥のペルシア人7 王族か商人か?舎衛は王女かただのメイドか?http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54104152.html
舎衛 追補 ペルシア王女も王も来てはいないhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54104553.html
飛鳥のペルシア人8 狂心渠と聖徳太子血脈の抹殺とシュメールhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54106470.html
最後に、シリーズ1・2のさわりだけを再掲載しておきたい。
「『日本書紀』崇峻元年春に「寺院の建築士であるダラミタ、モンケコシ。露盤(ろばん=露盤は塔の屋根頂部に置いて雨仕舞の役割を果たす建築部材)博士であるショウトクハクマイジュン。瓦博士のマナモンヌ、ヨウオキモン、リョウキモン、シャクマタイミ。画工のビャッカ」が来たとある。
京都大学名誉教授の伊藤義教氏はペルシア学の権威であり、これらの名称を考察した。
それによると、中世ペルシャ語でダラミタは、そのまま寺工を意味し、コンケコシはテント型のお堂をさし、ショウトクハクマイジュンは露盤、マナモンヌは屋根葺き、ヨウキモンは丸瓦、シャクマタイミは鬼瓦、ビャッカは彫刻を意味するそうです。
これらを考えると、百済かきた職人はペルシャ人か、またはペルシャ語が百済に伝わり、職人の名称を直接ペルシャ語から使用したか。もし、これが正確だとすると法興寺や法隆寺はペルシア様式と何らかの関係性があることを示唆していると思われます」
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◆きっかけは門脇禎二そして松本清張『眩人』
おそらく門脇禎二の『邪馬台国と地域王国』第Ⅲ章「民族文化の形成」の五章にある「日本海文化とヤマト朝廷」「奈良の都に来たペルシア人」を参照して、このサイトの記事は書かれたのではないかと思う。
西域(胡)からの民族移入については、ちょうど筆者が社会人になって間もない頃、松本清張が晩年になって発表した長編小説『眩人』(げんじん、旧題「幻人」)が取り扱ってやや話題になったことがある。
西域(胡)からの民族移入については、ちょうど筆者が社会人になって間もない頃、松本清張が晩年になって発表した長編小説『眩人』(げんじん、旧題「幻人」)が取り扱ってやや話題になったことがある。
しかし同じ松本清張の古代史推理ものとしてはやはり邪馬台国問題の方が話題性が高く、それに学者も(清張と長く仕事をした若き日の門脇ですら)ほとんど真面目に省みなかった。
門脇禎二らしき人物は清張作品では『火の路』にちゃんと登場してくる。
ゾロアスター教は宗教としてはちゃんと日本に入ってこなかった、というのが当時の門脇のどうしても曲げられない意見だった。ところが清張はゾロアスター教どころかペルシア人がちゃんと来ていたとして、ついに彼自身を小説に引っ張り出して批判したのだった。
門脇禎二らしき人物は清張作品では『火の路』にちゃんと登場してくる。
ゾロアスター教は宗教としてはちゃんと日本に入ってこなかった、というのが当時の門脇のどうしても曲げられない意見だった。ところが清張はゾロアスター教どころかペルシア人がちゃんと来ていたとして、ついに彼自身を小説に引っ張り出して批判したのだった。
筆者も当時週刊誌か何かでうすうす話は知っていた。確かにたまの休みに飛鳥へ行くと、どう見てもイラン系としか思えない奇妙な帽子の石像が突っ立っていて、猿石や酒船石などの石像とともに「へえ?」な代物があったことを覚えている。
西域からの遺物はシルクロードをラクダや船に乗せられて草原、海を経て中国から正倉院に入れられた、程度のことは、まともに学校へ通ったものなら、日本人全員が知っていることだろう。NHKでもよく放映があるからほぼ全日本人が知っている。そして飛鳥へ行けば必ず石像の前でスナップ写真を撮った覚えがあるはずだ。そして唐招提寺のエンタシスの柱も、シルクロード経由で、知識としてやってきたと学校では教わるはずである。和辻哲郎の名とともに覚えている人も多かろう。
◆秦氏とシルクロードとゾロアスター(拝火)教
その後、秦氏の研究を開始して、すぐに秦氏ユダヤ由来説とともに秦氏拝火教徒説も耳目に届いていた。
しかし手順として、その魅力あるところにすぐに入るわけにはいかなかった。まず近いところからの分析から入って、可能性を次第に遠くへという考えがあったからだ。で、そのうちあまりに荒唐無稽なこの考えはすっかり忘れてしまうこととなった。
その後、秦氏の研究を開始して、すぐに秦氏ユダヤ由来説とともに秦氏拝火教徒説も耳目に届いていた。
しかし手順として、その魅力あるところにすぐに入るわけにはいかなかった。まず近いところからの分析から入って、可能性を次第に遠くへという考えがあったからだ。で、そのうちあまりに荒唐無稽なこの考えはすっかり忘れてしまうこととなった。
ぼくは秦氏ユダヤ由来よりも九州の多氏なら菊花紋を持っているようだから中近東からの来訪はありえるとうすうすだが感じてはいる。秦氏の「はだ」は朝鮮語のPadaで、これは海からの来訪者であるから、同族となったすべての「渡来」を指す氏族名であろうから、伽耶やかつての秦韓の人、あるいは秦氏に組したものならすべてが大きな族名・・・つまり氏であるが・・・を名乗った。決して血族なのではなく、たとえばあとから来たペルシア人や拝火教徒、キリスト教徒、蝦夷(えみし)だってなんだって、仲間になればみな秦氏なのだと考えている。そういうことだから秦氏は茫洋としていて、広すぎることになった。
その忘れかけていた西域人の渡来を、今回、門脇の一文が思い出させることになってしまった。
その忘れかけていた西域人の渡来を、今回、門脇の一文が思い出させることになってしまった。
◆伊藤義教と井本英一のペルシア研究
上記サイトと門脇が参考にした大元の著作は別にある。
それは伊藤義教(いとう・ぎきょう。伊藤 義教(いとう ぎきょう、1909年 - 1996年)は日本のイラン学者。文学博士、京都大学名誉教授、日本オリエント学会名誉会員、山口県三隅町(現:長門市)の浄土真宗本願寺派明恩寺第17世住職。)の著した
上記サイトと門脇が参考にした大元の著作は別にある。
それは伊藤義教(いとう・ぎきょう。伊藤 義教(いとう ぎきょう、1909年 - 1996年)は日本のイラン学者。文学博士、京都大学名誉教授、日本オリエント学会名誉会員、山口県三隅町(現:長門市)の浄土真宗本願寺派明恩寺第17世住職。)の著した
『ゾロアスター研究』 岩波書店 1979
『ペルシア文化渡来考』 岩波書店 1980
『ペルシア文化渡来考』 岩波書店 1980
からの言及である。
当時、ほとんど誰も読まなかったような専門書扱いだった。
図書館などへ行けばたいがいどこでもあるはずだ。
当時、ほとんど誰も読まなかったような専門書扱いだった。
図書館などへ行けばたいがいどこでもあるはずだ。
もうひとり、伊藤と同時期に日本とイランの文化を比較し、渡来したイラン人考察を展開した作家が登場している。井本英一である。『古代の日本とイラン』学生社 1980
これらの書物が共通して扱っているのが、飛鳥時代の天平芸術及び飛鳥寺などの日本最古の伽藍建築にペルシア語の建築工人としての職名を名前として記録された人々のことである。要するに宝王女=のちの皇極・斉明女帝が幼少の頃、彼等が百済の僧侶とともに父崇峻天皇に百済から献上されてやって来るのである。蘇我馬子と聖徳太子が幼かった時代の話である。
◆エンタシスを持ち込み、日本の神社仏閣の様式を作り上げたのはペルシア人。そして・・・
要するにそういうことになるのだ。
「そして・・・」の部分は後述する。
「そして・・・」の部分は後述する。
われわれはせいぜい、ペルシア人が物好きな女帝に招かれて石像文化を持ち込んだ・・・程度にしか考えていない。ところが、飛鳥時代の伽藍建築、装飾、天寿繍帳のゴブラン織り、はたまた斉明女帝のたぶれた心を慰めたあの亀型流水祭祀遺物も、みな、彼等ペルシア人が直接指導し、作り上げていった。
つまり日本の、大和以来の社寺建築、芸術品のすべての基盤を胡人が造りはじめたことになろうか。
つまり日本の、大和以来の社寺建築、芸術品のすべての基盤を胡人が造りはじめたことになろうか。
そういえば蘇我馬子の息子の蝦夷の名は蝦夷を乳母としたからだし、そのまた息子の入鹿のあだ名は鞍作という渡来人馬具製作氏族を乳母にいたからで、ひょっとすると秦河勝だってペルシャ人だったとしても少しもおかしくないグローバルな時代が飛鳥時代なのである。
寺院に深く関わる仏像製作者だった鞍作止利(くらつくりの・とり)が、実はペルシア人だったとしてもおかしくはない。
そればかりか蘇我氏が日本海蝦夷とペルシア人の混血である可能性すら出てくることになる。
すると聖徳太子が厩で生まれる話も?
すると聖徳太子が厩で生まれる話も?
おいおいちょっとまて、それはいいが、まさか蘇我氏も太子も秦氏もイラン人かい?とはならないからご安心を。ぼくはそれほどおっちょこちょいではない。
ではその元の文を
『日本書紀』『元興寺縁起』および同縁起に引く露盤銘(ろばん・めい)
「崇峻1(588)年,百済は仏舎利,僧侶のほか,寺工(寺師)の太良未太(丈羅未大),文賈古子,露盤博士の白昧淳,瓦博士の麻奈文奴,陽貴文,〓貴文,昔麻帝弥,画工の白加,陽古などの人たちを派遣した」
『日本書紀』『元興寺縁起』および同縁起に引く露盤銘(ろばん・めい)
「崇峻1(588)年,百済は仏舎利,僧侶のほか,寺工(寺師)の太良未太(丈羅未大),文賈古子,露盤博士の白昧淳,瓦博士の麻奈文奴,陽貴文,〓貴文,昔麻帝弥,画工の白加,陽古などの人たちを派遣した」
中国・朝鮮風の瓦葺きの元興寺(法興寺,のちの飛鳥寺)が彼等の技術で造営された。これはまず間違いのない事実であろう。
さらに彼等を監督し、五重塔などの巨大な心柱技術や柱に用いる巨木処理技術、つなぎの技術を持ち込んだのは飛騨の匠だったと考えられる資料もある。(後述)
さらに彼等を監督し、五重塔などの巨大な心柱技術や柱に用いる巨木処理技術、つなぎの技術を持ち込んだのは飛騨の匠だったと考えられる資料もある。(後述)
「発掘調査により,同寺の伽藍配置は高句麗や百済の寺院の例に類似することがわかっている。太良未太らの一行は百済人であるが,人名の特異な人もおり,ペルシャなどから中国南朝を経て移住していた人が含まれるかもしれない。 (鈴木靖民)」
「かもしれない」ではなく、上記の人名のすべてが朝鮮にはない名前である。
そこでオリエントの専門家だった京都大学名誉教授の伊藤義教は、長年の経験から、これはペルシャ語ではないか?と考察し、分析を開始。
その結果、こういうことが判明した。
「かもしれない」ではなく、上記の人名のすべてが朝鮮にはない名前である。
そこでオリエントの専門家だった京都大学名誉教授の伊藤義教は、長年の経験から、これはペルシャ語ではないか?と考察し、分析を開始。
その結果、こういうことが判明した。
伊藤以前まで、日本の学者は彼等が全員百済人だと思い込んで、何も疑わなかったのである。まさか本当にペルシャ人が飛鳥まで来たはずはないと。それは百済経由である。だから半島では中国の技術を学ぶさいに中国にすでに来訪していた西域人の技術者を熟知し、その技術の高さも知っていたからこそ、自国に彼等を招聘していたのだろう。それを日本に提供したのである。
なぜそうしたかというのはすでに過去聖徳太子がらみで分析した。
日本の飛鳥時代は朝鮮三国時代と呼ばれ、公孫氏燕国のあと北東部から中国が高句麗を伺い、高句麗は南下せざるを得なくなって半島南部は混乱の時代となる。まさにあの広開土王の時代である。
百済は日本に援助を求めえう交換条件として王仁(わに)博士や技巧者たちを送り込むのである。仏教経典伝来と漢字の伝来である。
なぜそうしたかというのはすでに過去聖徳太子がらみで分析した。
日本の飛鳥時代は朝鮮三国時代と呼ばれ、公孫氏燕国のあと北東部から中国が高句麗を伺い、高句麗は南下せざるを得なくなって半島南部は混乱の時代となる。まさにあの広開土王の時代である。
百済は日本に援助を求めえう交換条件として王仁(わに)博士や技巧者たちを送り込むのである。仏教経典伝来と漢字の伝来である。
それで飛鳥最初の百済様式の寺が飛鳥寺であり、それはのちの元興寺、つまり今の法隆寺などの前身だった。ゆえに伽藍建築の始まりは(あくまで大和地方ではの話であるが。ほかの地域は資料がないだけ。大宰府の観世音寺のほうが古い説もある)彼等ペルシア人技術者たちの手によって始まったということが可能である。
これは蘇我氏の招聘であろう。
しかしその後、蘇我蝦夷・入鹿親子と斉明女帝の間柄は険悪になった。
しかしその後、蘇我蝦夷・入鹿親子と斉明女帝の間柄は険悪になった。
この斉明女帝(皇極重そ)というのが酒船石遺跡の「たぶれ心の溝」の製作者である。
酒船石真下に亀型石造物と祭祀の水路を作らせた張本人である。
この亀の形がペルシアから来ている?
酒船石真下に亀型石造物と祭祀の水路を作らせた張本人である。
この亀の形がペルシアから来ている?